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第四章
-2- クラウ、バレる2
 タクシーが来ない。配車を頼んだのがとうの昔に思えるのは、沈黙が体感時間を長くさせているのか。二人ぼっちのプレッシャー。話題に窮しているキルリアは、駐車場の黒い舗装面に縛りつけている目を恐々と上に傾ける。自動販売機の中に小銭が落ちる音。肩幅の広い背中があった。光沢が冠をつくる金色の後頭部。スーツの下にうまく負傷を隠した、キズミ・パーム・レスカの弱気がしない線形。
 嫌いではない。でも好きかと言われると難しい。
 
 本部勤務だった国際警察官アイラ・ロングロードが本人の強い希望でアルストロメリア警察に赴任したのは、つい先日のことだ。キルリア=クラウとキズミ・レスカの関係は、アイラのアシスタントポケモンと、異動先で待ち受けていた折り合いの悪い部下という、微妙なものだ。当然、この短期間で彼らが親睦を深めるような出来事があったはずもなく、乏しい観察機会を元にキルリア=クラウがキズミという青年の個性を主観でなぞろうとすると、まず人当たりの悪さが最前面にくる。彼がアイラに対して反抗的で、しかも何につけぶっきらぼうな口調が目立つせいだ。それに性格的に冷めているのか、一度も笑った顔を見たことがない。彼の同期で旧友のミナト・キンジョウが笑顔を絶やさないのとは対照的に。
 だが、キズミは優秀な刑事だ。甲冑で武装しているかのような近寄りがたい間合いを裏付けるのは、彼の素気ない態度だけではなく、エリートを多く輩出する養成クラスの出自に見合う能力のためであるとクラウは得心している。
 そうと言うのも昨夜の誘拐未遂に際し、アシスタントとして護衛を務めるべきところをたまたま別の捜査で外していた自身に代わり、彼は率先してアイラの捜索に赴いてくれたのだ。
 無線を聞いたときは体の芯から凍り付いた。くり抜いて空洞になったような胸の中を狼狽だけが狂った速さで駆け抜けていったことを覚えている。キズミがいなければどうなっていたことか。彼がフライゴン=ライキの訴えに真剣に耳を傾けてくれなければ今頃。「もしも」の連鎖が風鳴りとなる中で、人ならざる外敵に立ち向かった彼の気概は一層クラウの心に感銘を響かせた。
 性格の不明点も多いが、おそらくラルトス=ウルスラはこの人物に仕える生き方に苦労はあっても不幸はないのだろう。そんな風に考えが変われたのも、キズミの容態を真剣に気遣う彼女の姿が印象に強く残ったからだ。クラウが特別に気になるラルトスの境遇を心配していたからこそ、それが分かった今回の安堵も大きかった。
 でも。そうなると余計に普段の冷淡な言動が理解できなくなった。どうあがいてもキズミ・レスカの輪郭が破綻してしまう。手掛かりがたくさんあろうと、直接対決を欠いては結論が出そうもない。
 そして今ようやく、チャンスは目の前に来た。ところが面と向かって冷たくあしらわれるのが恐くて、なかなか一歩を踏み出せないでいる。
 自分は意気地のないキルリアだ。ちっぽけだ。
 物心がついた頃からちっとも成長していない。キルリアの落胆を裏付けるのは、幼女だったアイラがラルトス時代の小さな手を握りしめて、呟いた古い記憶。

――国際警察はね、人とポケモンを助けるお仕事なのよ。だからパパは悪くない。ママとお姉ちゃんが何を言っても、私は……――
 
 父親を庇う幼い声で、涙をこぼすまいと耐えるのに必死で力の加減を忘れていた。
 痛いから離してとは言えなかった。ひやりと冷えた彼女の手を包み込むのに、自分の両手があまりに小さなことが哀しかった。
 この身を全て盾に変えても、主人を護るのに足りないのだと思い知らされた。

 アイラを辛辣な物言いで傷つけるキズミ。はたして彼女は彼を憎まないと言うのだろうか。ラルトス=ウルスラやミナトの信頼を疑う訳ではない。ガーディ=銀朱がキズミを慕う理由も必ずあるのだと思う。
 まるで虫食い穴を糸の通っていない針で縫い合わせようとするかのように、いくら考えを巡らせても帳尻が合わせられない。頭を悩ますクラウの心の声がついと漏れた。
(僕だって信じたいよ……国際警察官に悪い人はいないって……)
「そういう理想は嫌いじゃねえな」
 瞬間。刺激を遮断していた暗い水槽のような思考の殻が破れて、風が太陽の匂いを引き連れてクラウの全身にどっと肉迫した。
(えっ)
 どのくらい没入していたのだろう。何か言ったような気がする自分の台詞も、たった今聞いたはずの彼の返答も、同時多発的に忘れてしまった。ダメじゃないか、物思いにふけって現実をおろそかにしては。クラウは心の中で自分を叱りつけながら駐車場を出た。会話の切っ掛けを作るためにあれほど苦心していたことも忘れて、無我夢中でテレパシーを送り飛ばしながら。
(ごめんなさい! 僕、何か変なこと言いましたか!?)
