NEAR◆◇MISS















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第三章
-14- 黒衣の女
 この穴蔵のような闇の中だ。色の識別はほとんどつかないがおそらく真っ赤なマニキュアのせいだろう、黒い外套を着た女の長い爪が油を塗ったように照り付けた。鋭く尖った先端を人質の白いうなじに宛がい、ブラウスの襟元に向かって長々とミミズ腫れを浮かせる。肩に担ぎ上げられているアイラは、下を向いたまま動かない。原始的な凶器が今にも主人の喉を掻き捌きそうで、見ているフライゴン=ライキは気を揉んだ。
「細い首……落とすのも簡単そう」
 甘ったるい声。黒い女は自分の優位をひけらかし、脅迫を嗜好している。キズミは特殊警棒を中段に構えた。それ以上身も表情も動作をなくして、相手の喜ぶ餌を与えない。フライゴンもハッとして、彼の見様見真似で全身の泡立ちを抑え込む。敵のペースに嵌ってはいけない。欲しい反応を引き摺りだそうとして、女の脅しがエスカレートするのではと一瞬身の毛もよだつ感覚に支配されるも、緑竜はおぞましい想像を頭の片隅に押しやった。
 顔貌を影に閉じ込めているフードの穴から、洞穴で響かせるように、忍び笑いをふっと洩らす。不穏な一挙一動がじりじりと彼らの体感温度を下げてゆくようだった。
「ジャマだし、刻んで捨てちゃおうかしら。解体ショーの前にやり遺した事はある? 愛の告白とか」
 嫌らしく畳み掛けてくる。
 唸り声を噛み殺すライキ。
 牙を剥き出すドラゴンには見向きもせず、眉一つ動かさない青年のすかした表情が崩れる瞬間を見逃すまいと、嬉々として目を光らせる女。
「あら、興味ない? こんな所まで追いかけてくるんだから、てっきりご執心かと思ったわ」
 鼻先でせせら笑う。目論見が外れてがっかりしたようだが、物言いが白々しい。
「ハーデリアを傷つけたのはお前か」
 重い口が突然開かれ、黒い女はまるで褒められて有頂天な子どものように身を乗り出した。上機嫌にまくし立てる声のトーンが上がってゆくにつれ、フライゴン=ライキは悪感情が募っていく。それでも、分別をなくすほど正気はなくさない。常にキズミの姿を視界に入れ、いつ飛んでくるか知れない指示に必ず応えてみせようと、アンテナを張っていた。
「あんまり弱くて笑っちゃった! 家畜はやっぱり人間がいないとダメね。野生を見習ってもっと普段から自分の頭を使わなくちゃ。ま、その野生も大概弱いけど。なあに? 傷害罪になるの? あっ、それとも器物損害? こわーいオジサン達に尋問されるのかしら」
 くすくすと、笑い声の漏れる口元を押さえる仕草。
「飼い主を助けようなんてナマ言って。洗脳って恐いわ。誠心誠意仕えたところでなぁんにも得しないのに。さっさと見捨てちゃえばいいのに。ね!」
 嘲笑が弾けた。
 無言の彼から目配せを受け、ライキは心持ち背筋を伸ばしてみせる。
 ロング警部の病院を発つ前に、フライゴンから拉致現場に遺されていたアイラのトランツェンと共にモンスターボールも預けられていたキズミは、満身創痍のハーデリアを手の内に呼び戻した。
「あたしのこと、イヤな女だと思った? 悔しかったら怒鳴っていいのよ?」
 彼は青い双眸を冷ややかに細めた。
「ねー、ちゃんと聞いてる? あなた無口ね。つまんない」
 フードの内側に手を突っ込み、髪を掻き上げる素振りをする。
発する人語で「女」と簡便に済ませているものの、黒外套の中身が人間か携帯獣か――まだ素性の片鱗すら掴めてない。下手に口を利くと調子づいて人質に余計な関心を向けるとも限らなかったが、そう悠長にしていられないか。キズミはトランツェンのグリップを握り直した。
