NEAR◆◇MISS















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第四章
-6- ロングの病室
 幾重もの音が止んだ。
「ご自分の立場を分かっているのですか」
 喘ぐ合間、威嚇的な唸りに近い声でそう呈し、先客を睨め付ける。
 キズミは足音高く直線に出でると、凍り付いた女上司の手首を奪い取った。
「帰りましょう」
 法外な牽引力。
 女親の怒号がアイラに再生される。
 目も眩む閃光に襲われた彼女は、狂ったバネ仕掛けのように彼の手を弾いていた。
「帰る場所なんて、ないのに!」
 異常な主情に冒されて、叫ぶ。解けたはずの拘束が手首に刻み込まれ、まやかしの痛みが脈を打つ。今まで目を背けてきた部下との絶対的な力の差が、(ひと)子関係のそれと直喩された。数多の妄言に内側から脳を支配されてゆくようで、動悸がやむにやまれない自身の体をアイラは震える腕に抱き込んだ。
(アイラさん……?)
 前例のない拒否を巡り、棒立ちのキルリア=クラウの丸顔は青ざめ、二つ結びのような緑髪はすぼみ、無事に主人と再会した時に見えた安堵は完全に拭い去られていた。
 場慣れした感のある色ブラッキー=ダッチェスは落ち着きを払い、人間たちの目を憚らず間に割って立つ。思惑を分かりにくくした無感動な声色のテレパシーを使い、男一人に絞って囁きかけようとしたが。
(キズミ、出直しておいで)
 この忠告は彼に届かないだろう、と『シンクロ』お墨付きの鋭敏な鼻で予定調和な雰囲気をとっくに嗅ぎ取っていた。そして案の定。ほうら来たよと黄目の動きを右から左へ頭の上を通って半周させ、呆れた仕草を見せる。
「では訂正します」
 呼吸を整え、鞘に収めたナイフのようなキズミの口振りにクラウはうろたえる。
 捲し立てるほどの早さはないが、恫喝と聞いて可笑しくない音源だ。
「本署か病院のいずれかを選び、即刻この場を立ち去ってくだ――」
「黙ってよ!」
 血色を奪われたアイラは、迫真の虚勢を張った。
 ピリピリと全身に電気が走るような、『シンクロ』由来の居心地の悪さ。
 彼女の怒声が原因のそれとは別に、キルリア達は間近で青年の拳が鳴る音を聞く。
 携帯獣の本能が侵害反射を先取りした瞬間。
 殺気立った男の面変わりは、くしくも気迫に凛々しさが洗練されてより端整となる。
「いい加減にしてください! あなたを狙った連中が野放しになっているこの状況で、なぜそんな強情な口が利けるのですか!」 
 大音声。
 逃れようのない激震がアイラの人格に亀裂を入れる。 
 形容しがたい頭痛に目が塩辛くなるクラウ。鼻の奥がつうんと刺激されるダッチェス。アンタ痛いじゃないかっ、と爪を剥き出した前足で地面を叩き抗議するダッチェスを、まあまあとクラウがなだめにかかり、しかしその成果が出る前に素早く第二波の防御に転じた。
「意識が低すぎます! 所詮刑事の素質に欠けるとあっては、ロング警部の事件も迷宮入り必至ではないですか!」 
 神経の束が音を立てて切れてゆく。
 自分より背の高い、体格も上の男に直接手こそ出されないものの激しく追い詰められる感覚は恐怖以外の何物でもない。しかし通常の感覚を上回る速度で顔色を取り戻し、むしろ平均を超えて朱に染まったアイラは柳眉を逆立て猛攻した。
「気に入らないなら好きにすればいいじゃない! 暴力でも暴言でも、私を打ち負かす方法はいくらでもあるわ! 最初からそれが望みなんでしょう!?」
 こめかみを抑えた状態のクラウが、火口のような女主人の面前に立ちはだかった。
(お……落ち着いて下さい! お二人とも!)
 色ブラッキー=ダッチェスもキルリアと背中合わせとなり、今にも飛び掛かる構えで反対の青年を牽制する。
 キズミは仲裁を目に留めたが、淡々と紫煙をくゆらせるように彼らの意思を疎かにした。
「主張に合理性が伴っていません。父親思いの自分に酔っているだけでしょう。あなたの演じる悲劇に付き合っている暇はないのです。お気の毒に、ご息女の自己満足に利用されているロング警部は一生あのままだ」
 無知な部外者に、醜い血は争えないと裁定された。
 透けた白い首に絡んだ呪いの影が、屈辱、と耳元で嘲った。
「あの(ひと)と一緒にしないでよ!」
 体幹を破壊しかねない鳴動が、脆くなったアイラに自暴自棄を突きつける。幼い頃の酷遇と現在とが攪拌され、他人の敵意の二重写しにもう引き返せないと悲観に身をやつした。目の前の彼と無事に会話を果たせるような度量は、もとより自分に存在しなかったのだ。部下を導く立場に永久の背理も辞さない覚悟で、どうせ泣き汚れた性根で足掻くことしか出来ないならばと、息も絶え絶えな喉に激情の鞭を入れた。
「何も知らないくせに、分かる訳がないのに、ご両親を早くに亡くしているあなたが! 偉そうなことを言わないで!」
(やめましょうよ!)
 怒声になりきれない、クラウの悲痛なテレパシーが残響を引きずった。
 全員首を刈られたように沈黙が落ちる。嵐の前の静けさ。会話の勢力が変動する温度。人物に深く蓄積されてゆく歪(ひず)み。ダッチェスの敏感な体毛が、大震の予兆を掴む。
 キズミは嗤うように、小さく息を漏らした。
「感情的ですね。救いがないほどに」
 そして鋭利な双眸に影を従え、粛々と皮肉を込めて。
「あなたの部下になれて光栄です」
 荒削りに踵を返し、彼は長足の飛ぶような歩幅で距離を引き離してゆく。
 無限の戦に見切りを付け、靴音を規律する背中に遂行された幕引きをこう汲めた。
 決別、と。