 キズミは車道と沿道を線引きする白いガードパイプに腰掛けていた。
 空よりも濃い青の目がキルリアを見つめた。
 軽い下手投げで、リリースされた缶ジュース。
 サイコソーダのプリントが施された外面がきらっと光った。至近距離で『念力』を使うまでもなく、両手で受け止めたクラウは驚きを押さえられない思念で訊く。
(これ……)
「朝メシのつなぎに」
 赤い瞳に嬉しさがあふれて本物のルビーに負けないくらい輝いた。
(ありがとうございます! あっ)
 自分が飲食の恩で彼になびいたと知ったら、主人のアイラはどう思うだろう。
(やっぱり、お気持ちだけで充分です……)
 暗い顔で返そうとすると。
「気にするな」
 そう言って受け取らず、キズミは片手で自分の分の缶のつまみを引き起こした。スコアに沿って切れる飲み口。プシュッと抜ける炭酸ガスの爽快な音が、本に栞を挟むように記銘の一ページに記される。怪我をしているほうの腕を使わずに、作為のない技術が感じられる動作だ。
 ああいう開け方もあるのだな。キルリア=クラウは挑戦心をそそられた。自分でもやってみたい、無理ならせめて両手を使って。思い立ったが早速行動だ。そうは意気込んでみたもののやはり、キルリアの不器用な手では缶をうまく固定できない。胴も蓋も氷を持つようにすべってしまう。手の平に染み込む冷たさが少しずつ焦りを強くする。両手の位置を入れ替えてみようか。彼が開けたようなイメージを重ねて、スムーズさを意識して取り組んだ。
 ふと自身が注目を浴びていることに気づき、クラウは慌ててサイコソーダを後ろ手にした。バカなことをしていると思われたであろう。苦笑して予防線を張った。
(キルリアのくせに、最初から『念力』で開けろって思いますよね……)
 怜悧な目だ。まるで水晶に晴天下の海を流し込んだかのように澄んでいる。ようやく、間近で彼と差し向かいになる機会を経たのだ。実感に伴い、クラウの知る限りの言動によって植え付けられていた冷血な目という偏見は霞んだ。
「それは置いておけ」
 そそくさと、パイプの下に彼とクラウの二本のサイコソーダが並んだ。
「利き手はどっちだ」
 言いながら屈み込もうとしたので、クラウは急いで彼の座っている横によじ登った。本人がいくら大丈夫そうでも、足を怪我している人間に無理をさせたくない。
(僕の? 利き手なんてありませんよ)
 変わったことを訊く、と首を少し傾げる。エスパーの種族柄、キルリアがわざわざ手や腕を使って細かい作業することは少ない。まして国際警察のアシスタントともなれば、『念力』だけでほとんど工面できることはよく知られているはずだが。
「両腕をあげて角に当ててみろ」
 奇妙な指示をする人だなと思いながら、クラウは素直に従った。
「次は真っ直ぐ、正面に向かって伸ばせ」
 滅多にしないポーズなので、これで合っているのかと不安になる。
「右だな」 
(えっ)
「右手を」
(は、はい)
 言われるがままに右手を差し出すと、キズミは静かにその手を受け取った。
 クラウは握手では分からない男手の細部を目で追った。アイラの手とは似て非なる。彼の手は指が長く無骨な骨感さえ格好がつく。掌は硬く水気の少ない表面をしていてその下の密度の大きい肉質に安定感があった。陽だまりのような、携帯獣の心の拠り所になるような温かさだ。
「第一指……ここだな」
 何の変哲もない卵形の手を、軽く揉んだだけでピンポイントに敏感な部分を突いたことにクラウは度肝を抜かれた。そのまま彼は目を疑うような正確さで、最終進化系になれば三つ叉の指先となる感覚点のありかを押さえてしまう。この人は。胸の内で一気に言えない感動があって、クラウは一拍置いた。すごいや。
「力は入るか?」
(うーん、こんな感じです)
 指で軽く押さえられた部分が、不器用に盛り上がったり平らに戻ったりする。
「筋がいいな」
 意外な人から意外な褒め言葉を言われると、モチベーションもぐっと高まる。自然と背筋も伸び、クラウは嬉し恥ずかしでほくほくした。
「ここを」
 主な感覚点を指圧しながら、具体的に力の入れ方を指導するキズミ。そうして刺激した箇所に缶ジュースの上蓋を当てて、イメージと体感を結びつけて要領を掴めるようにする。一音たりと説明を逃すまいと、聞き耳を立てているクラウ。
「焦らずゆっくりやればいい」
(はい!)
