-3- 下見
弱火で裏表をじっくり炙ったベーコンを皿に移し、旨味の敷かれたフライパンにとろっと割り入れられる二つの生卵。黄身も白身もジョワーと叫ばずにいられない。滲んだ油の爆ぜる音はどんより曇った陰気な朝に効く。水を差した後はさくっと蓋をして蒸し焼きに。余熱で蒸気がシュウシュウいっている間に食パンをトースターへセットする。一人でキッチンに立つのは久々だった。普段は料理好きのラルトス=ウルスラが手早く用意してくれる。たまの朝食作りは気分転換になる。
キズミはフライ返しを、目玉焼きの下に差し入れた。
気を抜いて焼きすぎた。焦げ付いた裏をがりっとこそげ取った。
昨晩キズミ宅に泊まり、ソファで寝ていたミナトが起き上がって大あくびをした。
外跳ねした黒髪とストレートの金髪。健康的な小麦色の肌色と透明感のある薄い肌色。性格も正反対と言っていいくらい、異なっている。二人は補色のように、一緒にいると自然と互いを引き立て合う。養成センター時代からの親友兼ライバル。ソウルメイトという奴だなとジョージ・ロングロードに感心されたこともある。
「いただきまーす!」
そう言うとミナトは熱々のトーストを手に取り、真っ赤なハバンの実のジャムをたっぷり塗りつけてからかぶりついた。外側の皮がパリッと芳ばしい音を立てる。引き千切られた断面は真っ白な綿のようだ。食器棚からガラスのコップを取り出し低脂肪モーモーミルクを注いでから、ミナトに手渡すウルスラ。芳醇な香りと爽やかな喉ごしをコップ一杯飲み干したミナトは、プハァと息を吐き出した。
「今度、警部補とメシ行く約束したんだ。キズミも来る?」
「メシって……デートじゃないのか?」
「あんなガード堅そうな人、いきなり誘う奴あるかよ。玉砕も玉砕で経験値だけどな」
ミナトはあっけらかんと笑い、美味しそうにベーコンをたいらげた。
「うわ裏、黒っ。オレ目玉焼きは半熟が一番好きだ」
「卵はしっかり焼かないと、腹を壊すぞ」
「なーなー、今度またネーソス行こうぜ。リベンジマッチさせてやるよ。そういや、ピクシーが逃げたってハナシ、聞いた? マジなら処罰、ネーソスは営業停止モンだぜ。でも誰かがこっそり連れ戻したんだと。キズミ、なんか知ってんだろ」
「知らないな」
キズミがとぼけた。
「へへっ、そーゆーことにしといてやるよ」
「俺は非番だが、お前はのんびりしてたら遅刻するぞ」
「いけね」
ミナトはフォークで引っ掻いて焦げを落とした目玉焼きを口に詰めこんだ。テーブルの上に置かれてあるバスケットからリンゴに名残惜しい一瞥をくれ、もぐもぐ頬袋を動かしながら着替えに行った。
シュナイデル学園の多目的ホールの照明が落とされた。上演時間だ。ポケモンミュージカル部の学内定期公演は一般開放されており、地域住民も無料で観劇できる。ぽっかりとライトが当たっている壇上。練習を積んだポケモンたちが熱演する。歌とダンス以外の台詞部分は舞台袖から、部員の生徒が声を割り当てている。有名な演目なので、あらすじだけならミナトもアイラも知っていた。
――昔々ある国に、勇敢な王女と心優しい家来のサーナイトが住んでいた。ある時恐ろしいキュウコンが城を襲い、命を懸けて追い払った王女はキュウコンの呪いでゲンガーへと変えられてしまう。人間であった頃の記憶を失い、清らかだった心もすっかり意地悪になり果てたゲンガー。家来のサーナイトは決して見捨てず、やがてゲンガーは記憶を取り戻す。ふたりは力を合わせ、ついにキュウコンを退治した。呪いが解けた王女はゲンガーのままでいることを選び、サーナイトと結ばれて幸せに暮らした……
シュナイデル学園版では部活動向けに、脚本がアレンジされていた。キャストも一新されている。悪役はロコン、王女はアシマリ。かいがいしく尽くすサーナイトのキャラクターを、チラーミィはてかりのある灰白色の尻尾を使ってしなやかに表現していた。チャーミングな歌声と軽やかなステップ。アシマリへの想いが成就した名場面を盛り上げる。締めの音楽がふっと虚空に吸いこまれる瞬間まで、観客は引きこまれた。カーテンコールは盛大な拍手で迎えられた。人とポケモンが勢ぞろいした舞台で、女子生徒の腕に抱かれているチラーミィは無邪気に笑っていた。
「ハッピーエンド最高!」と、拍手を送るミナトが、隣席に感想を聞く。
「ラストの王女様は無責任よ。国を捨てて駆け落ちなんて、みんなが迷惑するわ」
そう言いながらも沢山手を叩いていたアイラに、ミナトは口の端を上げた。
「真面目だなあ、警部補は」
「それで、どうなの」
濃紺パンツスーツを着こなす女性刑事は、小声になって本命の話題に変えた。
学園訪問のメインは、逮捕下見である。春休みが開けて以降、シュナイデル学園では怪奇現象が相次いでいる。電子機器の突然の故障や、火の玉の目撃情報、心霊写真が撮影されている。鑑定の結果、指名手配中のサマヨールが学内に潜伏している線が強まったのだ。
お調子者で陽気なナンパ男と、スピリチュアルでダークなイメージは、書面と口頭のみでは今ひとつ、アイラのなかで重ならない。じかに実力を目の当たりにするまで、ミナトが凄腕の霊能者であるという信用は芽生えなさそうだった。
「ここは異常ないですね。やっぱ学内全部、調べねえと」
きれいな弧を作る白い歯は自信を覗かせた。
「任せてください。それよりこの前約束したメシ、帰りにどうです?」
「ミナトくーん! 来てくれてありがとう」
ロコンを連れた、はきはきとしていそうな副部長がやって来た。
部員の他の女子生徒もわっと詰めかけて、ちょっとした人だかりになる。
「きゃーっ生ミナトさんだ! かっこいい、握手してください!」
「副部長が作ったファンクラブ、会員また増えたのよ。すごくない?」
「会員番号一桁のプレミアが上がっちゃう!」
「でも金城さん、特定のカノジョ作らないんでしょ? でもそこがいい!」
「部の打ち上げは夜だし、今から私達とお茶しません?」
アイドル扱いにミナトは慣れたもので、アイラはガールズの熱気に圧されている。
「帰りにメシ行くより、今日はみんなと親睦深めます?」
「なに言いだすの、金城君」
すげない返事のアイラに注目が集まると、ミナトがニッと紹介した。
「この人、オレの上司。可愛いだろ」
ここにいる女子生徒全員の嫉妬心を煽るみたいな、軽薄な台詞。
身構えたアイラは、「可愛いー!」という一斉コールに不意を打たれた。
一躍人気者。取り囲まれて、目も耳も足りない急展開は馴染みがなさすぎる。
「ドレスアップさせたい! 手芸部がほっとかない逸材だわ!」
「スタイルよくて羨ましいー。女刑事さんだよね? かっこいい!」
「ウチと手芸部とバト研とで今度、合同コンテストバトルショーを開催するの。ちょうど外部からも参加者募集してたとこだから、よかったら出演してもらえませんか!?」
「オレよりモテてるじゃないっすか!」
お堅い上司の見慣れない当惑ぶりに、つい、ミナトは笑いを吹き出した。