-1- 気の利かねえヤツ
窓ガラスを突き抜けた朝日が車中にうっすらと光のもやをかけている。助手席のフロアマットには黒ビニールのナップサックが置かれていた。外側からは折れた特殊警棒が見えない。やむをえず破壊したとはいえ、装備に強い愛着を持っていたキズミには辛い選択だったはず。無茶はしないという約束をまた裏切られたという落胆もなくはないが、不在中に主人を負傷させた負い目のほうがラルトス=ウルスラの胸にはこたえた。
しおれている専属アシスタントをルームミラーで見守っていた助手席のキズミは、気まずさを呑み込んで後部座席を振り返る。ラルトスの横のキルリア=クラウに向かって、念押しをした。
「本当にいいのか」
病院に残り、アイラ・ロングロード警部補の意識が戻るまで付き添っていたほうがよいのではないか。そういう意味の気遣いなのだろうが、まるで怒っているような目つきを前にするとどうにもクラウは委縮してしまう。使命感を奮い立たせ、背筋を伸ばして答えた。
(自分の身に何かあったら、僕が代わりに貴方がたを見張るように、と言いつかっています)
ひらひらと、キズミの鼻先に運転中のミナトの片手が割り込んだ。
「警部補なら大丈夫だろ。麹塵と留紺が警備についてんだから。ていうか人の心配してる場合かよ。大ケガ人のくせに生意気だぜ」
にやついている悪友の横顔を、青目が睨む。
「誰が大怪我人だ。これくらいすぐ治る」
「出たー、やせガマン!」
ステアリングを握っていた指がぱたぱたタップダンスした。
「シャツの下、包帯グルグルのサマヨール野郎のくせによ。あっそうだ、この次は霊界の布で手当てしてもらえ。なっ! 進化しろ進化、ヨノワールに」
「これは、医者が大袈裟なだけで――」
(怪我は怪我ですわ)
どんよりとしたラルトスのテレパシー。たちまち車内は無言のエレベーターのような雰囲気になった。いつものことだとミナトは薄い笑みを口に残したまま考える。アシスタントを悲しませる金髪の常習犯が居づらそうなのはともかく、クラウまで縮こまっているのは不憫だ。仕切り直しに合う話題なら沢山持っている。
「そういや、腹へったな。キズミ、お前も腹ペコか?」
アイコンタクトに気づいたキズミは、あとで威張るミナトの得意顔を思い浮かべる。いらっとした。これもウルスラを元気づけるためだと辛抱して、策に乗る。
「そうだな」
「だろ!? ケガ治すのも体力勝負だろ。たくさん食ってエネルギーつけねえと。だったらウルスラ様の出番だ!」
(ウルスラさん、お料理できるんですか!?)
ルビーのようなキルリアの瞳がきらびやかに輝いた。
(すごいや! アイラさんもお料理上手なんですけど、僕はからきしで……同じアシスタントとして尊敬します!)
「へへっ! しかもバカうま! オレなんてしょっちゅう食いに行ってるぜ。キズミもウルスラのメシ、好きだろ?」
計算づくめの誘導だ。これ以上はやめろ、とキズミは視線でミナトを牽制した。日ごろウルスラに余計な気を持たせないようにしているのに、ミナトのペースに合わせているとぽろっと感じのいい返事を漏らしそうになる。肯定は肯定でも、そっけない態度を作り忘れてはならない。
聞き耳を立てるウルスラの心拍が緊張している表情に如実だった。
「……ああ」
ぱっと鳥でも飛び立つようにウルスラの顔色が浮き立った。
哀しむ顔より喜ぶ顔を見たいに決まっている。キズミの肩の力が少し緩む。
ミナトはにんまりした。
「やっぱ好きなもん喰うのが一番だよな!」
(あのう……わたくし……)
手をもじもじさせながら、ウルスラが上目遣いをする。
(よろしければ、皆さまのご朝食をご用意いたしますわ)
(ぼ、僕も頂いていいんですか!? 本当に!? ありがとうございます!)
