-11- 特別顧問
ドレスアップには、慣れていない。ベージュ色のワンピースに、黒いショール。ヒールの高い、メタリックなパンプス。ブローチとイヤリングはフライゴンの尾先、つまりひし形の飾りひれがモチーフになっている。栗色のミディアムヘアは後ろをふんわり編み込んでまとめるのに苦労したけれども、出来栄えは悪くないはずだ。仕上げに、細いゴールドのカチューシャを乗せてみた。こんな感じで良かっただろうか。変ではないだろうか。船上ディナーに招待されるのは初めてなのだ。そういった場にふさわしいレディの自信が持てず、緊張するアイラを、オルデン・レインウィングスが紳士的にエスコートしてくれた。
アイラ目線のチェックでは、もともと端正な容姿のキズミは無性に腹が立つくらいさまになっている。前髪をセットして額を出すと仕事姿より凛々しさが上がっていた。金髪はグレーのスーツに映え、水色のチーフがパフドスタイルで小洒落ている。同じ色のネクタイには、ヌオーの尻尾を模したタイピンが留められていた。
遊び心があって可愛い。洒落っ気のない男なので、ラルトス=ウルスラのテコ入れだとアイラは思った。自宅でミナトとエディオルと留守番だが、若者向けのビジネスファッション誌から抜け出した男性モデルのような今宵の彼に、ウルスラはついて行きたくてたまらなかっただろう。
待機していたロビーを出て、スタッフの案内で乗船した。足元はしっとりと厚みのある絨毯。高級ホテルの内装みたいだった。大きな窓から夜景を見渡せる上品な個室に通されると、非日常感の虜となった。なんて贅沢な空間だろう。ひょっとしてプロポーズに使われる貴賓室なのでは、とロマンチックな推測をめぐらせたアイラは気恥ずかしくなった。
二時間かけてアルストロメリア湾をクルージングする四階建ての客船が、出航した。
チェック柄のシャツに、黄色のネクタイ。褐色のスーツは涼しげなリネン素材だ。金髪の部下と並ぶとますます特徴の薄い覚えにくい顔立ちであるものの、部下にはない壮年男性の包容力がある。ワインに舌鼓を打つ丸眼鏡の紳士と、アイラは、ひょんなことからビジネス用メッセージツールでテキストのやり取りをしている。いわばペンフレンドだ。息子のエディオルが隣部屋に泊まりに来ると知り、知った以上は子守りに協力したいと、渋るキズミを説き伏せた。宿泊の翌日は午前と午後で休暇を分担させた。それをキズミが愚痴がてらオルデンに報告したらしい。ディナーに招待された理由は父親としてのささやかな感謝と、書面に残したくない個人的な依頼をしたいからだという風にあらかじめテキストで伝えられている。
コース料理の一品目は、まだ運ばれてこない。
「アイラさん。まずはお詫びします。私の明かした身分は正確さが不十分でした」
オルデンは眼鏡のレンズを拭き終わり、かけ直した。
「私は国際警察で、研究開発部の特別顧問を務めております」
「あ!」
と、アイラは椅子から立ち上がりそうになった。
「あのケースもしかして、中身はトランツェン!? てことは……」
直接キズミの手元に支給された、と国際警察本部の通知を受け取っていた。
紳士がケースを手渡す現場に居合わせた翌日から、キズミは新品の特殊警棒を携えていた。
「あなたがあの、情報非公開の天才顧問だったんですか!」
画期的な特殊装備アレストボールをはじめ、アレスターやトランツェンの生みの親。
すっとんきょうな声で裏の顔を補足された紳士は、謙虚に微笑んでいた。
とてもそうは見えません。とは、アイラは口が裂けても言えなかった。
「ごめんなさい、大声出して……あなたの秘密は、誰にも言いません」
オルデンはアイラに信頼を寄せた声音を返した。
「ありがとうございます。依頼というのはですね。現在、新装備が実用段階に来ておりまして。仮称は《スリープボール》、アレスターに装填して発射できる麻酔弾です。アイラさんの経歴は射撃成績が特に素晴らしい。ぜひ、実戦データの収集にご協力いただけないでしょうか」
「誰にでも一つくらい取り柄があるんですね」
ここぞと嫌味を放つキズミを、オルデンが眉を下げて諫めた。
「キズミ君」
カチンときたアイラは、胸を張った。
「私でよければ喜んで。そこの彼がピンチの時は、それで助けてあげられます」
