-3- 友愛
ゆうべもよく眠れなかった。
朝遅くまでベッドに横になっていたが、キズミは二度寝を諦めて寝室を出た。
「出かけてくる」
ラルトス=ウルスラに訊かれる前に、昼食はいらないと答えておいた。
アルストロメリアは暮らしやすい街だ。寒暖差こそあれ気候は穏やか。個を尊ぶ気さくな住民性で亜人にも馴染みやすい。地方有数の公園数を誇り、名門大学を擁している。木々の緑が隣在する中心部の都市は広すぎず、公共交通機関が充実している。直通の路面電車に乗れば空港にも行ける。郊外には大自然が残り、よく晴れた日は街中から万年雪を頂く山脈の美しい最高峰を望め、車を二時間も走らせない距離で登山からスキーまで四季折々のアクティビティを楽しめる。地域の特性を活かした企業が多く、港湾都市らしく産業が盛んだ。食文化も豊かだ。カフェがたくさんあってコーヒーが美味しい。欠点は、ダウンタウンの一部で夜間の治安が悪化することや、人口が知れているので働き口に限度があること、大都会ほどの刺激がなく住民によっては見どころを感じないことだろう。
ジョージ・ロングの退院のきざしがないまま、季節は真夏に差しかかっている。
キズミは情報通を尋ねて回った。ほぼ全員が市内に住む野性か亜人の携帯獣だ。ロング警部のお抱えの引継ぎや、解決した事件の元被疑者や元被害者だった。襲撃犯の逮捕につながりそうな有力情報は残念ながら、得られないでいる。引き続き協力してもらうためにポケットマネーでまかなうチップは、少額も積もれば山となる。アイラには知られたくない独断専行なので、事前承認が要る捜査費は申請していないのだ。路上パフォーマーの陽気なバリヤードから気になる心霊ネタを少し聞けたが、本命の収穫は今日も空振りだった。
よく歩き回った。上着が暑い。ショルダーホルスターに特殊警棒と拳銃型射出器を忍ばせていなければ、とっくに脱いでいるところだった。腰ベルトに取り付けるタイプのホルスターは見え隠れしやすく、私服姿と組み合わせにくいのだ。どうも頭がすっきりしない。行きつけのカフェで一息入れるか。高架下沿いを歩きながら一番安いコーヒーの事を考えていると、後ろからワンと吠えられた。
走ってきたガーディ=
銀朱が脚にじゃれついた。鋭い嗅覚で探し当てたのだろう。
「お前んちに遊びに行ってやったのに、留守なんて聞いてねーぞ」
ミナトが悠々と追いついた。。
「元気ねえな。ぱーっとゲーセンでも行くか? それかネーソス?」
「ほっとけ。俺は元気だ」
「
銀朱。オトナの話するからちょっと、向こう行ってろ」
ミナトに言われ、
銀朱は離れた場所に伏せた。目を瞑り、両耳に前足を乗せた。
はあーと大袈裟にため息をつくミナト。怪訝な顔で声をひそめた。
「寝不足なんだろキズミ。隣を意識しすぎじゃねえか? お前にとっちゃ二度と危険に遭わせたくねえ人だろうが、ウルスラにとっちゃ恋敵だ。でけえストレス抱えたアシスタントは加減知らずで『シンクロ』の精度を爆上げする。だから日頃無自覚に『シンクロ』を通じてトレーナーの健康を蝕んじまう。知らねえとは言わせねえぞ、『ハイ・リンク』を。一回医者に診てもらえ」
大きなお世話だ、とキズミは顔をしかめた。反撃のカードをちらつかせた。
「近頃、市内にゴーストポケモンが増えとるらしいで」
「何が言いてえかさっぱりだぜ、相棒」
このまま首根っこを押さえ合う流れに突入する前に、霊媒少年が利口に切り上げた。
おーいと呼ばれた
銀朱が嬉しそうに戻ってきた。
「そうだ、野球遊びしようぜ! オレ家から道具持ってくるよ!」
植物の緑と空の色しか目に映らないような。
ミナトの案内で、広大な芝生広場に移動した。
バッターはキズミ。ピッチャーはミナト。
球拾いには、大興奮のガーディが任命された。
「次、ミスったら交代な。キズミ!」
三球目。球筋に甘えは無い。負けず嫌いなプラスチックバットが振り切られた。
打撃は、犬ポケ用玩具のゴムボールを高く長くはじき上げた。
ミナトの声がうきうきした。
「フライ!」
ガーディが予測落下地点に走り込み、狙いを定めてジャンプ。
ぱくりと空中でキャッチ。
「スリーアウト! へへっ、惜しかったな」
ミットとバットの持ち主が入れ替わる。
キズミは肩をぐるぐる回し、ミナトは素振りをしながら言った。
「
銀朱ー、オレが打ったのはワンバンしていいからなあ!」
「ミナトの言うことは聞かなくていい。守備は頼んだぞ、
銀朱ー!」
ガーディは首をかしげ、なんでもいいので次の球が楽しみで尻尾を振った。
◆◇
昨晩、色違いのブラッキー=ダッチェスはキズミの自宅を訪ねた。レンタルバトル施設、バトルネーソスのオーナーから気に入らないドレスを着せられそうになり、怒って逃げ出したのだ。
