-4- キズミの部屋
退屈で死にそうな麹塵(きくじん)が、大袈裟な溜め息をついた。
「ねぇねぇトメさん。暇潰しにさあ、患者をミナゴロシにしちゃうとか、どお? ダメぇ? そんなことしたら、湊様のパパがブチ切れてぼきゅからこの器を取り上げちゃうかな? ぼきゅとお別れしたら寂しい? 泣く? トメさん聞いてる?」
入院病棟の廊下はこの時間、人の気が無い。
ミナトが手配した手持ち二体は病室の前で警備に務めていた。
ヌオー=留紺はぺちゃくちゃとやかましい無駄話に興味がない。
「トメさん、どお思う? 女刑事さんのこと。ぼきゅは使えないと思うなあ。だってゴミじゃん。霊能無いよ? ぼきゅみたいな神格の魂のすごさがゼッタイ分かんないじゃん。キズミとウルスラちゃんみたく『シンクロ』で感度を高めてやっとって感じ? やっぱ湊様は俗物とちがうよねえ」
「でもぉ」と、わざとらしく、ねっとりと声を高めた。
「湊様のお父上様には劣るよねえ。だって」
くっくっと笑いを漏らす。
「湊様は、ただの人間の小娘から生まれたし」
留紺は鼻提灯を膨らませていた。
「無視しないでよ! 汚い遊びしてないで、相手してよー! なんなのキミ、ぼきゅに恨みでもあんの? いちいち冷たくない? ぼきゅ冷たいのキラーイ。だって『氷』は相性最悪だもーん。それに……」
ドアの向こうに、かすかな物音が聞こえた。
「あら、眠り姫のお目覚めだ」
◆◇
なんて美味しそうな光景だ。
食卓に心を奪われているキルリア=クラウに、ウルスラもまんざらではない。
(どうぞ、召し上がってください)
(頂きます!)
パリッとしたバゲット皮の香ばしさ。挟んである具のベーコンやチーズ、ハムの塩気が青い葉物に馴染み、噛めば噛むほど食欲をそそる汁が溢れた。レモネードのゼリーはつるんと喉ごしが良く、爽やかな酸味がすーっと口の中に広がる。粉砂糖で化粧したフルーツロールケーキの、果実をくるんでいる甘すぎない生クリームが舌の上で新雪のようにとろけてゆく。
夢中で空きっ腹に掻き込むクラウ。
その食いつきも嬉しいのだけれども、ラルトスは大本命の反応が気になっていた。
(キズミ様? 食欲は?)
「ある」
(お味のほうは?)
「美味い」
きゃあきゃあと叫びだしたい気持ちをこらえて、ウルスラは頬を赤らめた。
たっぷり食事を済ませたクラウの関心は、キズミ宅の内装へと向かう。
質素で合理的なインテリアだ。しかしところどころ統一性がない。
(あの“ちびブイ”は、どなたのご趣味ですか?)
ソファの上に、透明なビニールで包装された大きな縫いぐるみ。
イーブイをデフォルメした愛らしいデザインの、子どもや女性人気の高いキャラクターだ。
「ミナトがくじ引きで当てた。置き場がないとか言って、押しつけられた」
(処分しないんですか?)
「ミナトが言うのは、ジュペッタになりかけているらしい」
アイラが関わらないところでは、お人好しな面のほうが目立つくらいだ。
その優しさをほんの少しでもアイラに見せてくれたら、と思わずにいられない。
(アイラさんも、可愛いものが好きですよ。乙女なところもあるんですよ)
勇気をふるい、あえて名前を出す。
興味を示してくれるのではと期待したが、ふーんと流された。
話題が途切れるのも気まずいので、何かないかと部屋中に目を走らせる。
(本棚、満杯ですね)
特に、モンスターボール関連のタイトルの背表紙が本棚にずらりと並んでいる。
「読みたいなら、貸りてくか?」
(さあさキズミ様、食事が済みましたらお休みくださいませ)
「もう少しいいだろ。クラウは客だ」
ウルスラは少し考えてから納得した顔で、ふたりに飲みたいものを訊ねた。
(お好きなんですか? モンスターボ――)
「おお!」
がたんと椅子から立ち上がった音に、クラウはびくっとなる。
「よぉ訊ぃてくれた! ちょぉ待ち」
今までにないキズミのご満悦な表情。
いけないスイッチを押したのでは、とクラウは戸惑った。
すり切れたカタログ本が卓上ににどさどさと積まれる。
「まずこれ、製造年は――」
捲っていくページを追いかける青眼の、童心のかがやき。
他者の感情に共鳴しやすいキルリアのさがで、戸惑いが嬉しさに変わりだす。
「――塗装が特殊で――」熱心な解説は素人を置いてきぼりにし「――肝心なんは――」噛み砕いて説明しているつもりであろうが「――ウォーター・パラダイス社――」さっぱり訳が分からず「つまり――」用語の理解ではなく発音を追いかける終始で忙殺された。
「どや、おもろいやろ」
面白かった。饒舌なキズミの姿が。
コーヒーと茶請けのゼリービーンズを運んできたウルスラは笑みを零している。
(“そちら”の喋り方が出てますわよ)
「かまへん、仕事中ちゃうし」
(キズミさん、オタクなんですね)
かもしれへん、と爽やかな苦笑で受け流す。
「ほとんど“先生”の受け売りやねんやけどな」
ああ、とクラウは腑に落ちた。
溢れだしていたまばゆい感情の正体は、“先生”とやらへの敬愛心だったのだ。
(その方とは、どういう関係なんですか?)