 ライキも呼吸を整える。手荒になるが、致し方ない。
「さっき、あたしを捕まえるって言ったわよね? 痛めつければ少しは愛想も良くなるかしら? じゃあ、そろそろ――」
 真紅のルージュが輪ゴムのように伸び縮んだ。
「遊んであげる!」
 マントが煽られる。振り上げられた腕の末端、女の爪の通った軌跡が強烈な赤い残光を持った。瞬間、フライゴンの足が、割れて亀裂の入るほど強く地表に衝撃をぶつける。草の切れ端が潜んでいた虫のように跳ね上がり、地中を伝播した『地ならし』が黒外套の直下にクレーターを掘った。震動と陥没に足を取られる女。ライキは好機を逃さない。飛翔したフライゴンは敵の頭上と機影が交差した蝕に、『電光石火』の早業でアイラを掠め取った。
「チッ!」
 人質を奪われたゆえの舌打ち。しかし、突如笑い声に変わる。
 凍り付いた表情で旋回するフライゴン。
 野面を滑る悪霊の如き風采が、緑竜とはあらぬ方向に驀進していた。
 黒い外套の裾が荒ぶった。跳躍し、空中から諸手の鋭利な爪で一閃、二閃。
 キズミが両手持ちにした棒身で攻撃を受け流した。
 女は背中を丸めて宙返り、体の正面を彼に固定したまま着地する。と、着いた足はバネを踏んだように弾力に富み、瞬間移動さながらに間合いを詰めた。
「ここを離れろ!」
 飛び掛かりざまに飛来した女の爪を躱しながら、キズミが上空に向かって声を張り上げる。細腕が震え、抱きかかえている少女を滑り落としそうなフライゴンは急停止し、羽音で聞き違えたのではないかと我が耳を疑った。
 大きく振りかぶるキズミの腕。アイラのトランツェンとオハンのモンスターボールが遙々と飛んでくる。ライキは速度を上げて空中で受け取った。
「奴には仲間がいる! 呼ばれる前に、行け!」
 女の共謀者が最低一人はいる。色違いのブラッキー=ダッチェスを襲ったあの黒外套の男が、いつ此処に現れるとも限らない。モンスターボールに収納できるオハンはともかく、気絶したアイラ・ロングを護りながら立ち回るのは自爆行為。ライキの戸惑う顔が目に浮かぶようだったが、キズミに細かく説明している猶予はない。
 女の片手につき五本、定規を当てたような赤い平行直線がクロスし、咄嗟に特殊警棒を引いた空間を賽の目切りにした。後退したキズミは重心を落とし、鋭く踏み込んで打突する。狙いは正確に喉元を捉えていたが相手の回避スピードに及ばない。下がってすぐ、黒い浮遊霊のようなシェープが巻き戻しを喰らったかのように跳ね戻ってくる。
「約束したろ!」
 取り決めは覚えている。彼が命令を聞けと言ったのは、こういう状況を予測していたのかもしれない。フライゴン=ライキは、腕にくるんだ柔らかな手触りの女性を見た。寝顔は穏やかだが、乱暴に眠らされたのだろうと想像が付く。何の為に。なぜこんな酷い事を。眼窩が焼け付くように熱くなり、主人を抱える細腕の輪が縮まった。
「アハッ、そういう切羽詰まった声出せるんじゃない! 最初から聞かせてよ!」
 打ち込んだフックを警棒で遮られた女がジャンプで後ろに大きく距離を取った。
 ライキは深く吸気した。雨水を吸った土と草の青い汁の匂いが鼻から肺を満たす。取り込んだ酸素をエネルギーに置換し、『竜の波導』につぎ込んだ。フライゴンの口から放出された緑の衝撃波をかろうじて避ける女。だが、傍に命中して体を紙くずのように吹き飛ばされた。
「邪魔!」
 女は怒り狂った声を上げ、マントの巻き付いた右腕を夜空の緑竜めがけて突き出した。掌に集中し、最も強力な一点から邪悪なオーラの二重螺旋が暴噴する。
 『悪の波導』が届かない高さへ逃れるライキ。気休めの仕返しが済み、留まる理由もない。アイラの無事を願う気持ちが、彼も同じだからこそ。自分に与えられた使命を全うする。
