NEAR◆◇MISS















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第四章
-5- 灰色の記憶
 裏路地の夜闇と密接な、失心の回顧。
 現実を。
 再会も虚しく、囮にされたペールとロータンの保護はままならず。
 父ロングを襲った被疑者とおそらく同じ手合いに、無念の敗北を喫した。
 なのに、自分はこうして手当てを受け、無事に安全な場所にいる。

 爪で握るシーツは放射状の波を立て、色素の薄いアイラの手に青い血筋が浮かんだ。
 理由は不明だが、父娘が狙われたのは偶然と思えない。感情が過熱する。冷静な刑事でありたいと抑え込む。泪は健闘を称える豪奢。難を逃れた狡い身に赦されるはずもない。切り苛むような挫折感。時間に迫られて無理に昇華したところで、所詮その決意が万能でないことは心苦しくも自明だとしても。

 ロング氏が襲撃された事件当時、色違いのブラッキー=ダッチェスは現場の近くに偶然居合わせた。彼女は被害に巻き込まれた数少ない証言者の枠に留まらず、その特性シンクロの心的波長の承認する能力に、被疑者の絞り込みの期待が懸かっている。しかし、フリーで人間不信気味のダッチェスがいつ気紛れを起こすか、最悪の場合バトルネーソスを遁走する可能性も否めない。
 早期解決に係わる貴重な手掛かりを、タッチの差で失う訳にはいかない。
 職場のデスクに山と積み上げられているであろう事務処理や、不在に伴い職場にかける迷惑を苦肉の選択で先送りにしようとも。
 ヌオー=留紺たちの説得は、アイラ自身を破滅させかねない賭けだった。
 あのブラッキーに捜査の協力を請いたい。今度こそ。なんとしても。その一心の全速力。
 行く先を記した書き置きが人目に触れる前に戻ると気休めの制約を課して、アイラは自分の病室を発ったのだ。


◆◇


 起点に戻るのは難しくない。降りかかる重圧に身を任せ、奈落に堕ちてゆけば良い。
 しかしそこから慎重に古い鍵付きの箱を一つずつ開けて、現在への軌跡を辿るとなれば話は変わる。長年密閉され、外気に晒されてこなかった記憶は獰猛なのだ。持ち主が処置を一歩間違えれば、あっという間に弱い心を食い尽くされてしまう。
 幼き日を俯瞰するその灰色の瞳は、錆び付いた鳥籠の情緒に囚われていた。