「せやなあ……説明は難しい。たぶんいつか、会えるで」
(ささ、キズミ様はそろそろお休みに。お客様のお相手はわたくしが務めさせていただきますわ)
ウルスラがぽんぽんと手を打った。
(盛り上がるといえば、ゲームですわよね。ちょっぴりレトロな据え置き機がありますのよ)
ミナトが持ち込んだままになっているテレビゲーム機を起動させた。ポケモンバッカーよりこちらが良いですわ、とウルスラがゲームソフトをがさごそ入れ替えながら念力でぽいと、何をすればいいか分かっていないクラウにコードレス・コントローラーを渡した。
(僕、やったことないんですけど)
(わたくしが手解きいたしますわ)
「覚悟しろよクラウ、ウルスラは留紺の次に強い」
突然鳴り響いた携帯端末のコール音に、全員が固まった。
二つ返事で通話を切り、上着を羽織ったキズミが出て行こうとする。
ほんの数歩で、ばったりとうつ伏せに倒れた。
いや、倒されたのだ。
「離せ!」
(アイラ様のことでしょう!)
ウルスラが『サイコキネシス』で身動きを封じている。
女の勘か、とキズミは閉口した。
(ほんとですかキズミさん! アイラさんに何が!?)
(これ以上、お体に障る真似はおやめください!)
(キズミさん!)
駆け寄ったキルリアは四つん這いになり、横からキズミの顔を覗きこむ。
「病院から、いなくなったらしい」
クラウは言葉を失った。
「行くぞ、クラウ!」
迫力に尻を叩かれた。他に道がない。クラウの『封印』が、ウルスラの『サイコキネシス』を強制終了させる。ふっと重圧のなくなったキズミが傷口の痛む体をがむしゃらに起こした。呼び止めるウルスラを無視して、マンションの一室を飛び出す一人と一体。
アイラの身が心配でたまらない。けれども、ウルスラには嫌われたくなかった。
キズミの隣を走りながら、板挟みのアシスタント心が咆哮していた。
◆◇
(何の野暮用だい。キズミも連れずに)
夜闇で毛を染めたような、漆黒の獣が思念の言葉を操る。
四足を構える金の睥睨に太刀打ちする、人間の少女の瞳。
灰色の光彩に、てこでも動かぬ固い意思がみなぎっている。
「彼は必要ないわ。ダッチェス。捜査に協力して欲しいの」
はん、と若い女刑事の痛切な依願を鼻であしらった。
(必要かどうかは、アタシが決める)
「私の事が気に入らないなら、謝るわ。焦っていたの。早く事件を解決したくて」
口元がきゅっと結ばれ、伏し目がちな睫毛が揺らぐ。
少女の可憐な容貌に差す影の濃さが、胸の内に根を張る闇に呼応していく。
「私のせいだから」
離した唇にうすく歯の跡が残っていた。
「私の力が足りなかったから、父にも辛い思いをさせたの。だから、もう」
かすれた語尾。
人間性を値踏みしていた金の獣眼が、物言いに嘘はないとわずかに凪いだ。
(ほだされるかは置いといて、退屈しのぎにはよさそうだ。その昔話)
テストさている、とアイラは感じた。
引いてはいけない。
「決定的だったのは、母が私を刺したことよ」