 勇んで手を伸ばした途端、缶を突き倒してしまった。気を取り直して、最初からだ。一度目。サイコソーダはすべって転がった。諦めず、二度目。つまみに上手く力を伝えられない。教わったことを注ぎ込んでの、三度目。まっすぐ縦に置き、左手で缶胴をしっかりと押さえる。右手にこめた力が拡散して、手首より先が震えた。タブを引き起こそうとしたが、滑る。また滑る。も一つおまけに滑った。
 たった一人の支援者の顔色を窺おうとしたが、すんでのところで我慢した。焦らずゆっくりでいい、そう言ってくれたではないか。気力がマイナス百パーセントになるまで、自分はまだ頑張れる。
 偶然、手先がつまみに良い具合に引っかかった。胸から上の体温がふわりと上がった。慎重にじわじわ力を増していく。そこだ、今だ、とクラウの心の声が弾けた。
 缶はプシュンと痛快な音を立て、開いた口から白泡が噴き出した。
(開いた!)
「やったな」
 祝砲にもまさる称賛だ。華奢な白い両腕が竹馬のように伸び上がり、ガッツポーズした。細い足はくるるっとピルエットを決め、満面の笑みを浮かべたキルリアは声の送り主を仰いだ。
(はい、やりました! 見ました!? 僕、『念力』なしでやりましたよおっ! やったあ!)
 目元の先鋭を失い、雪解けの季節を介したようにほころぶキズミの顔。
ぽーんとクラウの心臓がはずんだ。この人は笑えるのだ。もの柔らかい開花そのものに。まみえた者が緑風の快さに浸れるような表情で。職場での凛々しい風貌は緊張を余儀なくしてきたが、こんなにも親しみやすさをくらましていたとは。人の容姿にとやかく口出しするつもりのなかったクラウでさえ、彼にもっと笑ったほうがいいと力説したくなった。
 でもその前に。逸りを抑えて佇まいを正す。興奮のあまり忘れかけていた、先に伝えておかなければならない言葉がある。
(キズミさんのおかげです。ありがとうございました)
「おかげは言い過ぎだ」
(そんなことないです!)
 クラウは熱くなった。
(手で何かやるってすごいことなんですよ! でもどうして協力してくれたんですか? 僕が、)
 自信なさげに、直視をためらってから。
(キルリアの僕が手作業なんて、無駄なことしてるって思いませんでした……?)
「別に」
 あっさり言い切られた。
「刑事の原点はトレーナーだ。トレーナーがお前達の長所を信じずに、伸ばせなくてどうする」
 高く天望するように。胸の空く刃文の口で大義を語る。
 兄貴分として慕いたいと、クラウは一瞬本気でそう思った。
(でも僕たちの長所……僕の長所って?)
「やる気はお前の強みだ」
(はあ)
 返答に詰まった。納得できたような気がして、励まされたように感じて、なのに全くそうでないような曖昧な気分。けれども一つ嬉しくなったのは。
(変わったことを言うんですね。昔アイラさんも似たようなこ)
 しまった。
 ハッとテレパシーの口を噤み、クラウの視線が真っ逆さまに落っこちた。
 色の白い顔が青ざめて灰色に近づく。彼女の名前を出せば、雰囲気が悪くなるのは必至だ。額に脂汗が浮かび、心拍数が上がっていく。
(ご、ごめ――)
 否定と自問が寄ってたかって時を止めた。
 保身のために条件反射で謝るのか。そうだ。そして誰よりも謝罪を情けないと感じるのは自分自身だ。そうと信じる証拠をクラウは持っていた。ここに、強い感情がある。マスターの名に懸ける想いを自ら砕いて良いはずがない。恐怖心がゼロになったとは言い難いが、苦手意識に囚われていた頃に比べると少しは理解が進んだつもりだった。彼はおそらく、自分というキルリアの意思を無下に貶すような人物ではない。だから。
(やっぱり謝りません!)
