NEAR◆◇MISS















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第一章
-3- バトルネーソスへ
 こんなに肩透かしを喰らったのは生まれて初めてかもしれない。裏返した前足のぷくっと盛り上がった肉球をペロペロなめながら、色違いのブラッキー=ダッチェスは不機嫌そうに横槍を入れた。

(……まったく、驚かすんじゃないよ。アンタの手持ちだったのかい)
「いや、銀朱(ぎんしゅ)はミナトの手持ちだ」

 至福の表情で振られる尻尾。ガーディの目尻がそのまま蜂蜜のようにとろんと地面まで垂れてしまいそうだ。人に頭を撫でられるのがそんなに気持ちいいのだろうか。見ているとなぜだか同じ場所がむず痒くなってきたので、ダッチェスは後ろ足でカリカリッと掻いてからつんと澄まし顔をキズミに向ける。

(随分懐かれてるじゃないか)
「俺に限ったことじゃない。銀朱は人見知りをしねえから誰にでも寄ってくさ」
(とかなんとか言って、率先して甘やかしてそうだけど。こっそりお三時あげたりしてさ)
「……」
(ほーら黙った。アンタの世話焼きなのは今に始まったことじゃないからね)

 キズミはふっと物柔らかい微笑をたたえた。

「今日はよく喋るな」
(……やっぱりアンタはいけ好かないよ)

 ぺちゃんと前足の間に顔を埋め、耳を垂らすダッチェス。見た目には不貞寝をしているようだった。


◆◇


 耳元で唸る風。アルストロメリア市中央区を都会たらしめる緻密な交通網と往来はまるで血管さながらに機能していた。高度を落とすほどに、航空写真のような景色から一つの生き物のような街の息遣いが感じられるまでになる。

「ビルに接近しすぎては駄目よ、ライキ」

 緑竜はドーム状の赤い防護膜を透かして見える黒い目を応えるように瞬かせた。建物を強風で煽らぬよう羽ばたきを最小限に抑える代わりに、斜方形の翼をうんと膨らませ悠々と滑空する。濃紺のレディススーツを着用した乗り手はヘルメットとゴーグルで表情が見えないが切迫した空気を漂わせていた。

「……レスカ君の好きにはさせないわ」

 彼はすでに一度犯人を取り逃がしている。これ以上捜査を攪乱するような真似を許すわけにはいかない。ジョージ・ロングを襲撃した犯人を突き止めるためにも、犯人らと接触したブラッキーの証言は欠かせないのだ。アイラはゴーグルを掛け直し、愛竜に方向を示した。


◆◇


(なんかややこしくなってきたようだね。ところでさっき銀朱の言ってた留紺(とめこん)と麹塵(きくじん)って誰だい)
「銀朱と同じ、ミナトの手持ちだ」
(ふうん……しっかし、警察犬がみんなこんなのなら悪党も世話無いねえ)

 キズミの肩に担がれたダッチェスは無邪気にはしゃぐガーディを見下ろして言った。振る舞いは似ても似付かないが、風にたなびく総(ふさ)やかな毛並みが馴染みの顔を彷彿とさせる。ファースト。心の中でそっと口にする。色褪せない名前だった。彼はあれからどうなったのだろう。キズミは踏ん切りをつけたのだろうか。それともまだ引きずっているのだろうか。尋ねてみたい思いが矢次に浮かぶ。そして固まるそばから溶けていった。

「被っとけ」

 停留所から路面電車に乗り込んでからの言葉だった。担がれて走り抜けている間はまだしも、このような人目が近く逃げ場のない空間に押し込まれると本能的に用心深くなる。肩から降ろされ目つきを鋭くして周りを見渡していたダッチェスは突然に差し出された赤いジャンパーに呆けた顔でキズミを見つめ返した。それからムッと不機嫌な表情となり周囲に伝わらないようテレパシーを限定的に発信する。

(気休めはおよし。第一、それじゃ武装が丸見えだよ)
「横でイライラされるよりマシだ」

 特殊警棒(トランツェン)や拳銃型捕獲球射出機(アレスター)のグリップが覗くショルダーホルスターを気にしない方が無理だろう。引け目を感じている自分の毛色と天秤へかけるまでもない。余計な気を使うんじゃないよ、と鼻であしらうダッチェス。二人の遣り取りを不思議そうに見つめながら、銀朱は乗客が少ないのをいいことに椅子の上に腹ばいとなって顎を彼の膝に乗せた。
相変わらず強情な奴だ。キズミはジャンパーに再び袖を通しながら、ふと視線を感じた。斜向かいに座っているチャーレムが慌てて目を反らしたがもう遅い。リュックを背負い一体切りで乗車しているところから亜人(ヒューモン)の可能性が高そうだ。ダッチェスもすでに胡散臭い気配に気づいているらしく、丸まった状態からうっすら片目を開けて見遣る。気まずい状況になってしまった。チャーレムは汗だくとなって立ち上がり、彼らの視線から逃げるように下車する。不審感を決定づけるような動きにキズミはくつろいでいる銀朱をちょいちょいと撫で起こし、囁いた。