座席の上に立ち上がり、ピルエット。キルリアの習性は動きで気持ちを表現する。
「ゴチになりまーす! あたっ」
最初から朝食にありつく気だったとしか思えないミナトを小突き、キズミも「トマトは絶対いれるなよ」と絶対に譲れない注意事項を取り付けた。賑わいの中心にいるウルスラはまんざらでもなさそうに両頬に手を当てていた。
車両が、赤信号で止まっている待機列の最後尾につく。
(それでは皆さま、お先に失礼いたしますわ。窓締めをお願いしますわね。急ぎますわね、ゆっくりお越しになってくださいませキズミ様っ)
最後の指名は少し熱っぽく。パワーウィンドウから車外に抜け出した小さな白い姿が、突風にさらわれるレジ袋のように高速で飛び去っていった。
半分は空元気なのだろう。あんな勢いで、空の衝突事故でも起こしたら。
気にして見送るキズミに、お前なあ、と運転席から声が掛かった。
「気の利かねえヤツ」
ミナトが勝ち誇ったように言う。
キズミはすげなく切り返す。
「今更だ」
信号機が青に変わった。
ひとり残された後部座席で、キルリア=クラウが余韻に浸っていた。
(ウルスラさん……なんて優しい方なんだ……)
マスター思いで、周囲への気配りができて、淑やかに見えて行動力もある。『念力』で宙を飛ぶ姿は天使のようだった。テレパシーに乗せてひとり言を発していたらしいと気付いた時には、バックミラー越しに気難しげなキズミの目と目が合っていた。
(すみません!)
「なぜ謝る」
(……すいません)
クラウはしょんぼり頭を垂れた。秘めた気持ちがミナトにばれたことはもう諦めるとしても、一番厄介そうな人物に知られるのは日常の安寧に関わる。非常にまずい。絶対に隠し通さないと。
ミナトの走らせるジョージ・ロングロードのマイカーがコンビニエンスストアの前を通り過ぎようとした時、窓の外を見ていたキズミがストアから出てきた一人の男を目に留めた。
「あれ、フィッシャーさんか?」
ミナトもさらっと流し見て、確認する。
「だな!」
クラウは車窓に顔をくっつける。二人の知り合いらしい。どんな人だろう。
ミナトはハザードランプを点け、路肩に停車した。
「おおーい、フィッシャーさーん」
ミナトの呼ぶ声を聞いて、男が近づいてきた。
髪色はオレンジ系。ワイシャツは無頓着によれており、垂れ目がおそろしく細い。眠いのか元々なのか、初対面のクラウには判断がつかない。あごにはぽつぽつと無精ひげが生えている。見るからやる気のないその男は腰を屈め、窓から車内を覗きこんだ。
「朝っぱらから元気だなぁ、キズミナ」
ミナトは揚々と、キズミは淡々と挨拶する。
「おはよーっす、フィッシャーさん!」
「おはようございます。その変な略称、やめてもらえますか」
フィッシャーは商品の入った袋の取っ手を手首にかけ、上着のポケットからおもむろに紙巻きタバコの箱を取り出した。のろのろと一本摘み上げ、軽く咥えたフィルターの反対側の先端をライターで炙る。先っぽから白灰色の煙がだらだらと立ち上った。
「一人ずつ呼ぶの、かったりぃ」
男はあごをぽりぽり掻く。氏名はポワロ・フィッシャー。
国際警察官ではなく、アルストロメリア警察に所属する地元警察官だ。
「レスカおめえ、怪我はひでえのか?」
「大した事はありません」
「金城は送迎か」
「はい。こいつ家に届けてから、オレは出勤っす」
「おめえらよぉ、今思いついたんだが」
フィッシャーは灰を携帯灰皿にとんとんと落とした。
「怪我が大したことねえんなら、ここでレスカとおれ、入れ替えるなんてどうだ」
ミナトとキズミはそうきたかと表情をそろえた。
「デスクに忘れモンしてよお、休みの日にわざわざ取りに行くの面倒くせえ」
「うわなんかヤダなそれ。オレ、こいつんちで朝メシ食いてえんですよ」
ミナトが一応渋ってみせる。
フィッシャーはあくびと棒読みの中間のような喋り方をした。
「今度、可愛いねえちゃんがいる美味い定食屋でおご――」
「尊敬する先輩分の頼み、この後輩分におまかせあれ!」
「敬礼を汚すな」
ミナトの変わり身の早さに、キズミが顔をしかめた。
「レスカー、頼むよ。タクシー代出すから」
食い下がるフィッシャー。
「その金で自分がタクシー乗ればいいでしょう」
「距離が違うだろぉ距離が。お? なあレスカ、ウルスラは? さては……」
「降ります」
「領収書、貰っといてくれー」
ブウンとエンジンの唸りを上げて、フィッシャーを乗せた車が行ってしまった。
置いて行かれたキズミと、付き添いで下車したキルリア=クラウ。クラウはマネキンのように直立不動でいる。何か喋ろう。プレッシャーで挙動がおかしくなる前に。なんでもいいから。コミュニケーションは大切だから。
(で……ではキズミさん! ご自宅まで、任意同行をっ!)
「俺は重要参考人か」