 突然、自分を鼓舞するように思念の声を張り上げた。
(本当はずっと……言わなきゃいけないと思っていたんですから! もう、ごまかして先延ばしにしたくないんです。急だけど、あの、アイラさんのこと……! すみません、じゃなくて! ありがとうございました……)
 思いをぶちまけながら、泣き出しそうに歪んでいくクラウの顔。
(あの時僕はミナトさんと仕事中で、間に合いませんでした。僕は、僕のマスターを助けてくれたあなたに、ずっとお礼が言いたくて……でも、キズミさんはアイラさんと反目してるじゃないですか? だからアイラさんの名前を出したら嫌な気持ちにさせるんじゃないかって、申し訳ないし、キズミさん怒ったら恐そうだし、でも話してみたら思ったより良い人そうですし、どうしたらいいか分からなくて……)
「クラウ」
 名前を呼ぶ。地面に降りて屈み、目線の高さを近づけたキズミは小さな肩に手を置いた。
「礼はいらない。被疑者には逃げられた」
 クラウは項垂れた。
(……)
「お前にはすまないと思う。だが当分お前の主人と馴れ合う気はない」
(……)
 冗長という言葉も聞いて呆れるだろう。過剰に垂れ流した自分の訴えに対して、得られた返事は奇妙に高い純度を誇っていた。そこに安置された疑問には、野暮な詮索は無意味という大きな諦観があった。どんな物見なのだろう。彼のように、線形を保ったまま過失を認めるというのは。不思議と、キルリア=クラウの鼓動は落ち着いた。風の去った湖面のように、まだほんの少し、気持ちがザワザワしているけれど。
 頭を使うと喉が渇く。缶を手に取り、クラウは貰ったサイコソーダを飲んだ。液体中の細かいガス球が、喉にシュワシュワと刺激を与えながら通り抜けていく。
口を離した。上蓋の縁に溜まった雫を転がしながら、ぼんやりと反省をはんだ。
(いきなり取り乱して、すみませんでした)
 そよと風が吹く。他人の足音。排気ガスの匂い。
 あれほど居心地の悪かった沈黙が、今はまんざら悪く感じられない。気負いすぎていたのだろうか。
(……少し、自分の話をしてもいいですか?)
「いつでも」
(ありがとうございます)
 クラウは顔を上げて、にこりとする。キズミが一番上のパイプに座り直したのを見届けると彼の正面に立ち、腕を広げて息を吸い、力を込めてまぶたを閉じた――

(僕、エルレイドに憧れてるんです!)

 一度火がつくと、胸の奥がたくさんのカメラのストロボを同時に焚いたような点滅に包まれた。この話を国際警察官に打ち明けたのは初めてだった。秘密のままゆっくり朽ち果てさせることを自分に課していたのに、まさか、ほとんど話したこともないような青年を相手に戒めを破ってしまうなんて。アイラを差し置いた背徳感で頭がふらふらしながら、もっと確固とした高揚感がキルリア=クラウの足場を支えていた。
(かあっこいいじゃないですか、エルレイド!」
 はっ! と居合い斬りのポーズを取り、クラウはハイテンションな笑みを零した。
(居合の名手! 伸縮自在の刃! 僕もあんな風になりたい……っ。それに格好良さだけじゃなくて、サイコパワーにばかり頼らずに自分の体を使って、色んな事を肌で確かめながら出来るようになりたいんです)
 上ずったテレパシー。魅了された小さな溜め息。羨望をにぎる小さな拳。
 けれども突然ぱたりと両腕を下ろし、照れた幸せそうな顔に切ない影が差した。
(でもアシスタントには、サーナイトのほうが向いてるんですよね)
 武闘に秀でたエルレイドよりもサイコパワーに通じたサーナイトのほうが多方面でサポートが利く。起用率は後者が圧倒的だ。それに、特性『シンクロ』が消えることに難色を示す国際警察官も多い。アシスタントの特色が失くなると言われると反論できない。
(直接訊いて確かめたことはないですが、アイラさんは僕がサーナイトに進化することを望んでいると思うんです。たまに、そう感じます)
 いたずらに人間の感情や思考を感受しないように訓練を受けているものの、キルリアの特性上、自分と相手の意思に関係なく心の深みを共有してしまうことは少なからずある。あれもこれも、言いたい事を綺麗にまとめるのは難しい。幸いキズミは口を挟まず聞き役に徹してくれている。単純なことだが、ゆっくり本心にかかる言葉を選別できる時間が有り難かった。
(アシスタントとして、マスターの期待には全力で応えたい。だから、自分の望みを黙っておくのが一番賢いやり方なのは分かってます。でも進化は一生の問題だと思うと)
 サイコソーダの缶に映った影は、自分の白い顔と分からないくらいぼやけていた。
(時々……やるせなくて)
 ぐっと中身を煽る。喉に気泡の感触が残っているうちに、真面目くさった顔で訊ねた。 
(キズミさんが僕の立場なら、どうしますか?)
