-4- 姉
始業時間前の大部屋は、名物ハイテンション女性職員の結婚報告に湧いていた。
「花屋の妻になりました! あたしが辞めたら寂しい? 寂しいよねみんなー!」
風船みたいなブラウスの胸元を大きく開け、ボリューミーな縮れ髪のセクシーなダンサーが間違えてスーツを着てきましたという説明でも通じる風体で、メイクもばっちり決めている。普段からの警察官らしからぬの派手なファッションセンスによらず、左手の薬指のはめている結婚指輪のデザインはシンプルで型にはまっていた。
「これだから女は。仕事がきついだのなんだの、寿退職だの産休育休だの……」
ぶつくさ言っている陰険な中年職員にも笑顔で、ヘッドロックにも見えるハグを見舞う。
「はいー、幸せのおすそ分け。キャンベルさんってば考え方古すぎー。そんなだから職場の女の子たちから人気ないんですよ」
「おめでとうベリンダさん! 年下理由に一回もデートしてもらえなくて残念だぜ!」
「スイートボーイ! ごめんねミナト。十代の坊やにあたしは刺激が強すぎるの。はいおすそ分け」
きめの細かい黒肌の腕でミナトを抱き寄せ、豊かな胸にぎゅっと挟む。
祝おうと近寄って行ったキルリア=クラウとラルトス=ウルスラも巻き込まれた。
「キズミもおいで!」
「おめでとうございます。遠慮します」
「照れちゃって! 次フィッシャーさん。とびっきりのおすそ分け!」
ミナト達を放したベリンダが、舟をこいでいるフィッシャーの頬に濃いルージュでキスをした。
「ハァーイ。短い間だったけど、一緒に仕事できてよかったわ。あなたも幸せを掴むのよ」
アイラも抱きしめられた。
女性的に成熟した、ふくよかな感触が心地よかった。
年上の女性からこうされたのはいつぶりだろう。行方知れずの姉を思い出した。
退勤時間がバトルネーソスの閉館に間に合うかぎり、アイラはダメ元で通うことを決めていた。身の上話に興味を持たれて以降、ブラッキー=ダッチェスは気まぐれに対面してくれるようになったのだ。
「わあっ……素敵」
青いサテン生地の、フード付きポンチョ風大判ストール。
色違いであるブラッキーの外見的特徴を覆い包んで、目立たなくしている。
ネーソスのオーナー、アナナスはポケモン服のデザイナーが本業だ。
「フィッティングモデル? よく似合ってるわ」
パーティにでも着ていけそうだ。そういう感じのドレスを一着も持っていない。結婚も恋愛も、仕事で忙しい自分には縁がないと思っていた。ベリンダの件といい、祝い事に出席する機会が今後増えていくのだとしたら、今の十六という年齢的にも、少しは意識しはじめたほうがいいのかもしれない。
(お世辞はいいよ。アナナスに頼まれたんだ。体を隠すにはいいけど)
モデル当事者の反応は薄かった。
(アンタ最近よく来るけど。暇なのかい)
「分かってるくせに意地悪ね。クラウもネーソスに来ると喜ぶの。銀朱とトレーニングができるって」
(だろうね)
金色の瞳が、ガーディと交代で警備中のヌオー=留紺をちらと見る。
(今夜の貢ぎ物は?)
コミュニケーションは大事だ。プレゼントもその一環だ。
「低カロリー高タンパク、無添加リッチジャーキーよ」
ダッチェスがぴんと尾を立てる。
細切りにした干し肉の嗜好品を、ぺろりとたいらげた。
(こういうところはキズミより使えるね、アンタ。あいつはケチ臭い)
「雇用形態が特殊だから、お金がないのよ。それとも、意外と健康志向なのかも」
(さあてね。アンタこそ、やり繰りできてるのかい)
「痛いところつくのね。前より安いホテルに変えたから、もうしばらく高級プレゼントを続けられるわ。ダッチェスって、お金の心配が出来るのね」
(金か……金儲けの道具だからね。アタシはどこに行っても、敵だらけ)
四方を囲む、スタッフルームの壁を透かすような目つきをするブラッキー。
(慣れない土地で他人と戦ってるとこは似てるけど、アンタとアタシじゃ違う)
アイラには、その場しのぎの慰めの言葉も励ましの言葉も並べられなかった。
他人事だとは感じない。元気づけたい。心に浮かんだまま、ある誘いを口にした。
フライゴン=ライキの背中に乗って、地方都市の街明かりを一望する。
正直オーケイが出ると思わなかった。
ダッチェスと空の散歩に繰り出せるなんて、驚きだ。
(この高さ、ぞっとしないよ。キズミを手なずける話、進んでるかい?)
「簡単にはいかないわ」
(それはそうだよ、易しい課題を押しつけてもつまらないだろ。でも慌てることないさ。アタシも時々キズミには頭にくるし、アンタと愚痴を言い合えるのも悪くないと思えてきたからね)
「考え方がせこいわよ。ダッチェスって本当はいくつ?」
(考えたこともない)
風になびく青いストールに全貌を防がれている、つややかな黒い被毛。
口調からは大人びているように感じられるが、気性は子どもっぽいところがある。
姉に似ているかもしれない。
そうひらめいた踊るような感情が、冷静になったアイラのなかで覚めていく。
姉との離別は、随分前の出来事だ。
壊れた妻から二人娘を引き離したジョージ・ロングロードは、姉妹揃って国際警察の施設に預け入れようとした。しかし姉は反発した。仲裁しようとしたアイラは、姉に頬を叩かれた。
――うるさい! この男は家族より仕事が大事なの!
精神を病んだ母親は知らない男を自宅に引き入れていた。一度自分も、手を出されそうになった。妹が母親から暴力を振られていることに気付こうともしない、間抜けで役立たずな父親が憎たらしかった。
姉の爆発は止まらなかった。
――勝手にしろ。その代わり、二度と俺に頼るな。
父に言い渡された姉の顔が、苦渋に満ちて歪んでいた。
……ごめんアイラ。一緒にいたらお姉ちゃん、きっとママと同じになる。
そう言い残して、行ってしまった。
姉の、長い綺麗な髪が好きだった。あんなに悲しい髪の振り乱し方はなかった。
おねえちゃん、おねえちゃん。
必死で呼びつづけた。背中で揺れる髪が涙で滲み、よく見えなくなっていった。
あれからただの一度も、姉から連絡が寄こされた事はない。
どこで、どうしているのか。今、生きているのかどうかさえ。
(アンタさ、なんか暗いのダダ漏れしてない? 『シンクロ』でいい迷惑なんだけど)
前列にいるダッチェスが鬱陶しそうに、首をのけぞらせて後列のアイラを見る。
(この特性を使いこなせるようになれば、こういうのも遮断できるのかね。ついでにアンタの親父を襲った犯人探し、協力してやってもいいかもねえ……まだ訓練受けると決めた訳じゃないよ。頭の片隅に置いといてやるってだけさ)
「本当?」
灰眼がガラス玉のように見開くと、夜空の星のまたたきがくっきり映りこんだ。
(アンタはアタシの飯づるだからね。なに笑ってんだい、ライキ)
乗り手に伝わらせた体の震えを止めて、フライゴンはとぼけるように羽ばたいた。