 オーラの湧出が終わるより早く、キズミのスライディングが無防備な女の足を蹴り払おうした。しかし、察知した女がその場で高く跳ねてこれを避ける。空振りからの、横様に振り切った脚の遠心力と手の反発で反重力の如く立ち上がるキズミ。女の指が十本の釘のように迫る。狙われた胸を九十度反らした。避けた右から近づく左に正対し、片手持ちで上段から振り下ろされるトランツェン。女の左手がこれを受け止める。が、警棒を掴んた白い拳を上からキズミが一回り大きな手で握って固定し、相手の背側に回り逆関節で左腕を固めて体を押さえ込む。
 女が痛みで短い叫びを発し、光る赤紫の霞を嵌めたような右手が振り上げる。キズミが直感的に離れた瞬間、女の掌が地面を打ち付けた。隕石の衝突を彷彿させる、ドーム状に隆起した赤いインパルスと黒い圧力波。タッチの差で難を逃れたが、防御姿勢のまま爆風に押し流される彼。今のは、悪タイプの希少技――『ナイトバースト』。正体に結び付く有効な手掛かりか。
 掴みかかろうとする女。キズミも攻めに転じる。
 右手の警棒を斜めに振り下ろし、太腿の外側を狙うと見せかけた。ガラ空きの横面にすかさず爪が伸びてくる。武器を持たない左の小手で上段受けし、掴んで捻り上げた腕の下をくぐらせた警棒を、女の肩の内側から喉に跨らせて一気に押しひしぐ。女の身体が後ろに反って背中から倒れ込んだ。しかし、まだ終わっていない。蜘蛛の脚のように開いた手指の爪が彼の鎖骨のちょうど下を斬り付ける。ワイシャツの下の皮膚に達する裂け目が入り、首を押さえつける警棒の力がわずかに緩んだ隙に女は仰向けから抜け出した。
 転がり出た先で四つん這いとなり、獣のような低い唸り声を上げる。
「思ったより場慣れしてるじゃない。いい感じよ」
 すっくと二足で立ち上がり、猛スピードでジグザグに滑走する。速い上に黒服が闇に溶け込む。狙いを付けにくい。キズミはぎりぎりで赤爪の接近を見破り、護身に食い付いた。
「フフ――」
 女は警棒を両手に掴み、体重を乗せて強引に押していく。キズミの踵がじりじり溝を掘る。純粋な力比べに持ち込まれると、彼にほとんど勝機が無い事は目に見えていた。パキ、バキ、と防具が古枝のように軋んでいく。
「脆いわねえ、ちゃんとメンテしてる?」
 せせら笑い、突然トランツェンを手放す女。
 いきなり黒いスーツジャケットの上襟に指を差し入れられ、キズミは服ごと引き倒されそうになった。なんとか踏み堪えてトランツェンを振り下ろすも、離れた手とは別に腕を引っ掻かれる。上着の袖を持っていかれた。腕の裂傷がワイシャツの袖の切れ目から除き、白い無地がふわっと赤く染まっていく。鎖骨の下と合わせて二つ、誤って零したインクの大染みのようだ。流血の痛みに気を向ける暇もない。彼は次の攻撃に備えたが、一瞬の遅れが徒となって今度は大腿をざくりと傷つけられる。苦痛にはっと息を呑む。腕が浮いてしまい、脇腹にも軽く一撃が入った。
 せめて体勢の立て直しを。下段回し蹴りは脛が相手の脹ら脛を掠めただけ。上段回し蹴りはわずかな隙間を遺して咽頭に中足が届かない。切れの悪い彼の蹴りは、間合いを稼ぐだけで精一杯だった。
「バカみたい」
 吐息混じりに女が囁いた。
 イチかバチか、真横に構えたトランツェンを突き出すキズミ。最も強く衝撃圧力のかかるよう狙い澄ませて。大きな金属音が響き、大振りの爪が彼の目と鼻の先で停止する。共振する女の手と警棒。軋みが大きくなる。直線が歪んでいく。そして。

 トランツェンは部品を飛び散らせて、半壊した。

「だから、言ったのに」
 良い気味だ。たまらない。あざ笑い、女が肩を蹴りつける。
