-6- ファースト・コンタクト
キズミの部屋に引き上げると、ミナトはソファを占拠して笑いころげた。
「すっげえ行動力、惚れちまうぜ警部補に。キズミもそう思うだろ?」
「悪夢だ」
「悪夢ぅ!? ビッグドリームの間違いだろ」
むくっと仰向けから起き上がり、クッションに座り直した。
「キズミは警部補を近くで見守れて、警部補はキズミが無茶しねえか見張れて、オレはここ遊びにくるたび警部補を口説ける。最高じゃんか! ウルスラ、代わろっか?」
(いいえ、わたくし……楽しんでやっておりますので……オホホ………)
ラルトスが泡だて器で、マッシュポテト用のジャガイモを潰している。
ぐちゃっ、ぶしっ、と薄黄色いどろどろがボウルから飛び散っている。
うん、とひと言頷いて、ミナトはそれ以上深入りしなかった。
「そだ、引っ越しパーティーもやらねえと。つーかおいおいおい、キズミ今夜は眠れねえんじゃねえか!? オレ今日も泊まってやるよ!」
「帰れ」
その頃、隣部屋も盛り上がっていた。
「こうやって腰を落ち着けるのは、パパの居場所を盗るみたいだけど……やっぱりいいわね、家って。さあ忙しくなるわよ!」
新居の大家は国際警察に理解があり、快く契約してくれた。
アイラが両掌を見せる。キルリア=クラウがそこにタッチした。
(頑張りましょう、ニューライフ!)
「そうねクラウ。まずは生活用品を揃えていかなくちゃ」
ゴミ箱代わりのレジ袋。
床に広げた新聞紙の上に、手荷物一式を固めてある。
寝床は新聞紙の上にさらに広げた、ぺらぺらな安物の寝袋だった。
明くる休日。いい天気だ。
前の大家に電話のやり取りで家具家電付き賃貸だった旧居の解約を伝えた後、しばらく気が抜けていた。国際警察本部の人事にも住所の変更を報告した。買いそろえなければならないインテリアにこだわる予算がないので、大型量販店でローコストの家具や家電製品を中心に見て回ったが、決め手に欠けた。ネット通販はあまり使いたくない。日を改めて別の店もチェックしよう。そうと決めたアイラの関心は調理器具に向かった。新居には念願のマイキッチンがついているのだ。冷蔵庫いらずの食材も買い込んで、クラウ達に久々の手料理をふるまってあげたい。
ヌオー=留紺とクラウにも戦利品をいくつか持ってもらい、夕方アイラがマンションに帰り着くと。
オートロック付きのエントランスの前で、部屋番号を入力しているらしき男性がいた。
インターホンがつながり、オートロックも開錠されたようだ。
「サプライズ成功の予感ですね。アフロ」
肩にとまっているチルットとキルリアの目が合い、同時に高い声をあげた。
「おお! ではあなた方が、息子がお世話になったという」
アイラたちに気が付いた中年男性はにこやかに顔をほころばせた。
丸いフレームの眼鏡に、ブラウンのスーツ。アタッシュケースを携えていた。
「お礼に伺うのが遅くなり、申し訳ない。名刺は今は、渡さないほうがよさそうですね。私はオルデン・レインウィングスと申します。その節はありがとうございました」
両手に持った膨れたレジ袋への配慮に、アイラは少し気分が上がる。
持ちましょうか、とも気遣ってくれた。さすがに遠慮したが。
この前助けたチルット連れの男の子の父親を名乗る紳士は、とにかく人が好さそうだった。ただし見方を変えれば、地味でぱっとしない。平凡をさらに希釈したように影が薄い。どこかで見たような朧げさもあるし、まったく覚えがないと断言できる気もする。次に会ったとき、顔を思い出すのに時間がかかるだろう。それはそれで、特異な個性といえるかもしれない空気をまとっていた。
「お礼にお茶などとお誘いしたいところですが……」
「いえ、どうぞ、お気遣いなく」
彼の用がある部屋はどこだろうと、ここまで連れ立ちながらアイラは思う。
最後の最後に、あっと驚かされた。紳士がチャイムが鳴らしたのは隣部屋だった。
「先生!」
青天の霹靂だ。
あの不愛想でいけ好かなかったキズミが、敬愛をこめた笑顔で出迎えている。
アイラは文字通り雷に打たれたような衝撃に唖然として、立ち尽くした。
「こんにちは、キズミ君」
「言ってくれれば空港まで迎えに行きましたのに。どうぞ中へ、散らかってますが」
「ありがとう。今日は他の予定もあるので、これを届けに来ただけです」
「わざわざ!? ありがとうございます!」
アタッシュケースを受け取る態度が、大切なものを貰う初々しさのそれだった。
あんなに嬉しそうに。あの部下からあんなに慕われているだなんて、信じられない。
混乱中のアイラに、はたと気付いたキズミは声も顔もいつもの不愉快男に逆戻りした。
「なんですか」
その瞬間、猛烈な怒りが煮えたぎった。おかげで馬鹿みたいに大胆になれた。
「あ、あの!」
憎たらしい金髪の部下を無視して紳士に詰め寄った。