「軽く様子を探るだけでいい」

 銀朱は離れたくなさそうな顔をして、くーんと鼻を鳴らす。なんの為に病院からここまで追ってきたのか分からないとでも言いたげだが、気持ちを汲むように頭を撫でられると途端にやる気を起こしたらしい。うぁんと一声、下がった耳と尻尾がしゃんとする。元気一杯に降車口からいなくなるのをダッチェスは苦笑いを堪えて見送った。

(アンタも仕事熱心だね。世の中のビビリは全員裏組織の手先かい?)
「思い過ごしならそれに越したことはない」

 時が経つにつれ、車窓を隔て日光に映写するのは騒々しい市街地や港とはまるで違う光景だった。白やオレンジといった暖色を基調とする郊外の古い家並みが遠くは未練がましく、近くは潔く後方へ流れていく。ごみごみとして印象の強いアルストロメリアも中心部から少し外れるとこのような風情ある一角を見せるのだ。ダッチェスは青空を見上げていた。白い雲の流れが落ち着きを与えてくれる。
 その時、身を切るような悪寒がしてぞっと黒い体毛が逆立った。種が地面に落ちた程度の大きさだが確かに翼が空を切る音がしたのだ。大胆に。繊細に。この縦横無尽の風格は鳥ポケモンの翼ではないだろう。そっとキズミの方を盗み見たが特に変わった様子はない。それもそのはず。人間とブラッキーとでは知覚の次元が違う。

(アンタ、追いつかれたらどうするか考えてあるのかい)
「いや、特に」

 どちらともなくかすかに口角を横に引いた。ダッチェスの素振りから追っ手の気配を察知したことくらいはキズミにも判断がつく。アイラ・ロングはおそらくもっと早い段階から車両に目を付けており、ここに来てようやくダッチェスが感知できるほどの高度まで下がり始めたというところか。

「次で降りるぞ」

 キズミは腕組みして言った。
 下車してすぐに目に鮮やかな緑の植え込みがはっと飛び込んでくる。大きく開かれたアーチ門の先には赤茶けたレンガが円形上に敷かれ、その中心で装飾的な噴水が煌めいている。さらに広間の向こうには豪邸を思わせる外観の巨大なゲートが聳えていた。バトルネーソスの栄えある門の風体は平日の中途な時間帯らしい人気のなさに比例して全く言っていいほどレジャーなムードを喪失していた。ざあと葉擦れの音に並んで木漏れ日が降り注ぐ。キズミは噴水近くまで駆けていき、ダッチェスを下ろした。彼女に背を向け、ホルスターから特殊警棒(トランツェン)を取り出し伸長させる。光沢ある金属の肌が広間の清涼な空気を鎧のように重々しく変容させる。一秒。二秒。
 上空から影が刺す。叩きつけるような気流が茂った草木を片端から騒がせた。枝と引き裂かれた木の葉が菱形の両翼の周囲を剥がれ落ちた鱗のように遊泳する。植物に調和する色調とは裏腹にれっきとした地面タイプであり、併せ持ったドラゴンタイプに相応しくしなやかな美観の中にも力感が溢れている。儀式のように荘厳に。舞い降りたのは砂漠の精霊、フライゴン。キズミは騎乗している女性に向かってたった一言不満を漏らす。

「遅かったですね」

 細い指筋がヘルメットとゴーグルを解いていく。見覚えのある整った容貌に続き、無造作に絡んだダークブラウンの髪先をさっと流すとお馴染みのミディアムボブへとまとまった。フライゴンがヘルメットとゴーグルのベルトに頭を通し首に提げる傍ら、背中から降り立ったアイラは後寄りのダッチェスと、順に彼のトランツェンを眼で捉えた。

「まさか、あなたが戦う気?」
「命令だけならクズでも出せます」

 高い気概に満ちる声。トランツェンの防御力もアシスタントのサポートも本来の用途は自衛に終始するものだ。積極的な攻撃手段に用いり、引いては勝利をもぎ取るなど沙汰の外。常識が破損しているとしか思えない行動に特質が見出せない。氷柱のような表情がいつ何時転じるか予測も付かせない。

「甘く見られたものね」

 アイラは邪推に行き着くことでしか、状況を受け止められなかった。やはり彼とは相容れない。傷つけることでしか止められないのならば、その道を受け入れるより他はない。だが迷いを抱えたままではかえってフライゴンの気を乱し、事態が悪化させるかもしれない。敗北ではなく勝利を躊躇うなど彼女にとって初めて直面する感覚であった。
 緊迫の最中。彼らの頭上の何もない空間に鏡を割ったような亀裂が走る。空色の欠片が小爆発で吹き飛び、丸く口を開けた穴から虹色の光が降り注ぐ。光に包まれ太い悲鳴をあげながら墜ちてきたのはピンク色のワンピースを着た風変わりな男だった。

「オーナー!?」


レイコ ( 2012/05/04(金) 18:36 )