「あんな上司に尽くさない」
 即答だった。
(そう言われると思いました。自分で考えなきゃダメですよね)
 クラウも思わず苦笑い。
(……せめて、もう少し自分に自信をつけたいです。エルレイドに進化しても似合うと思われるような、たっくましいキルリアになれたら……はは、無理ですよねそんなの)
「鍛えてみるか?」
 直後、水を打ったように静まりかえった。
(……えっ)
 ややあって、間抜けなテレパシーを絞り出す。
 キズミのほうは至って鷹揚に請け負った。
「俺はいいぞ、お前のやる気に賭けても」
(けどそれって、アイラさんに内緒で勝手に特訓するってことですか? もしアイラさんにバレたら……)
「全面戦争をするまでだ」
 クラウは目眩がした。
(お二人の仲をこれ以上険悪にするようなマネはできませんよ!)
「だったらバレる前に強くなればいい」
 言い分がむちゃくちゃだ。しかし正論でぐうの音も出ない。
「非番か休みの大体週一、銀朱の特訓のついでだ。判断はまかせる」
(……)
 頭が痛い。
(…… ……)
 耳鳴りがする。
(…… …… ……)
 知恵熱が出そうだ。
(わかりました!)
 返事は突沸した。
(キズミさんの言う通りです。やるからには……やります! 一日でも早く力をつけて、迷惑がかかる前に自立すればいいだけの話ですよね! 最後は僕とアイラさんの問題なんだ、それまであなたのお力添えを断る理由がありません!)
 空っぽのサイコソーダの底を地面に置いた。ツインテールのような緑髪は水平に浮き上がり、泣きはらしたような赤い目を下に向けたまま真っ直ぐに立つ。肩がかすかに震えていた。
(本当は、本当はすごく不安です。訓練学校で学んだ以外のことは、僕は何も分からないんです。でも、憧れのエルレイドに近づけるのなら……お願い、します!)
 居合いとは極東の武芸らしい。オリエンタルにかぶれたクラウは最高の真心を示すべく地面にがばっとひれ伏した。
「膝が汚れるぞ」
(構いません! 僕は弟子入りします! 今日からあなたを師範と呼ばせて頂きます!)
 キズミは声を上げて笑った。
 整った面差しが向日葵のように晴れやかだった。ちょうど脇腹の傷の負っているあたりを、揺らさないように手で押さえていた。
「やめておけ。定着したら警部補の前でうっかり呼んでオジャンだ」
 今の笑顔の十分の一でもいいから、アイラに見せてあげて欲しい。そうすれば。
 面を上げて呆気に取られ、苦笑しつつもクラウの心の片隅がわずかにひりついた。
(そうですか……残念です。でもお世話になるのは本当ですから、どうぞよろしくお願いします。銀朱の訓練の邪魔にならないように気をつけますね)
「お前が見込み通りのいいヤツで良かった。ウルスラに惚れてくれてありがとう」
(はいっ、もちろんウルスラ、さ!?)
 驚いて飛び上がった方向が悪かった。クラウの脳天は、ガーンと凄まじい音を立ててパイプにぶつかった。
(うぁわいだあぁーっ!)
「おいおい、大丈夫か?」
(こ、これくらい……! それより、い、いいい、今なんと!?)
「お、タクシー来たか」
 よいしょ、とパイプを降りてそれらしき車に向かって歩き始めるキズミ。
 クラウは頭をさすりさすり、『念力』で浮かび上がって跡を追う。
(待ってくださいったら!)
 ひょこっと、壁から生えたディグダのように横から彼の前に顔を出す。
(ウル……えっ、なんて言ったんですかさっき……?)
 たんこぶと同じくらいキルリアの頬が赤い。キズミはちらりと横目に留めた。
「じゃあ、最初の課題は“今さっき俺が言った言葉をもう一度引き出すこと”にするか」
 かーっと赤みが顔中に広がり、『念力』の制御が利かなくなって地面に落ちた。
(それのどこが訓練の課題なんですか!? ほんとのほんとに、真剣に答えてくださいよー!)
 特大妖精のようにダンスのステップを踏みながらついて回る。うるさい連れを気にも求めない歩みとは裏腹に、クラウに投げかける彼の微笑は穏やかだった。

レイコ ( 2013/06/02(日) 00:44 )