 突き倒されるキズミ。一瞬息が止まるほど強く背中を打った。黒衣の女が馬乗りにして仰向けに組み敷かれる。抑え込まれた両手首は、蛮力を込めようと微動だにしない。まるで氷の手枷を嵌められたように、冷たかった。
「人間だもの。か弱くて当然、ね」
 動くなと警告するように、鋭利な爪が肉に食い込んだ。
「あら、ハンサムね。ちゃんと見てなかったわ。そのルックスがいきる仕事に就けば良かったのに」
 大きなお世話だ。逆にキズミが視認できるのはせいぜい、敵の人相の下半部。フードが邪魔で仕方ない。顎のラインがすっきりした、どことなくあどけなさが残る小顔。形の良い薄い唇を紅が彩っていた。まるで薫るような艶も。可憐な容貌のような気がする。ミナトではあるまいし、こんな時に女性の容姿に興味を引かれるのは異常だ。知人に、似た者がいただろうか。
 女の顔がゆっくりと下がってきた。ちょうど彼の心臓の真上に横顔を押しつける。シャツ越しに柔らかい髪の感触が広がった。
「いい音。動悸って、好きよ。ゾクゾクしちゃう」
 彼女は、頭を胸から離した。
 そして慕情に酔いしれるように、恍惚と吐露する。
「生きてるって……素敵」
 不快な記憶でも掘り起こしたのか、急に声が低くなる。 
「でも国際警察って大っ嫌い。特に男。腕利きな奴ほどね」
 憎悪を込めて吐き捨てるように言うと。
 幾分苛立ちのとれた猫なで声に、変化した。
「トランツェンも壊れたし。あなたの負けね」
 さきほどから、特殊警棒にまつわる発言が多い。相当深い国際警察への怨みが、犯行へ駆り立てているかのようだ。遠距離技を撃ってこないのも、おそらく反射機能を熟知しての対策。冷静に分析しながら、キズミは相手の繰り出した宣告をあえて、写し取る。
「俺の……“負け”だ」
 やけに素直だ。女は唇の端で笑う。
「それって命乞い?」
 陽光の一散。
 その時背筋に覚えた火照りは、当たらずといえども遠からず。俊敏に背後を振り向いた女の、受け身のない左足首に食らい付くオレンジの毛塊。マントの上から深々と刺さっている牙が燦々と輝き、口から金色の光が溢れ出す。
 ガーディ=銀朱の『仇討(かたきう)ち』。
 女は損壊を嘲笑ったが、あらかじめ携帯工具でトランツェンのパーツの接合を緩めておいたに過ぎない。この奇襲に賭ける為に。敗北は相手を優越に浸らせて油断を誘う術にして『仇討(かたきう)ち』の威力を強化する、一挙両得だ。あとは防具を失うリスクとタイミングの兼ね合いだったが、万が一つ銀朱の存在を嗅ぎつけられないよう、風向きに充分気をつけた甲斐があった。
 逆巻くような絶叫の中心に女がいる。脚ごと犬を振り回すが、慣性力をかければかけるほど上下の顎が強く閉まってゆく。傷口から流れ込む熱で全身が炭化しそうなほど熱い、眼底が眩しく、牙の激痛が腰まで響く。
 キズミは膝で立ち上がっていた。拳銃型捕獲器射出機(アレスター)をホルスターから引き抜き、割れたトランツェンを置いて両手に構える。引き金に指の関節がかかった瞬間、爪を立てた女の手がガーディの頭を鷲掴みにしようと襲いかかった。
「来い!」
 キズミの掛け声に反応する銀朱。僅差で口を離し、地面を蹴って放物線に跳ぶ。
掌から接射される筈だった『悪の波導』が地表を粉々に打ち砕き、粘り気のある土を高く舞い上がらせる。女は足許の衝撃に巻かれ、坂道を転がるように横転した。止まると半身を起こし、理性が吹っ飛んでしまったかのような、あらん限りの力を振り絞って叫ぶ。
「ほらね! やっぱり国際警察はクズよ! くそ、ぶっ殺してやる! ああああああ!」
 キズミがアレスターのトリガーを引いた。
 右腕全体を纏った黒紫のオーラが着弾を防ぐ。彼女は四つん這いとなり、草を引き千切って投げ、土を掘り返し、抑揚の激しい声を上げながらめちゃくちゃに荒らしながら吼え哮った。