「父は、国際警察官だった」
 唇は水縁で浮き沈みしている花弁に似て、心許なく揺れ始めた。
 ジョージ・ロングロードは大柄で屈強な体格の強面男だが、一度会話を始めれば気さくな船乗りのような好人物と定評があった。若くして支部から国際警察本部に栄転した経歴があり、罪を憎んで人と携帯獣を憎まずの格言を地で行く警官だったらしい。壮年になると仲間内の人望はさらに厚くなり、面倒見の良い性格で若手と古手のトラブルの仲裁役をよく買って出たそうだ。そのくせ困った癖があり、一旦妻子の自慢話が始めるとあまりの溺愛ぶりに職場は苦笑の渦に巻き込まれたと聞く。
 秘密捜査に携わることの多かった彼は多忙で帰宅こそ少なかったが、母親の語る子煩悩な夫への深い想いを受けて育ったアイラと姉は、何の疑問もなく父親を慕っていた。
「母は口癖のように言っていたわ。影の薄い人だったけれど、父の話になると……本当に、強い人に見えた」
 あの頃のバイアスの、胸中深くに埋まっている感触は何年経っても完全には消えない。両親の長所を誇っていた時点の仄かな上気が失せ、青ざめたアイラの唇は蜘蛛の糸に絡まれたように固着した。
「……ある時、父が携わった潜入捜査で」
 空気の移ろいを感じ取り、色違いのブラッキー=ダッチェスは青い模様を嵌めた黒耳をぴくりとさせ。金眼の切れ味を増す。前足を前後にずらし、体勢に微妙な緊張感を持たせる。
「――その犯罪組織の壊滅後、残党を追う捜査に移行したわ」
 冷たい海水が流れ込んでくるように、心持ちが湿り言葉選びが鈍重になってゆく。
 左右の掌に整った爪の圧力が掛かった。
 アイラの心音が加速し、鼓動の振り子が過去と現在を去来する。
 血脈の剥き出した速さは、往日の定時と等しく被った。
「残党の一人が父に恨みを抱いて、報復の矛先を私達家族に向けたのよ」
 光と熱が分離した、激しい炎になり損ねた声色で押し出した。
 自身を突き動かす衝動の濃淡は、十年前の少女と十年後の女刑事で懸隔している。気持ちが集中出来ない。恐慌を和らげる吐息と共に、事件の顛末を語るための力も少なからず抜けた。  
「どうやって家を突き止めたのかは……分からない。姉と私を逃がした母は、大怪我を負わされて。幸い命は助かったのよ、でも犯人は行方を眩ませた。数日経って父が駆けつけた時の、母の剣幕は正気じゃなかったわ」
 夫の安否を案じる生活に疲弊し、すでに限界が近かったのだろう。この年齢にもなれば様々に回視できる。しかし精神を蝕まれていた妻の徴候が、かつての童女には見えていなかった。家庭内に生じた不和の、唐突の感は免れなかった。
額に強く、指紋を押捺する。兜の覗き穴のように狭い間隙から、あの情景が灰色の瞳を刺した。
「退院後も、ずっと父の悪態をつくあの人を見ていられなくて。中途半端に諫めようとしたの。そして逆上されて……私、“事故”で怪我をしたわ」
 ジョージ・ロングは見舞いに飛んできた。先の事件で過敏になっていたらしい。心を痛めている男の面前で、献身的な母親を装った女は白々しい心配の様相を晒していた。
 逆恨みで命を脅かされた極限の体験が、元々繊細だった母の歯車を狂わせてしまったのか。女の性格の破綻は日増しに進み、妄想に起因する擁護できない言動がエスカレートしていった。
「あの人は……事件のショックで私が虚弱になったと父に嘘を吹き込んで、憂さを晴らしていたのか、それとも私をダシに何度も父の気を引きたかっただけなのか、はっきりとは分からないわ……」
 異変を察したジョージ・ロングは直接アイラから本音を聞き出そうとしたが、いざとなると母への倒錯した思いに駆られ、口外を避けてしまった。
 娘に相談を拒まれた父親の胸中は、察するに余りある。
「とても、寂しそうな顔だった……」
 矢で射られた大きな熊のように、重い足取りで夕闇に融けていった広い背中を思い出す。別れ際の自責が再燃した反面、あんな深刻な状況で実父を熊になぞらえた幼い自分との落差が可笑しくて、奇妙な笑いと寒気の回転が補色を混ぜたように醜くなった。
「バカね、私。一人でなんとかしようとしたのよ。父と別れて家に戻ると……母は取り付く島がなくて、あれは……何だったのかしら、何か光る物を掴んで」
 灼熱の襲った脇腹を押さえ、物音を立ててよろめいた。
 眼窩の鈍痛。瞬いた瞼の裏を染める赤光。胸腔を広げても広げても吸気が出来ない。脚は感覚を失った棒のよう。込みあげる水音を聞かせまいと口を両手で頑丈に蓋をする。
 アイラの蒼白な顔を、わずかに歩み寄ったダッチェスが怪訝そうに覗き上げた。
(アンタ、もう少し賢いかと思ってたよ。何も無理して一度に話すことないだろ)
 一般的なブラッキーの赤と異なる、極めて珍しい黄金色の双眸。
「……」