起床したのは、ミナトが宿泊時に愛用しているソファの上。くあーとあくびをして、前足をぴんと張って伸びもする。窓からは昼過ぎの明るさの太陽光線が差し込んでいる。意外とくつろげる。これからはバトルネーソスとこの家を行き来する、気ままな居候生活もよさそうだ。
「おはようございますダッチェスさん。お昼、召し上がります?」
ふわりと背もたれに舞い降りたウルスラがテレパシーではなく、生の声で訊ねた。
「今はいいよ、ありがと。キズミは?」
「出かけてくる、とだけ。行き先はおっしゃいませんでしたわ」
一緒に行きたそうだった物言いに、ダッチェスがにやりとした。
「アンタ、アイツのどこにそんな入れ込んでるんだい?」
ぽっと赤くなった頬を手で押さえ、ウルスラが荒ぶった。
「い、いやですわダッチェスさん! いきなり何を申されますの!」
「ほれほれ、言ってみな。いつから? 理由は?」
真っ黒な体毛に刻まれている青いリング模様をぴかぴか光らせて、煽る。
「そこまで気になるのでしたら……本当によろしいですの? お時間を取らせますわよ? あっ、では、手短に……ちょっとだけ、きゃー! やっぱりダメですわ、恥ずかしい!」
もじもじがピークに達した途端、背もたれの上で狂ったように足踏みした。
「あ、でも、無理にとは言わないよ」
恋する乙女をいじると奇行を見物できて面白い。
ダッチェスは趣向を変えて、キルリアの片想いが実る確率にも探りを入れる。
「クラウのことは? アシスタント仲間なんだろ」
「クラウさん? 真面目ですし、バレエがお上手ですし、最終進化したいという志は立派ですわ」
「そんだけ?」
うーんと考えてから、ウルスラは他の良さを取り上げた。
「どんなに気難しそうな方とも対話できるので、協調性も高いと思いますわ」
「やっぱりアンタ、アイラに意地悪だね」
「そういう意味で言ったのではありません!」
しとやかさが売りの優等生らしからぬ、強気な否定だった。
「はいはい」
不真面目にあしらう。色恋話の続きより、興味を引かれる回答が先ほどあった。
「進化願望って、立派なことなのかい?」
ダッチェスは、自分から望んで進化したのではない。
ウルスラは理解したうえで補足する。お茶を濁すほうが喜ばれないだろう。
「わたくしは、そう思いますわ。わたくしには望めないことですし」
「したけりゃすれば、いいじゃないか」
不思議そうに勧める側に対し、勧められた側は切なそうに微笑んだ。
「わたくしが『トリックルーム』や『手助け』などのサポートを行うたびに、キズミ様のご心身に大きな負担をかけるということは、前にもお話ししましたわよね」
『シンクロ』を用いた人間の心身強化術の本来の用途は、緊急用だ。アシスタントを除く携帯獣戦闘員の全滅時に、国際警察官が戦線離脱するための護身術である。
「ああ、聞いた」
「サポートに用いる特性『シンクロ』は、進化をすると力を増しますの。わたくしが進化できない理由はそこですわ。キズミ様とはすでに強い心の結びつきがありますのに、これ以上強めてしまっては……キズミ様のお体に良い影響を及ぼしません。たとえば……眠るたび悪夢にさいなまれるようになり、満足な睡眠を取れなくなるのですわ」
なるべくなら喋りたくないという思いがありありとした、抑揚に乏しい暗い口調だった。
「進行すると頭痛や吐き気、その他の不調も常態化し……末期になるとひどい場合、悪夢と現実の区別ができなくなる精神崩壊に至るそうですわ。疾患名は『ハイ・リンク』と呼ばれております」
黙って聞いていたダッチェスは、ちろと牙の裏を舐めた。彼らの関係が大きな代償をはらんでいると分かってきて、複雑な気分だ。将来を有望視されていた警官だかなんだが知らないが、ウルスラにこんな重荷を背負わせて。キズミはどうかしている。
「ボールに収まったり、こうして時々おそばを離れることが、わたくしにできる対症療法ですわ」
「そんなこと言ったって、アンタしか手持ちがいないじゃないか。『シンクロ』に頼り続けると言ってるようなもんだ。何考えてるんだい、アイツは」
「色々と事情がありまして」
「そんな面倒くさいヤツと暮らしてて、よく耐えられるね」
「素敵な殿方ですもの」
どさくさで惚気たウルスラに、ダッチェスはぐいと顔を近づけた。
「で、結局どこに惚れたのさ?」
相手が照れた隙をつき、黒い尻尾の先で白い脇腹を『くすぐ』った。
「喰らいなっ」
「きゃあああ」
騒いでソファをみしみし言わせていた白と黒を、ドアチャイムが正気に戻した。
笑いすぎて心臓をバクバクさせたウルスラが、ドアスコープを覗く――と。
見知った水色のとぼけた顔面が、レンズいっぱいにどーんと映っていた。