「みんな、みんな血祭りに上げてやる! 引き裂いてやる!」
 戻ってきた銀朱はキズミの後面に泡を食って隠れ、工事現場の削岩機のように震撼して聞いていた。あの女は足の負傷で動きが鈍っているが、移動の制限で言えばキズミも大して変わらないだろう。血の臭いをさせている少年を改めて見る。彼は軽傷と言い張るかもしれないが、銀朱にとっては大ごとだ。傷口にぎょっと目を剥き、たたらを踏んだ。
 女が携帯獣であるならば、アレスターで勝負を決められる。形勢を窺うキズミ。
 黒衣の背上で大気が陽炎のように揺らぐ。空気の動きが風渡る豊かな被毛にも似ていた。女は動きを止めて、喉の奥で笑い出す。衣擦れの音。裾が内側から持ち上げられる。水平に掲げた右手で彼を指差し、ねっとりと絡みつく物言いで予告した。
「今夜はもう、おしまい。今度逢った時は……そうね、あたしの顔を見せてあげようかしら。きっと、あなたも気に入るわ」
 背筋に走る悪寒をキズミは努めて意識下に押し込んだ。
「さようなら」
 女の手先から二本の光が迸る。
 一つは黄に。
 一つは青に。
 光は携帯獣に姿を変えて、キズミと銀朱の前に立ちはだかった。
「ペール……」
 デンリュウは悲痛な面持ちを下に反らした。
「ロータン……」
 ミズゴロウは厳しい視線を真っ向からぶつけてくる。

 行方不明になっていた――ジョージ・ロングロード警部の手持ちたちだ。

 腕の力が抜け、銃把が手から離れていきそうになった。
 消息を絶って以来、最悪のケースは常に頭の片隅に置いていた筈だ。しかしいざ直面すると、出足の鈍さに嫌でも覚悟の拙さを思い知らされる――
「てめえ!」
 異常な高笑が狂い咲く。真面な怒声の通じる相手ではなかった。
 赤紫に発光した両手を地面に伏せ、高密度の『ナイトバースト』が地盤を壮絶に揺るがした。黒衣を纏った体が爆風に乗って軽々と飛揚する。女は小粒を連射し、反動を利用して闇空に長く弾道を描いていった。身体をねじらせ体勢を立て直し、しなやかに橋梁に舞い降りる。鉄道車両のための軌道を対岸へ、傷ついた足を除く三足歩行で走り去ろうとする黒い後姿。
「待ちやがれ!」
 腿の痛みをおして走り出そうとするキズミの行く手に、ミズゴロウが先回りした。すかさず銀朱が割って入り、ミズゴロウに向かってキャンキャン! と制止の訴えを浴びせる。呼びかけにデンリュウは手で顔を覆ったが、ミズゴロウは取り付く島もなく攻撃の姿勢を示した。前脚を踏ん張り、目一杯開いた口に体の水エネルギーを凝縮する。『ハイドロポンプ』が来る。ガーディは目を瞑り全身をぎゅっと強張らせた。キズミはガーディの上から覆い被さって無意味な壁を張った。巨大槍のごとき奔流が一人と一匹を呑み込む。
 はずだった。
 突然の竜巻に進路を阻害され、『ハイドロポンプ』の穂先が照準から大きくずれ込んだ。猛烈だが美しい歌声のように伸びやかな羽音。恐怖で失神しかけている銀朱を体の下に入れたままキズミは頭上を振り仰ぐ。
 ライキだ。
 足の着き方は荒っぽいがフォルムから優雅さの欠片を振りまいて着陸したフライゴンが、ミズゴロウとデンリュウを威圧するように翼を広げて咆吼する。自分も警察の名を背負う端くれだ。庇って戦ってくれている人達を残してどうして逃げることができよう。賢明だろうが何だろうが、そんな犠牲をアイラは喜ばない。三つ指の細腕で囲っていたトランツェンとボールを取り落とし、特に大事に抱えていた少女をあえて突き放すように手放した。
