NEAR◆◇MISS















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第三章
-11- 一本釣り
ブレザー、カッターシャツ、ズボンすら脱ぎ捨てて、シュナイデル校の制服におさらばしたミナトの格好は――
  
「制服の下にウェットスーツ着てたとかぁ、ねーよ!」

アホらしさで、ツッコミの声域も裏返る。
 長袖長ズボン型、肩と体側に青いポイントが入った黒いフルスーツ。水中マスクとシュノーケルは黒い前髪ごと額に押し上げ、足にはフィンを履き、スキンダイビングの装備を万全にしたミナトが笑いながら、状況理解に苦しむリュートに言った。
「ワリぃな! おめえの分なくて。けど、『ダイビング』で濡れねえだろ?」
 そこはもちろん、ハイそうですと頷けば、論点ごとはぐらかされた感じを肯定してしまう気がした。リュートの体は特殊な気泡に取り込まれ、水害から保護されていた。ヌオー=留紺(とめこん)の『ダイビング』の力だ。この『技』の効果で水中でも呼吸の心配はなくなったが、気泡内は浮力が働いて直立が定まらず、リュートは気泡の中心、プラネタリウムで言えば天体投影機のポジションにいるヌオーにしがみついて姿勢を保とうとする。ところでミナトは肩から上だけを気泡に突っ込み、ぬるぬるすべる水魚の皮膚と格闘する少年を悠長に眺めていた。ヘラヘラした笑顔に似合わず締まった体を膜外の水にたゆたわせ、案の定その余裕はリュートの反感を買い、人差し指が水一色の部室内を壊れた秒針のようにブンブン往復する原因となった。
「あっても着るかよ、んなピチピチ! つーか、ソウ! この水てめえの仕業だろ、なんとかしやがれ!」
怒鳴りたくもなる。ポケモンバトル研究部部室の水位は目算して天井まで十センチ足らずのほぼ満杯。さっきの増水した川のような廊下を考えれば、どこの部室も似たり寄ったりの被害だろう。部室棟開設以来の騒動に違いない。リュートが偽名を叫んだ相手は、犯人呼ばわりを華麗にスルーした。
「よーし留紺(とめこん)、行くぜ」
 ヌオーはびろーんと口を広くして、のんびり閉じた。点の目にやる気が感じられない。
水中マスクを引き下げ、気泡から頸を引っこ抜くミナト。防水仕様のショルダーバックは肩にかけたままだった。トプンと水音、泡膜の破れが瞬時に修復される。水没した部屋を上級者と分かるフィンキックで進み、ドアの許へ。室内と室外で水圧が同じになる程度には冠水しているらしい。隙間に空気が溜まっていたらしく、開くときに真珠玉のようなあぶくが発生する。丸っこい枕のような尻尾をくねらせ、水色の影がのっそりとミナトに後続した。ヌオーという核に合わせて『ダイビング』の気泡も動くので、巨大な細胞が丸々一つ移動しているかのようだ。リュートはまだ浮力に慣れず、起伏が乏しく首かどうかよく分からない部位に腕を回し、おぶさるポーズで運ばれてゆく。ミナトの、防水加工された懐中電灯が行く手を照らした。楕円形に広がった光層が大型の目玉模様を浮かび上がらせる。
見慣れたはずの建物の内観は、違和感という仮面を被っていた。浮遊する塵埃はまるで舞い上がった懸濁粒子で、灰色の建材がてらてらと石膏のように反射し、リュートの批評に本物の海底が差し込んだ。いきなり部室に水が迫り上がってきた時のような、今にも生命の危機を感ずる光景ではない。しかし、掌が汗ばんでくる。平凡で、安全な日常が脅かされることの恐怖が心臓を中心に体の中でゆっくりと根を伸ばし始めていた。
ミナトは二階階段の下り口で止まる。『ダイビング』の気泡に頭を突っ込み、息を継いですぐに引き下がる。ハンドシグナルでヌオーに方向を示し、階段の勾配に沿って深度を下げていく。踊り場でターンしさらに潜行していく。折曲り階段は単純に一階廊下と接続しているだけが、リュートはまるで初めての場所に向かうように浮き足立った。
階下。
満水の通路の奥に、面妖は潜んでいた。
「!?」
 麗竜は半身を流れるように横たえ、鎌首をもたげて神秘的に佇立していた。
 曇天の下でまみえた際の、あの眩いような優美さは健在であるが、今般は暗い洞穴さながらの後景にも交わらぬ、鱗の白銀が濃艶に心をかどわかす。
慈しみの携帯獣――ミロカロス。
「あいつ、てめえんとこの長春(ちょうしゅん)とかいうヤツじゃ、あ……?」
 目の端で、ちらりと捉えた光り物。
リュートは注視する。ミナトが握っているのは極細の糸だろうか。ピアノ線、テグスとさまざまに種類が浮かんだが、一番近いイメージは蜘蛛の糸だ。ヌオー=留紺がぺたりと通路面に足裏を着く。『ダイビング』の外膜がドーム型に変形し、リュートが自力で立てるくらい浮力も小さくなった。ミナトがよっと首を突っ込み、フィンで水を蹴って気泡の中に転がり込む。ザバッと飛沫を立てて、華麗に着地した。
「なんだ、それ?」
 ぬるぬるする両掌を擦り合わせながら、リュートがミナトの手を覗き込んで聞いた。
「へへーん! じゃあトーシロのリュート君のために、オレが親切に解説してやろう!」
 足鰭をぺたぺた、黒髪から水滴を滴らせ、ミナトが肩を盛り上がらせた。トレードマークの帽子で陰った目が、バカにするなと言いたげに睨む。少年の威圧を無視して彼は揚々と言った。