デザートを堪能し、小菓子つきのコーヒーで口の甘みを整えた後、プロムナードデッキに出た。潮の香りが吹き寄せている。間近に広がる海面は乗客を誘い込む穴のように真っ暗だ。手すりに肘をかけながら、アイラは夜景に浸っている。女性的に着飾った上司からよそよそしく距離を置いているキズミの隣に、オルデンが並んだ。
「君も言っていましたのに。重い特殊警棒より、彼女が扱いやすい護身具があればと」
キズミが嫌そうに答えた。
「よしてください」
もしあの女上司に知られたら、大恥じだ。
「ところでキズミ君。一つ、頼まれてくれませんか」
オルデンからそう言って手渡されたのは、細長い箱。
ネックレスを入れるような、ジュエリーボックスだ。起毛素材で触り心地が良い。
「中に、アイラさんに差し上げたい品が。仕事の息抜きに作ってみました。アレストボールの縮小性能を超小型化に応用した、アクセサリー仕様のヒールボールが入っています。ピンクパール風の美観はロータの結晶根の組成をヒントにした、『癒しの波導』を放出する人工鉱物を用いた塗装です。息子を助けてくれたお礼と聞けば、受け取ってもらえないでしょう。君から贈って下さい」
「俺が……?」
「いい歳して口説いてると思われたくありませんしね。私を助けると思って」
嘘だろう。冗談だろう。無理難題だ。
ほとほと困るキズミの凝視する先で、恩師は人の好い笑みを浮かべたままでいる。
らちが明かないので、ものすごく嫌そうに引き受けた。どうにでもなれ、だ。
「先生を助けるためですからね」
平常心でいけ。動悸がしたら、気のせいだと思え。
目で筆のように柔らかくなぞれる、横顔の輪郭。くるりと上がった睫毛。艶めく唇。普段は髪に覆われている、すっきりとした首すじ。黒いショールが半透明にしている肩のなめらかさ。そんなところを見てどうするんだ、とキズミは自分で自分にツッコミを入れた。靴音が聞こえるには、まだ距離がある。今なら引き返せる。駄目だ、いくらなんでも格好悪いの極みだ。嫌われ者の分際でプレゼントなど、あさましい。これもすべて恩師のため。一瞬だけなら、ナンパなミナトが憑依されてもいい気分だ。どうやって渡せば自然なのだろう。そうだ、銃口だ。銃口を突きつけるイメージなら、挙動不審にならない。はずだ。馬鹿みたいだが、この方法でいくしかない。
「どうぞ」
キズミは仏頂面で箱を差し出した。
横顔が振り向く。逆光だった。
どんな晴れ空より澄んだ雨雲色の瞳に、波のきらめきが映りこんでいた。
「これは何? まさかクラウに?」
「あなたにです」
ネックレスケースにしか見えないものを、しげしげと怪しんだ。
騙されない。きっと何かある。アイラは思い至った。
「びっくり箱でしょ」
「違います」
実際に披露したほうが早い。キズミが蓋を開けた。
胸元に来るペンダントトップは、小指の爪大のヒールボール。
ネックレスに興味のない男の目から見ても美しい。
アイラの目から見ればなおの事、男の感想以上に美しかった。
「これはすごい、逸品だ。さすが先生。あなたには……勿体ない」
「どういう意味よ!」
「ああ、めんどくさ!」
両肩を掴まれたアイラは、くるりと後ろを向かされた。
首すじの肌に触れるか触れないかの、きわどい熱源を感じる。
彼の指が、チェーンを留めようとしているのだ。震える小鳥のように待った。
また肩を持って今度は前を向かせた手つきは、一度目よりも優しかった。
「俺には似合うか分かりませんが、ミナトなら褒めてくれるんじゃないですか」
「……どこまで、感じ悪いのよ」
本当に口が減らない部下だ。悪かったわね。ウルスラみたいに可愛くなくて。
今すぐでも喧嘩を買ってやりたいけれど、いい夜を台無しにしたくない。
と、アイラは辛抱した。
「貰っていいの?」
「なんで一回付けたものを、返せと言わなきゃならないんですか」
「レスカ君、いい加減にしないと……」
「キズミ君、アイラさん」
オルデンにせかされて、船の下を覗いた。鮮やかなピンク色の潮流が輝いている。
尾びれの発光器官だった。波の下を、羽ばたく蝶のように泳ぐケイコウオの大群だ。
きれい。
胸の中、アイラはぽつりと心底の感嘆を漏らす。
綺麗だ。
自己嫌悪で萎れていたキズミの胸に、元気がふつりと湧いた。
夢のようなひと夏の出来事を乗せて、客船はゆったりと、発着場に戻っていく。