NEAR◆◇MISS - 第六章
-2- 手持ちの心得
 ハーデリア=オハンはアイラのことを、実の孫のように思っている。実の孫といっても、独り身の老犬がする想像でしかないが。一人の少女に誓った忠誠心とはまた別の、もし孫がいれば祖父はこんな気持ちになるのだろうという、目に入れても痛くない感情なのだ。先々々代と先々代に仕えた働き盛りとまではいかずとも、先代の主人ジョージ・ロングロードから愛娘の守り役を任された晩年を、有意義に過ごせている。
 幼少期のアイラが国際警察の施設に預けられた時分から、成長をそばで見てきた。父ジョージに勧められるままによく話し合いもせず、国際警察官になる道を決めた。義務教育期間と並行する長期カリキュラムを選択した。難関の指導クラスに入ることが許された。優秀な成績を維持するために、学業優先で同期付き合いをおろそかにしがちで周りから浮いていた。社交的なアシスタントのキルリアは良い話し相手だったので、表向きはアイラは寂しがっていなかった。飛び級で国際警察に採用された喜ばしい発表日に父親のコネではないかと陰口を叩かれていたことも、オハンは知っている。
 アイラがどれほど健気か。どんなに父親の存在を心の拠り所にしていたか。
 ジョージ・ロングを昏睡させ、彼女を不幸せな目に遭わせた外道が憎い。
 不憫な娘を傷つけるだけの金髪の若造と軽薄な黒髪の若造のことも、気に食わない。
 近頃は、色気づいているキルリアのクラウが気がかりだ。人間に、それも世界各地に赴く国際警察官に仕える身で恋愛を成就させるなど、まして添い遂げるなど無用な幻想。片想いにうつつを抜かす者に、アイラの右腕が務まるであろうか。主人であるアイラとおのが愛しき相手の両方が危機に陥った時、アイラを即決できるだろうか。あり得ない裏切りだが、駆け落ちして愛に生きたところで先はない。人の手で育てられた者があっさり適合できるほど自然界は甘くない。主人の下を離れたせいで愚かにも鍛えた力を持て余し、犯罪に走る同胞もいる。若いクラウが分別を欠く前に、腰を据えて説教してやる必要がありそうだ。
 フライゴンのライキにも一言、言いたい。あの竜娘は下手くそな乗り手を嫌い、アイラ以外をまともに乗せたがらなかった。ところが腕に少々覚えがある金髪の若造と一度飛んだくらいで、一目置くようになった。なんと尻が軽いのか。ひと昔前まで、世の携帯獣は主従関係を結んだ人間を絶対視していたというのに。最近の若い携帯獣はたるんでいる。
 心配の種はそれ以外にも。これが一番頭が痛い。銀朱という名のガーディだ。これまで見てきた後輩犬のなかでも群を抜いて、警察犬に向いていない。臆病で甘えん坊、食い意地が張っていて、勤務時間中に腹を出して昼寝する。特別鋭い嗅覚という秀でた一芸がかろうじて、体面を保っている。可愛がられてメンタルセラピーを請け負うのが仕事の家庭犬であれば天職だったであろう。同じ犬型の種族でも、人間のように思慮深く理性を重んじる者から、単純明快さを好み獣の本能に生きる者まで、千差万別の個体差がある。優しく人懐こい犬の気質が強い銀朱は、まだ歳が幼い。厳しく鍛え直せば今より警察犬らしくなれる希望があるというのに、銀朱の主人である金城湊とその友人キズミ・パーム・レスカの見通しときたら、甘すぎる。乾燥モモンの実をハートスイーツで固めた菓子より甘い。


 オフィスで事務作業に追われているアイラに許可を取り、オハンは警察庁舎の開放屋上に来た。
 嗅ぎ当てていたとおり、ヌオーの留紺とガーディが自主特訓中だった。煙草の臭いをしょっちゅうさせている男、居眠り常習犯のポワロ・フィッシャーもいた。目を閉じて頭の後ろで組んだ腕を枕にしている寝姿を見るに、休憩終了時間はとうに過ぎているだろう。悪い手本だ。銀朱をああいう怠け者にさせては駄目だ。オハンは不機嫌の癖であくびをした。塔屋のそばに伏せて、特訓を観察させてもらう。種目は単純な力比べ。両手でガーディの頭を押すヌオーと、ヌオーの両手を頭で押すガーディ。ぬるぬるの粘膜で頭が滑っている。小出しにしている水魚の『怪力』に、子犬は一歩も前進できない。ばたつかせる足の爪でかりかりと陸屋根を引っ掻いていた。とうとうへばって、はあはあと舌を垂らして降参した。
 あの弱さだと、自分が屋上に向かっている途中の勝負数も入れて全敗したのだろう。ぶざまだ。オハンは苛ついた。前足で、老いてぱさぱさした口ひげを掻く。若いガーディの手並みはふさふさで毛艶も良い。キズミがまめにブラッシングしているらしい。俳優犬やコンテスト犬か何かと勘違いしている。見た目を手入れする前にみっちりしごけば良かろうに。
 留紺がバトルの練習に誘うと、銀朱は縮みあがった。水攻撃を怖がっているのだ。天敵を克服する気概のない犬は警察犬にあらず。オハンの長い眉がぴくぴく引き攣る。折を見て技の一つでも伝授してやろうかと考えていたが、それ以前の水準だ。どこまで失望させるのか。留紺のほうは、駄犬を叱ろうともなだめようともしない。微笑を常に浮かべた水魚から考えを読み取るのは難しい。特にあの、点のような小さい目。ポーカーフェイスの根源だ。結局、ひと休みしようという話でまとまった。銀朱が元気よく紙の手提げ袋を取ってきた。留紺が袋を漁り、取り出したのは青くて丸いオレンの実。空気中に混じっていた美味しいとも不味いともつかない、不思議な香りが濃くなった。銀朱が一つ咥えたまま、塔屋のそばのオハンをじっと見つめた。手前にやって来て、実を差し出すと尻尾を振った。何の気なしの、分かち合い。おめでたい子犬の笑顔は誇り高い警察犬にほど遠かった。

 たわけ!

 と、人間語に翻訳できる激怒を吠えた。もちろん聞き取れた銀朱は訳が分からず、腰を抜かした。角のすり減った牙で喉を捕らえて組み伏せると、キャンキャン情けない悲鳴があがった。夢中で這い出す銀朱。猛然と追うオハン。銀朱は震えあがって逃げ出した。留紺は呑気にオレンの実をはんでいる。飛び越えそこねた肉球が居眠り刑事の腹をどっすんと踏みつけた。ぎゃっと起きた男声を、オハンの後ろ足も蔑ろにした。丸々した尻を追いかけながら、鬼教官の形相を浮かべ続けた。この洟垂らしめが。少しは焦りを持て。犬型種族の寿命は人間ほど長くない。自分も老い先が短い。このままでは後進に道を譲れない。大先輩の危惧が何故伝わらない。何故分かろうとしないのか。

レイコ ( 2014/10/10(金) 22:23 )