「これな、塩の結晶と『念力』を繋げた道糸なんだ」

 リュートの耳に飛び込んだ単語が、口に直通した。
「塩ぉ? 念力ぃ? 道糸ぉ?」
「全然わかってねえ顔だな! まあいいけど!」
 ヌオーがぷくっと笑う。説明は続いた。
「長春が舎内に満たしたのは真水じゃねえ。『潮水(しおみず)』だ」
「てめえ、やっぱこの洪水の犯人か!」
「そうそう、オレのせい」
 しれっと認めた。
 『潮水』は通常時の威力は大したことないが、傷を負った相手には大きなダメージを与えるという一風変わった水タイプの技だ。海水プール然とした棟の状態が明かされたところで、大量に配水した意図はよく分からないが。ミナトはうつむき加減となり、糸の強度を確かめながら丁寧に右手に巻きつけていく。リールに下糸を巻いて、釣竿の準備をするように。
細い線上の光沢は彼の後ろへと延長している。リュートの視線は先ほど皆で降りてきた階段を伝い出発点を見極めようと二階へ遡上したが、遂にそれらしき切れ目は見つからなかった。いつの間に、こんな長い糸を仕掛けたのだろう。お調子ダイバーに目を戻し、遅れた疑問をぶつけてみる。
「塩って……清めの塩か? 浄力を高める気かよ」
「まーな」
「返事、軽っ! そんなんで大丈夫かよ……つうか『念力』って、てめえ、念動能力者(サイコキノ)?」
 いいや、とミナトが首と手を一緒に軽く振る。水滴がぱらっと飛んだ。
「潜在能力(ポテンシャル)はあるけどな。そういう訓練は受けなかった」
「なんで?」
 答えの前に、小麦色に日焼けしたあけすけな笑顔が挟まれる。

「オレ、あんまり人間離れしたくねえからさ」
 
リュートは何も言えなくなった。

 と、ここで失笑するミナト。
「ブハッ! おい何マジ顔になってんだよ? あはははは!」
「う、うるせえ!」
 霊能同士、一瞬でも共感した自分が馬鹿みたいだ。立ち止まった空気を必死で誤魔化そうとする。
「おいそれより糸だ、糸! これで何する気だ! 言え、今すぐ言えコラァ!」
 ミナトは回答を焦らさない。
「一本釣り!」
 が、結果として質問者に新しい謎を押しつけただけだった。
 釣りだと。まさか、この糸で手釣りをする気か。魚もいないのにそんな馬鹿げた話があるか。
「おちょくんのもいい加減にしろよ、バカヤロウ!」
 リュートの罵声を遮るように、ミロカロスの全身が淡いグリーンの燐光を発した。
そしてミナトは摺り足で足幅を前後に開き、上体を斜めに倒して地鳴りのような大音声をあげる。
「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
 背負い投げに近い体(てい)を取り、前方に体重をかけたまま全身を惜しみなく使い渾身の力で糸を引く。ニンジンに釣られて牽引する農耕馬のごとしだ。気魄に呑まれ、あっけらかんと見守るリュート。そこへミナトがボディブローの痛みを堪えながら笑っているような表情に、これだけは絶対に伝えておきたいという意思を滲ませて言った。
「あーそーだっ! ぬおおとヌオーとは関係ねえからなぁああーっ!」
 鬼監督のように仁王立ちして、こくと頷くヌオー。 
「いや知るかよ!」
「どりゃああああああっ!」
 ばかでかい声量がリュートのツッコミに覆い被さり、事実上抹消した。
「祭壇!」
 絶叫の最後に指示が飛ぶ。ヌオーの右腕が凍った水蒸気で白く包まれた。凍て付く冷気を帯びた手が地盤に振り下ろされる。パンチの制裁を下した一点から導火線を火が辿るように霜柱が走り、段階的に大きさが推移して行く先に巨大水晶のような氷塊を水中に何本も打ち立てた。ミナトが糸で強引に二階から引き込んだ“何か”が魚雷のように彼らの脇を通り過ぎ、結晶の砦に囲まれた麗竜に突き刺さる。グリーンの燐光が一瞬強烈な閃光となり消えた。邪気を取り込んだ後も、ミロカロスは自己を見失うことなく凛然としていた。
「ちょいと待ってな、依り代の姫さん!」
 ミナトはバックから取り出した紙垂つきスケートボード――巨大老木オーロットから削り出したデッキを大麻の代用とばかりに振り上げ、勇ましく声を響かせた。


レイコ ( 2012/12/27(木) 10:50 )