 二つ昇った更待月のように神秘的に輝いて、初めて間近で見下ろすことを許された印象として不思議と心を潤した。その感慨を台無しされまいと、吹きすさぶ嵐で舵の取れない船体を正常な進路へ近づけるのと似た虚勢で、アイラは濁流に押し流されかけた意識を繋ぎ止める。 
「……いいえ」
  呂律をわななかせ、弱くても声を無理やりに起こした。気品ある佇まいの色違いブラッキーを異界の住民で、凡人の自分は立つだけで精一杯の過酷な局面にいるように感じる。だが今後の刑事人生に身命を賭すためにも、この程度の困難に怯えて立ち止まってはいけない。体の警告を無視して、苦行を乗り越える他にない。
「姉と一緒に父に引き取られた後も、執拗に脅迫は続いたわ」
 まばたきで湿らせたが最後、堤の何もかもが決壊しそうで。乾きにひりつく角膜などいっそ目頭の熱で消し炭になれば良い、ついでに見たくない物も見ずに済むと、常に毅然とあるべき尾羽を打ち枯らした。そして一秒と待たず、理屈の推しで態勢を立て直し、だが自棄な思い付きを追放する余力もなく、うたかたのような雑言を掻き集めて、どこか暗所の片隅に仕舞い込んで圧迫する。
「何があっても、支えになってくれた。守ってくれた。だから……」
 重量に耐えきれず、ぎりと手綱に亀裂が入った。
 星の裏側で光を奪い盗られた新月のごとく、真黒で、どろどろとした粘り気のある負の念が沸騰の泡を吐いた。気概の柱は萎び、踏み散らされて茶色く変色した桜花にも見劣る。体全体が硝子化したように、指先の運動一つで強い緊張に縛られる。心象は霧の絶海。魔性の呼び声に誘われて、足が望まぬ入水に向く。
 突然、脇腹を噛みつかれたような疼痛が襲った。ひるんだアイラは鞭打たれた馬と差異無く、半ば狂乱に足を取られた状態で開口した。
「父がいなくなったら私、あの人に何をされるか、何をされるか、分からないわ」
 発熱初期に酷似した悪寒をきたす。発作的に噴き出した冷や汗が滝のように肌を伝った。睫毛の隙間を縫って流れ込んだ眼痛の元を擦り落とそうと、押しつけた手で不覚にも涙腺まで刺激してしまう。顔をしかめて躍起になって防がなければ、あわや液状化した感情を滲出させるところだった。去った一難に乗じて、迷夢に溺れかけていた悟性を取り戻した。
「……ごめんなさい。こんな、話をするつもりじゃなかったのに……」
 淡く桃色がかった結膜が目立たないよう、色ブラッキーから顔を逸らし、一度だけ鼻を啜る。純粋に一人の刑事として、客観的に、事件の解決を願わなければならないのに。独り善がりな私情に惑い、盲目的に、動機を穢している場合ではないのに。
(刑事の建前よりよっぽど分かりやすくて、良かったよ)
 表情を見せず肩で反応したアイラを、ダッチェスはフンと鼻であしらった。
(時間をあげるから、その間に落ち着けばいいさ)
「……平気よ」
(ふうん、そうかい)
 どのみち相手に気持ちを整理する猶予を与える形で、ダッチェスは打算を働かせる。
 無計画にネーソスを飛び出しても、すぐに金目当ての輩に捕まって売り飛ばされるのがオチと僻んだ根性が囁いた。ショーケースの中の生き方が染み付いているせいで、人の手を借りない暮らしを長く続けるのも性に合わないとなれば、もうしばらく他人の世話になるのも悪くない。
 それに早めに損得勘定をはっきりさせておくと、後々気が変わった時も立ち回りやすいだろう。
(でもねえ、アタシは無駄骨を折るのがキライなんだ)
 ふぁーとあくびをする。
(仲間割れをしてるようじゃ、今後の捜査の底が知れるね)
 雲翳に稲光。
「あれはレスカ君が――」
(お黙りな)
 人間よりもはるかに獣性の強い目角を立て、排他的な縄張りを高調する。押し黙った女刑事がそれ以上近づいてこないと分かると、初見の扱いが難しい色ブラッキーはしなやかに伸びをした。
(条件をつけようか)
 計略的な眼差しの艶が、アイラの視覚を掴んで離さない。
 黄と黒の世に言う警戒色が、空寝している彼女の不安感を煽る。
「……何かしら」
 崖っぷちの平静を保った面の皮の下で、護符を握りしめて祈るように訊いた。
(アタシの前にまず、キズミを手懐けてみな)
 よりによって。
 絶望的な正論を。
(自分の部下もろくに信用できない人間と、まともに手を組める気はしないからね。アンタたちが見込みのあるチームだと証明できたら、暇つぶしに協力してやってもいいよ)
 そんな――
「そんなこと……!」
(お待ち)
 『シンクロ』で誰かの干渉を受けたらしい。色ブラッキーの軽めの警戒を目で察し、アイラは煮え切らないまま周囲に気を巡らせ、近づいて来る異変を感じ取ろうとする。
 速効性のクレシェンドが、何者かの走る音量を極限まで高めたかと思うと、繊細さの欠片もない男達の乱入に心臓を殴られた。
(いたっ、いましたっ! アイラさん! ご無事で!)
 キルリアが感極まったテレパシーを乱発する横で、物騒な青い眼光の青年が肩で息をしていた。

レイコ ( 2013/08/30(金) 00:00 )