-4- コーヒーと紅茶
ヌオーがキズミ宅の玄関チャイムを鳴らす横で、キルリアがそわそわしていた。
アイラも、緊張感でぴりぴりしながら事の成り行きを思い返す。
ミントグリーンのトップスに七分丈の黄色い薄手のカーディガン。細身の白パンツ。シンプルなサンダルはローヒールで歩きやすい。同じパンツルックでもお決まりの濃灰スーツを着込むより、休日に服を選んで着るほうが楽しい。仕事着の堅苦しさをまとわないアイラからは、等身大の少女の表情がこぼれていた。売り物の綺麗な花々は良い香りがして、気持ちが安らぐ。できれば買っていきたいけれど、衛生上病院には持ち込めない。夫婦で花屋を営む元警官ベリンダが気前よく、おすすめのソープフラワーのアレンジメントを値引きしてくれた。
昏睡中の父親を見舞うたびに胸を締め付けられていたが、今日は幾分冷静でいられた。新居を持ったことで、早く意識が戻ってほしいという焦りに整理がつき、上司の代理をやり抜く腹がくくれたのかもしれない。容体も安定しているので、急変してどうにかなってしまうのではないか、という悲観もだいぶ抑えられるようになった。もし目を覚ました時に、石鹸の良い香りがする造花が飾ってあればきっと喜ぶ。そう思うようにすると、今度はどんな見舞いの品にしようと前向きさを持てた。
帰り道。
この街はやたらコーヒーショップを見かける。紅茶も流行ればいいのにと思う。
ベリンダの独身時代に使っていた家財をいくつか譲ってもらえることになったので、業者にお願いせず自分たちで住まいへ運び込めば、引っ越し費用が随分浮きそうだった。日程はいつがいいだろう。どんなに重い物でも、サイコパワーを扱えるキルリア=クラウがいれば百人力だ。
アイラから頼りにされて、当のクラウは謙遜した。
(キズミさんとミナトさんにも、手伝ってもらったらどうでしょう?)
「だ、だめよ! 男の子を気安く家に入れちゃ」
僕もオトコですが、と首をかしげるクラウ。
「留紺は? 手伝ってくれる?」
アイラがたずねると、ヌオー=留紺が何かを思いついた表情になった。
(ええっ! ウルスラさんにも聞いてみる!?)
赤い目を丸くして、クラウがほぼオウム返しに通訳した。
――その足でマンションの一室を突撃訪問したヌオーと、ヌオーを放っておけないふたりが招き入れられた。
「押しかけて悪いわね」
顔を合わせればいがみ合う部下のキズミは留守らしい。
敵地へ乗り込む思いだったので正直、アイラは気が楽になった。
(立ち話もなんですもの。コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?)
その部下に仕えているウルスラは、殊勝だ。
上司に好印象を持っていなかったとしても、言い方にある棘がごく小さい。
「私は紅茶で……ダッチェス! 来てたのっ」
(元気かいアイラ。じゃあ、おやすみ)
色違いのブラッキーが尻尾をくねらせて、別室へ引っ込んだ。
引き留めて話をしたかったが、ダッチェスは密度の高い空間を好まないのでやめた。
(あら。アイラ様もコーヒーのほうがお好きだと思っておりましたわ)
「仕事中はね」
“も”を協調された気がする。誰を指す“も”か、深読みしないようにした。
ベーシックで落ち着く部屋ね。と、いらない内見をして余計な感想を持ってしまった。
(留紺さんは、胡椒ミルクですわよね。クラウさんは?)
見惚れていたキルリアが直前に聞こえた知らない飲み物の名をとっさに復唱して、取り繕った。見惚れられていたラルトスがキッチンで支度しながら、テーブルの上の手作りクッキーを勧めた。留紺が代表して瓶の蓋を開けると、焼けた芳ばしい香りがふわっと立った。おのおの一枚手に取り、さくっと小気味よくひとかじり。
「おいしいっ!」
(ほんと、最高です!)