「お礼でしたら、よかったら連絡先、教えてください!」
紳士だけは周りのように目を丸くせず、柔和にほほえんだ。
自宅のキッチンで、アイラは新品のまな板が傷だらけになりそうな包丁使いで、食材を刻んでいく。自称フリーランスのモンスターボールエンジニアから貰った名刺には、これといって、キズミから敬愛されそうな情報は見当たらなかった。記載された連絡先にいつメッセージを送ってみようか。優しそうな男性だったので、立場を説明すれば、キズミとの関係が上手くいかない相談に乗ってもらえるかもしれない。それともやはり、気の迷いだったということにして送らないほうが良いだろうか。キズミと親密そうな彼と今後ばったり出くわす確率を考えれば、自分から連絡先を知りたいと言い出しておいて、それは失礼だろう。全部キズミが悪いのだ。キズミが笑ったりするから、あの紳士の正体が気になったのだ。あの紳士との関係が気になったのだ。あんな風に爽やかにきらきらと笑えるくせに、自分にはそのひと欠片さえ見せてくれない理由を、自分のどこがそんなに気に入らないのかを、知りたくてたまらなくなったのだ。
「人を見て態度変えて。ほんっと、むかつく男!」
(アイラさん、あぶ、危ないっ、指、切らないでくださいよっ)
そんなにみじん切りにしてなんの料理を作る気ですか、と言い出せないクラウであった。
◆◇
迎えには行けなかったが、オルデンの見送りはできることになった。
キズミは空港館内のロビーの、指定された時間と場所どおりにやって来た。
「ペンダントの調整まで、ありがとうございました」
両親の死後も気にかけてくれている恩師を、本当の親のように大切に思っている。
「私に出来るのはこれぐらいです」
「そんな事言わんといてください。先生のおかげでファーストは……」
キズミは語尾を最後まで言い切らなかった。
オルデンはもの寂しそうに微笑み、自分の読みを明かした。
「君は、あの女性刑事に自分の境遇を重ねているのですね」
違うとは言えない。しかし、うなずくには、持ち合わせている素直さが足りない。
「だからといって、自分の命を粗末にして良い理由にはなりませんよ」
「戦いで生き残ろうとすれば、ウルスラたちが真っ先に犠牲になります。それに俺はもう、誰かをファーストみたいな目に遭わせたくないんです」
「冷たく接しつづければ、君の身に何か起きても悲しまれない。そうとも考えていませんか」
その明晰な頭脳は、発揮される分野を選ばない。
次々と見透かされてしまう。
「キズミ君……やはり、私の助手になりませんか」
「ありがとうございます。でも、行けへんのです」
いつもながら、この勧誘を断るには魅力に抗う強い気持ちが不可欠だった。過酷な訓練に耐えた日々を水の泡にするような真似をすれば、またミナトが黙っていない。半死半生の大喧嘩をしてまで、警察官になる道を捨てさせてくれなかった馬鹿を残していけない。
オルデンが次に物を言うまで、キズミは針の動かない時計を胸にかかえている感覚だった。
「私の影響でモンスターボールへの愛好心が強いというのに、つれませんね」
「よしてください」
顔が赤くなりそうだった。
「君は、君を育てたお父さんによく似ている。私を救ってくれた親友に」
「そんな、俺のほうこそ先生は大恩人です。尊敬しています」
「妻と我が子を取り合うような男を、持ち上げてはいけませんよ」
オルデンは苦笑した。
「名残惜しいですが、そろそろ行かなければ。今度はエディを連れてきます」
「楽しみにしてます」
握手を求めたキズミの上着の内側には、新品の特殊警棒が折り畳まれていた。
キズミと別れたオルデンが、搭乗前に保安検査場へ向かう途中。
マナーモードの携帯端末が振動しはじめた。
着信名に表情を曇らせる。考えた末、電話に出た。
「いかがしましたか。シレネさん」
「あの子はどこ?」
憔悴した女の声だった。
「お願い、あの子に会わせて。なんでもするわ。もう耐えられない……なぜこんな酷いことを」
「理由はすでにお話したはずですが」
「聞いて。あなたは誤解してる。なぜ私を捨てようとするの」
「君のおこないを許せるほど、私は科学に心酔していませんので」
女は嗚咽をもらした。
「オルデン待って、お願い! あの子を愛しているの、あな」
キャンセルボタンを押し、端末の電源も落とした。
妻との通話よりよっぽど生産性のある会話で口直しがしたい。肩のチルットに囁きかけた。
「レストロイに、ロングロード……アフロ、君はこれを“偶然”だと思いますか?」
つぶらな瞳の小鳥の表情に険しくなり、ふるふると一等身を横に振った。
オルデン・レインウィングスは「ふむ」と納得する。
「では君は危険を顧みず、私やキズミ君の力になってくれますか?」
チルットはふわふわの白い翼を胸に当てて、表敬した。