NEAR◆◇MISS















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第一章
-2- あくなき逃亡
「店員への傷害は未遂です。別件逮捕(アレスト)には納得できません」

 アイラは顔を僅かに仰向ける。弁護の端に見受けられなかった淀みを双眸に求めて。だが所詮雨を期待して晴天を見上げるようなものだった。激しいまでの青さだった。
 
「事情はどうあれ凶暴性の片鱗を示したのよ。放任できないわ。まして色素変異体にしてテレパシスト……強欲な人間達の好餌が降りかかる火の粉を狡猾に払ってきたのなら、我々警察を欺くのも容易なはずよ」
「ならば尚更です。今彼女に必要なのは尋問ではなく休息。人間不信を煽るような真似は慎んでください」
「被疑者の確保もままらない部下(あなた)が上司(わたし)に意見しないでちょうだい」

 ラルトス=ウルスラは胸の前で両手を握っていた。目の前で吊り橋が落ちようとしているのに何も出来ないもどかしさに似ていた。ミナトは腕を頭の後ろで組んで気負いのない表情で諍いを眺めていた。口角には部外者らしい弛みさえある。
 曇天を彷彿させるような暗褐色の瞳からは幸か不幸か涙(あめ)の匂いはしない。閃く雷光が内実を伴うか。俄にキズミは視線を鋭くした。

「俺は腕のない上司に従う気はありません。信頼していない人間にブラッキーを託すつもりもない」

 アイラが宣戦布告にも寄せた響きを感受した瞬間。クレセント錠の把手がカチリと独りでに回転し病室の窓が全開した。心霊現象を疑うまでもない。皆の注意がウルスラのかざした両手に注がれる。その間にキズミは赤いジャンパーを羽織り、懐に素早く手を差し入れた。膨らんだカーテンが白い床に半透明の影が落とす。掴み出されたのはありふれた紅白の球だった。

「!」

 吹き込む風と入れ違いに窓の外へ放り出されたモンスターボールを追い、アイラは肩まで身を乗り出したが間に合わない。空中で解放された色違い特有の美しい閃光に目が眩む。窓から青い芝生へと下り落ちた光線がしなやかな輪郭を持つと、一斉に飛び立つ蛍の群れさながらに失われた輝きの中から夜を結晶化したかのような黒い体躯が躍り出た。正午を回ろうかという晴天の下、胴体に走る奇妙な白線が包帯だと遠目には分からないほどの快走を見せつけるブラッキー――
 背後でガラリとドアの開く音がしたかと思うとキルリア=クラウの思念が拡散した。

(キズミさん、お待ちを!)

 まさかとアイラは後ろを顧みる。廊下の死角で何かが走り去る気配がした。部屋からキズミとウルスラの姿が消えている。やられた。思わず唇を噛む。開けっ放しのドアの前でクラウの赤い目が彼女の指示を仰いでいた。一方ミナトはその横で鼻の頭を掻いていた。中立の皮を被った加担者とはまさにああいう小憎たらしい顔をするのだろう。

「キンジョウ君は署で待機しなさい」
「了解!」

 素直すぎて反って信頼のおけない返事だ。アイラは訝しむように流し目を遣るとクラウを連れて部屋を出た。病室のドアが溜息をつくかのように閉まる。ミナトは笑顔をしんなりさせるとその場で軽く伸びをした。部屋が二倍も広くなったかのようだった。パイプ椅子に座ると膝に肘を突き手の上に顎を乗せて寝台を見る。目の高さをやや下回る位置で、昏々と眠るジョージ・ロングはまるで石像のようにひっそりとしていた。

「……なぁ警部」

 以前、悪い虫が付いちゃあ困る、とロングが二人娘の詳細をはぐらかした時の事が思い起こされた。宝物の隠し場所を秘密にして喜ぶ子どものような笑い方を。手の届かないことを惜しがるような目元を。あんな顔をされると是が非でも会ってみたくなるのが真理だろう。状況が許せばやっと叶った念願に向かって大手を振って喜んでみせたところだ。
 しかし一つだけ釈然としない点がある。なぜアイラは一度としてロングの方を見ようとしなかったのだろう。娘なら父の身を案じて当然ではないだろうか。ミナトは気の向くままに思考を巡らせながら、不意に全てを塗り込めるようニッと笑顔を浮かべた。そして腰ベルトのホルダーからモンスターボールを三つ取り外した。