 反射的にキズミが掬い上げるように腕を差し伸べて彼女の背中を受け止めた。力ない首が、肩に回った腕を越えて後ろに反る。濃い褐色の髪が波打った。振動が腕の傷にズキンと響いたが、彼は迅速に最後まで責任を持ってアイラを銀朱の傍に横たえる。瞬間、弾かれたように蹴り発って真正面からフライゴンの懐に飛び込んだ。
「やめてくれ! どうせアイツら、脅されてんだ!」
 恐竜の腕をした脇の下に両手を通し、肘の鍵で両翼の付け根を下側から抑え込む。密着したワイシャツから血の湿りが鮮やかな緑の鱗にも付着する。
 光線に必要なエネルギーを口腔にチャージしていたフライゴンは、意表を突いたブレーキに体の芯から瞠目した。誤って技の種を嚥下してしまう。日頃の無愛想さから想像しようとも思わなかった声の種類に、彼の懇願に立ち眩んだ。
「警部補を守るのが、お前の役目だろ!」
 どんな理由があろうと、裏切りには変わらないとしても。
 我に返ったフライゴンが束縛を振りほどこうとする。引き剥がそうと彼の肩に掴みかかる。歩行しようとする。キズミは全力で押し戻し、緑竜の前進を食い止めた。悲しいくらい力が釣り合う。ライキに怪我人を乱暴に押しのけられる非情さは無い。裏切り者に手を掛けられそうになった張本人から、なぜこうも強く止められるのか。混乱した鳴き声が散った。
「お前の主人とは違うんだ……俺にそんな、守られる価値ない……!」 
 ドサ、と何かが倒れる。デンリュウが尻餅をついた音だ。尾びれを引っ張り止めようとした手を、ミズゴロウに振り払われて。小柄な沼魚はヒレとエラのついた頭を大きく回して円を描く。一周して定位置に来た途端、ぱっと姿勢を低くし口から濃い竜巻状の『吹雪』を噴き出した。
 蛇行する白い竜が襲いかかるように、彼ら二人の許へ押し寄せた。ライキは矢庭に翼を正面で交差させて盾とする。しかし充分なガードとは言い難く、全身雪と氷の辛苦に晒され、閉じた翼は瞬く間に凍て付いた。翼の外にはみ出していたキズミの両足も氷塊にコーティングされ、地面と一体となった部位が火傷を負ったように痺れる。ロング警部のエースが発したに相応しく、また最悪の相性も絡んだ技の威力は一撃必殺に劣らなかった。フライゴンは意識を朦朧とさせて崩れ落ちた。
「ライキ!」
 キズミは倒れてくる首を両腕に受け止めたが、踏ん張りが利かず押し負ける。凍り付けされた彼の足に不自然な外力がかかり、おかしな角度に捻られた。草の上にライキもろとも倒れ込んだ時、はっきりと足の挫いた痛みを知覚したが、そんな事はどうでも良かった。
 葉擦れの音。地に貼り付いた体に伝わってくる律動的な振動。
「ペール! ロータン!」
 耳を両手で押さえでいるデンリュウが、名前を呼ばれて立ち止まった。振り向いて、涙の零れそうな瞳をして、額の宝石が点滅する。必死に謝るモールス符号を打つ。先を行くミズゴロウが足を休めずに吼えた。デンリュウがびくりと身を震わせ、後ろ髪を引かれる思いで後を追う。
 力の分散する腕をつき、キズミはかろうじて半身を起こした。呼び戻そうにも、手を伸ばそうにも。何もかも手遅れだった。二体は闇の狭間をすり抜けて、彼方へ行ってしまった後だった。
 風。
 うずくまっていたガーディが、風に誘われるようにもぞりと身をよじった。半目を開き、空気中の匂いを嗅ぐ。気を失っているアイラがいた。横たわったライキもいる。他は。そろりと首をめぐらせる。
 事の顛末を悟った。
 震える体を立ち上がらせて、銀朱はキズミの許へ近づいていく。近づくほどに塩気のある鉄の匂いが鼻を突いた。彼の顔を覗き上げる勇気もなく、身を寄せて坐る。去っていった者たちを思い、どこまでも響くように吼えた。

「畜生……!」
 どうして、繰り返す。
 無響を抱いて待つ大地に一発、キズミの拳が叩きこまれた。

レイコ ( 2013/02/02(土) 22:45 )