自然な甘味の凝縮されたレーズンや食感のいいクルミ粒が、ほんのりバターの塩気の利いた生地とほどよく引き立て合っている。人とポケモンの両方の舌をうならせる絶妙のバランスを、どちらの体質にも安全な成分で作り上げていた。口の中が幸せで、笑顔を浮かべずにいられなくなる。ひとかじりが次のひとかじりを呼んで止まらなくなる味だ。
「すごいわウルスラ、お店をひらいてほしいくらい!」
アイラの灰色の眼が、純粋に輝いている。
手放しで賞賛されると、ウルスラは反応しづらかった。
こんなことが続けば、そのうちに。
キズミが特別気にかけている女性への一方的な警戒心が、煮え切らなくなってしまう。
(ありがとうございます。アイラ様こそ、クラウさんからお料理上手とお聞きしましたわ)
「どうかしら。失敗しても、クラウは文句言わないから」
(お優しいのですわね)
カップを乗せた盆を念力で運んできたウルスラの微笑み。
赤くなったクラウが俯いた。
が、マグカップを置かれた瞬間、クラウは木槌で頭を殴られた気がした。黒と茶の粒が水面に寄り集まり、落ち葉がどろどろにふやけてとろみをつけている、白く濁った醜悪な池。とでも表現したら良いのか。本能が口をつけることを拒むほど奇怪だ。
見解の相違で、ヌオーは吸いこむように飲んでいる。
ソーサーが食卓上に接した振動で、ティーカップの中の琥珀色がほのかに揺れた。
砂糖とミルクの容器も添えられた。
「紅茶も、美味しい」
(わたくしも、紅茶は好きですから)
アイラへ不用意に答えたことにはっとして、ウルスラは話題を変えた。
(それで、わたくしに御用というのは?)
「今度大きな荷物を部屋に運ぶから、あなたも手伝ってくれないかなと……」
(そうでしたの。お安い御用ですわよ)
(何してるんですか?)
マグカップの液体を飲めずにいるクラウが、後ろから留紺を覗き込んだ。
屈んでごそごそしていたヌオーが振り向いた。据え置き型の家庭用テレビゲーム機の電源がオンになっている。テレビのディスプレイには「スーパーポケモンスタジアム サン&ムーン」と、ゲームソフトのタイトルが表示されていた。
「あなた、それで遊ぶの?」
目をしばたたくアイラ。ヌオーは何食わぬ顔で、ラルトスを手で示した。
「ウルスラも?」
(実は、わたくし……)
「すごいのね。私、こういうの全然やったことなくて」
もじもじしていたウルスラが、顔を明るくした。
(でしたら、ご一緒にいかがです?)
数分後。
四人対戦の『ドンファンカート』にて、データ史上最悪のタイムが叩きだされた。
(違いますわ、違いますわ! そこはダッシュからのブレーキでターンですの!)
(あ! アイラさん一番弱いNPCに抜かれましたよ! ある意味すごい!)
「ちょ、ちょっとみんな、静かにしてっ」
ヌオー=留紺が時折、悟りを開いた僧侶のような風体でうなずいた。
(ピチューバリアーが来ますわ! ああ、そこのピィハリケーンにご注意あそばせ!)
(アイラさんコース、コース! 逆送! ある種の才能かもしれません!)
「ああもう、静かにしてってば!」
「ゲームって難しいわ」
クラウと留紺の二人プレイを尻目に、アイラがこぼした。
「お茶も頂いちゃったし。何か、お礼しなくちゃね」
と、心惹かれる可愛らしい微笑み。
ウルスラの胸の中が、ざわっとした。
一つ、こちらの願いを聞いてくれるのならば。
きずみさまにもうめいわくをかけないでください。
こんな事、言えない。
彼女を嫌いになりたくない。嫌いになれば、自分の事も大嫌いになりそうで。
(……行ってみたいカフェがあるんです。そこはいつも、女性客で混んでいまして。よければダッチェスさんもお誘いして――)