(アイラさん……アイラさん……!)
 膝から崩れ落ちた彼女を奮い起こそうと、クラウが肩を揺すっている。
(キズミさん、行ってしまいましたよ! まだ間に合います、追いかけて、きちんと話し合いましょうよ……!)
「嫌よ……」
 濃茶の髪が重力に引きずられ、肩峰より下に伏せた顔を覆い隠していた。
「……をするつもりは、なかったわ……本当よ。カッとなって……でも……謝るなんて絶対に、嫌!」
 揺れる髪の天蓋の裏から、複数の彼女が代わる代わる重唱した。
「どうせ、私が何を言おうと響いていないわ。どんなに言葉を浴びせたってまるで平気なのよ! 目の前から消えてくれて清々したわよ!」
 違う。そんな世迷い言を正当のように吐いて欲しくない。
 板挟みに苦しむ以前に、クラウはただ切羽詰まるままにテレパシーを荒らげた。
(アイラさんらしくないですよ……!)
 彼を含め、自分達はジョージ・ロングの回復を希求する同志のはずなのに。
(僕……キズミさんのこと、さっきの話は初耳でした……もちろん彼の態度は擁護できないですよ。でも、だからって、アイラさんがあんな風に人をなじるなんて)
 なぜ互いに良識ある刑事の側面を捨てて、忌み嫌い反目し合うのだろう。
(キズミさんもああ見えて……いや、ううん、きっとアイラさんのことを先入観で判断してるんです。どんな先入観か知りませんが、だから、その誤解を……!)
「どうでもいいのよ全部! 嫌いなのよ、彼のこと! ここまで来て私、偽善者になりたくないわ!」
 怒号を介し、雨雲色の瞳から堪えきれなくなった思いがついに溢れた。
 指の甲で目縁を拭ってもまた拭っても、我慢の境界線を越える熱い破片が止まらない。
 濡れた通り道のついた顔を掌中にうずめ、細りきった湿潤の声でアイラは。
「……ごめんね、クラウ……」
 キルリアは、無言でその場でうなだれた。
 

 
(アタシの忠告を聞かないから噛みつかれたんだよ、この自業自得)
「空騒ぎだ。お前が興味を持つことはない」
 まあね、と早足で歩きながらダッチェスは相槌を打つ。
 キズミを挟んでヌオー=留紺が並び、足の裏に氷を張ってすいすいとスケーティングで付いてきていた。
「留紺(とめこん)、引き続き警護を頼む。ついでに麹塵(きくじん)とオーナーに連絡ご苦労と伝えてくれ。悪いが今は顔を合わせる気分じゃない」
 了解、と軽く手を挙げて振る、ヌオーの気心が知れたジャスチャー。
(帰るのかい? あの娘を連れ戻しに来たんだろ?)
「クラウに任せる」
(ふっ)
 鼻で笑ってこれ見よがしに首を振ると、先細りした長い耳が遠心力でぶらぶら揺れた。
(ここまで来ておいてソレとはねえ。わざわざご足労サマ。あの娘と違ってアタシの勧誘が本命という訳でもなさそうだし、相変わらず変人気取ってるねアンタ)
「捜査に関しては警部補と同意見だ。だがお前に無理強いするつもりはない」
(ふうん)
「ネーソスの出口は近いぞ。いつまで付いてくる気だ」
(アンタがその無粋な台詞を吐く時までさ)
 言葉通り失速し、あたかも三つ指をつくような座り姿勢を取る。
 優雅に尾を畳むと、つやの乗った黒い毛並みに漆器に勝る気品が整った。 
(それじゃ)
「ああ。またな」
 味気ない挨拶。
 座視に留めたキズミの後ろ姿を、時間と距離が跡形もなく崩した後で。
(……手負いの体を引きずって来といて、よく言うよ)
 薄い血の臭いがこびり付いた鼻を舐め、ダッチェスは前足でこすり洗った。
(留紺って言ったね? 一つ頼まれておくれよ。もし後であの女刑事がアタシを探してるようだったら、外出中だと伝えて欲しいんだ)
 氷の溶けた足の裏をぽりぽり掻いていたヌオーが、顔をもたげてブラッキーに向けた。
(ん? そうさね。ウルスラにちょっと用があるのさ)