◆◇


 ブラッキー=ダッチェスは前足の間に埋めていた顔をもたげた。金色の眼光が身を潜めている薄暗い高架下を鋭く照らすようだが、その肉体の疲労は目に見えて分かる。『波動弾』のダメージが一日も待たず抜け去る訳もない。キズミは高く架け渡されたリニア線の生む影の領域に踏み込んだ。途端にそれまで黒土の塚のように動く気配のなかったダッチェスが弾かれたように飛び起きる。素早く後退し充分な間合いを取ったところで再び伏せるブラッキーを見て、彼はそれ以上歩み寄ろうとしなかった。

(アンタもしつこいね)
「刑事だからな」

 逃げる奴は追いたくなるのかい、単純だねえ。と皮肉を返しながらも、キズミがしゃがんだので目線の落差がいくらか解消された分、わざわざ設けた距離が妙に狭まったようでダッチェスの本心はざわついた。

(ウルスラはどうしたんだい?)
「お前の位置を特定してからバラけた。キルリアを牽制している」

 つまり、一人でのこのこやって来たということか。金色の眼が値踏みをするように彼を睨め付けた。青い輪模様が威嚇するように素早く点滅した。

(このアタシを勝手に捕獲して勝手に逃がすなんて……侮辱もいいとこさ。喉笛に噛みつかれたくなかったらとっととお行き)
「お前を逃がしたのは陽動だ。バトルネーソスへ行くぞ」

 紡錘形の耳がぴくりとし金色の眼が半月のように開かれる。仄暗いうちで彼女の黒い顔から表情を読み取るのは難しいが、ふっと毒気の抜かれた有様は視覚に頼るまでもなくキズミに伝わった。

(ネーソスってのは、レンタルポケモンでバトルする施設だろ?)
「オーナーにお前を匿って貰えるよう頼んでみるさ。最近だとピクシーの貸しもあるしな」
(で? 仮にそこで養生してその後は?)
「署に出頭して逃亡したことをロング警部補に詫びろ」

 ようやく話の全体像が見えてきた。そこから導き出されるのは不名誉な見解ただ一つ。ダッチェスは憮然として彼に思念をぶつけた。

(アンタの上役に取り入れってかい。冗談はおよし)
「警部補の言ってることは正論だ。お前が容疑者との関わりをどれだけ否定しようが証拠がねえのは痛い。容疑者を取り逃がした分際で俺の擁護が聞き入れられるわけもない」

 ふっと落とされた彼の視線が戻る直前、その青い双眸は思考を鈍らせる未明の顛末をこの場はあえて削ぎ落としたようだった。

「だがお前には接触者の強みがある。捜査の協力を申し出れば警部補の認識も変わるさ。敵の回し者だろうとなんだろうと本部に移送するより手元に置いときてえに決まってる」

 父親の仇討ちを成し遂げるために。もしこのアルストロメリアに来たのだとすれば。

(だけど交渉が失敗したらどうするんだい? あたしゃ逃げるよ)
「だから体調を万全にしておけ。その時は必ず手を貸してやるから」

 ダッチェスは逆光で曖昧なキズミの表情を穴の開くほど見つめた。夜目の利く彼女に影の克服は易しいはずだが、今回ばかりはいくら覗き込んでも底の見えない井戸のように思えてならない。その言葉をどこまで信じて良いのだろうか。手を変え品を変えて頭をよぎるのは最悪の筋書きばかりだ。世界でただ一人の人間と言っても過言ではない。キズミへ寄せる淡い信頼感を無下にされるのは躊躇われた。日頃意識の下に沈めているものがここぞとばかりに浮き上がり鼻先で振り子運動をするのを見ているかのようだ。じっと見ていると酔いそうであまり気分の良いものではない。静寂は風船に二本の針を同時に突き立てたような破れ方をする。

(だけどアンタの立場は)
『ぅわん! わん!』

 神経を目の前の人間に総動員させたツケか。手薄となった警戒をくぐり抜けまんまと高架下を嗅ぎつけたらしい。燃えるような赤橙色の子犬の出現にダッチェスの血潮が本能的にたぎる。ところが子犬―ガーディが胸を目掛けて飛び掛かった標的は、吠え声に素早く振り向いたキズミの方だった。

レイコ ( 2011/06/29(水) 23:30 )