◆◇


 パイプ椅子を引き寄せ、ぎこちなく腰掛ける。
 壁にゆっくり背をもたれ、ようやく息をつけた。
 早々、何を告げるべきか。
 この場に見合う言葉をかけようにも、傷の持った焦熱に意識の半分が奪われている。
 初回の単身見舞いを弱音で切り出したのでは、ロング警部に申し訳が立たない。
 昼夜なく昏々と眠り続ける病衣の男を見つめ、キズミはおもむろに静寂を破った。
「突然見舞いに伺ってすみません。次は花でも持ってきます」
 次。
 次はあるのだろうか。
 あの女上司の一存で面会謝絶になっている将来もありえる。
「この病室で、初めてご息女にお会いした時のことですが……あの気丈さは感心できません」
 ――ファーストと先生がいなければ、今頃自分はどうなっていただろう。
 随分、助けられた。
「父親が重態の彼女に、自分を重ねるのは慢心です。しかし……放っておけません」
 確固たる事実を打って響かせ、深入りの躊躇を圧砕すべく。
 過去を振り返ればいつだって、力の及ばなかった後悔しかない。
 どんな代償を払おうと、切に願おうと、如何なる覚悟で臨もうと、ゼロ以上の確立で自分には手に入らないその奇跡が、ロングロード父娘の手中に残されているのなら。
「あなたは……警部は、生きています。俺の家族とは違って」
 汗と涙、血も多量に入り交じった追憶の臭いが、不覚にも香る。
「俺の身に何があろうと、影響を最小限に抑える策はすでに打ってあります。彼女を精神的に追い詰めるのは、不本意ですが……」
 抑え込んでいた肋骨の軋みがまさかと極まり、長い溜め息を漏らした。
 周囲が傷心した彼女の支えになってくれると信じていても、やり切れない所はある。
「……しかしあらかじめ情が湧かなければ、むしろ敵意が強ければ……安定を図れるのではないかと思いました」
 アイラ・ロングロードが警察という連帯感に染まる未来を、回避したいのだ。不要な仲間意識を招くと、目的の達成までにあまりに障害が増えすぎる。相手の気遣いに後ろ髪を引かれるくらいなら、いっそ憎まれ役に徹したほうが、気兼ねなく捨て身になれる。
「誰かが誰かを失って……苦しむ姿はもう」
 黙り込む。正確には歯を食いしばる。
 至る所の傷が過剰な刺激を受け取って、呼吸の間隔を狂わせようとするのを耐えてきたが、今の脇腹の鈍痛はさすがに意識を騙せなかった。
「……」
 音を立てずに後頭部を壁にぶつけ、そして天井を仰ぐ。
 一度目を閉じ再び開くと、ぼけたピントが解消されていた。
「……」
 秘匿を全て一人で墓場まで持って行けたなら、迎えの寸前にベテランに劣らぬ優秀な刑事を自負できただろう。それが叶わなかったのは自分がまだ、孤独を克服できていない何よりの証拠だ。この病室に入ってからの数々の不甲斐ない発言を、優れない体調のせいにしてしまえば少しは気も紛れるが、どうせそれも逃げだ。
 腿が千切れんばかりに痛む。
 気丈さが感心できないのは、自分の方だ。
 正体不明の連中は、また彼女を襲ってくるだろうか。
 再考を挟むつもりはない。
 父娘の力になりたい。その心に従えばいい。
 そして見果てぬ夢に、終止符を打つ。
「かくなる上は、命を捨てる覚悟です」
 重大な決意の表明が、なぜ口に出すとこうも安く聞こえるのか。
 キズミは半ば自嘲的に、薄いカーブを唇に持たせる。
 変だ。
 警部も同じ意見ならば、今すぐ飛び起きて笑い飛ばして欲しかった。

レイコ ( 2013/09/16(月) 00:33 )