-2- バトルネーソス
全国に点在するバトルネーソスのうち、アルストロメシア市のバトルネーソスは古い総合体育館をリノベーションした屋内競技場と、九面の屋外コートを配備した敷地から成っている。正面ゲートに先回りしていたアイラが断言した。
「もう逃げられないわよ」
まるでバトルコートのトレーナーエリアで対峙するかのように、キズミは立ち止まる。
上着のないキズミの格好は、武装が丸見えだ。ショルダーホルスターから、特殊警棒(トランツェン)や拳銃型捕獲球射出機(アレスター)のグリップが覗いている。ジャンパーを脱いでいる理由は、足元にあった。頭からすっぽり被るポンチョのように体を覆い隠し、正体が色違いのブラッキーだと分かりくくさせている。
「よくここだと分かりましたね」
さしずめミナトの入れ知恵か。
見返りに食事の約束でも取り付けたんだろう、とキズミは思う。
「行け、ダッチェス!」
発破をかけられた赤ジャンパー姿の四本足が、ダッシュで逃走する。
(僕が追います!)
キルリア=クラウが軽やかに飛び出していった。
悪タイプの相手にエスパー技は通りが悪い。素手で確保が安定だ。
部下と一旦話をつけてから後を追おう、とアイラはいかめしく仁王立ちする。
「あなた、この試用期間に将来が懸かってるのよ。私の評価次第で即免職よ?」
「自分の立場は理解してます。それが何か」
養成時代の苦労を水の泡にして平気な人がいる訳がない。
なのになんで、こんなに話が通じないのよ、とアイラは苛ついた。
「これ以上歯向かうなら、業務命令違反とみなすわよ」
口で言って分からないなら、取り押さえる。灰色の瞳が愛竜に目配せした。
キズミはフライゴンの臨戦態勢を横目に、反抗的な態度を崩さない。
「乗り掛かった舟だ。俺も、腕ずくで主張を通させてもらいます」
キズミが特殊警棒を伸長させた。
予想の上を行かれたアイラは声が裏返りかけた。
「まさか、レスカ君が戦う気?」
「悪いですか」
「悪いわよ、戦闘をなめないで!」
アイラの咎めに、ウルスラ入りモンスターボールの一瞬の揺れがキズミに伝わった。
「ジョージ・ロングがそんな指導、するはずないわ。あなた、あの人をなんだと思ってるのよ。そんなにブラッキーが大事? 事件を解決したくないの? 自分の上司が襲われたのに、なにも感じないの!?」
「俺の上司は、捜査のために第一発見者の心を傷つけたりしない!」
真剣な一喝に、アイラは唇を引き締めた。知らずに野花を踏みつけていたことを指摘されたかのように、決まりが悪い。なにか言い返さないと、反論を認めたと思われる。自分のほうがジョージ・ロングの人となりに詳しいみたいな言い方をされて、大人しく引き下がれない。
モンスターボールの開口音と、色違い特有の美しい開放光。
勝手にキズミの懐から飛び出した光がしなやかな輪郭を持つ。
一斉に散る蛍の群れさながらに失せた輝きの中から、夜色をまとう実体が凛とした。
ブラッキー=ダッチェスのテレパシー。
「アホ、隠れてろと言ったろ。なんで出てきた」
キズミが進み出て背に庇うと、テレパシーが刺々しくなった。
(お黙り、用心棒気取り。恩の押し売りは迷惑なんだよ)
エスパー技を駆使できないという先入観と、夜明け前の暗がりで下がる視認性。
「さっきのは、囮だったのね。コケにしてくれるじゃない」
アイラがキズミを睨む。
ダッチェスはフンと鼻で笑った。
必死で追いついて、捕まえたキルリアは驚くだろう。
逃げ足の速いブラッキーの正体が、『身代わり』の皮を被ったガーディだと知れば。
(簡単に引っかかって、おめでたいキルリアだね)
「アシスタントを悪く言うな、ダッチェス」
キズミの注意を無視して、色違いの金目は女刑事に向かって低く唸った。
(いいさ、供述してやるよ。小娘にお似合いの出まかせをたっぷりとね)
緊迫の最中。頭上の何もない空間に、鏡を割ったような亀裂が走った。暗い空の色をした破片が砕けて、開口部からスポットライト状に光が降り注ぐ。野太い悲鳴をあげながら、風変わりな男が墜ちてきた。
どしーんと地面に叩きつけられた。強打した尻が痛そうだ。うずくまり、何事もなかったかのようにすっくと立ち上がった。頭頂部で髪を束ねたパイナップルのような頭。高い頬骨をした顔立ち。宴会で重宝しそうなオレンジフレームの星型サングラス。七色のグラデーションとスパンコールが派手なパジャマは、着ているとかえって安眠の妨げになりそうだ。
「オーナー!」
「やあやあキズミ君! 君のモーニングコールに叩き起こされたと思ったら、今度はミナト君に急かされてねえ。着替えが間に合わなかったよ、あっはっは! ところで今のテレポート、麹塵ちゅあんの演出すごくなかった!? おお?」
サングラスがきらりと光る。
「これはこれは、美しいご令嬢! 私はアナナス、このバトルネーソスのオーナー兼ポケモン服デザイナーです。ぜひ、貴女のお名前をお聞かせください!」
「アイラ・ロングロード、です」
「素敵なお名前。最近トレーナーとパートナーのマッチングコーデを思案中でしてね!」
「脱線はそのくらいにして下さい」
キズミに肩を引っ張られながらも、女性刑事からブラッキーへ目移りした。
「そちらの漆黒のクールビューティーも素晴らしい! ぜひモデルに!」
ダッチェスが露骨に不満な目をしたので、キズミが弁解した。
「尋問されるよりいいだろ。どうしても嫌なら、別の隠れ家を探すが」
(この状況でまだアタシの心配? アンタがクビにされたら、寝覚め悪い)
ダッチェスは、小首を傾げた。
(もういいよ、キズミ。でも覚えとく。人間は嫌いだけど、一人だけ味方がいた事)
「……レスカ君」
アイラは、主人を侮辱されて静か怒気にいだいているフライゴンを腕で制していた。人間不信の話は嘘ではないようだ。このブラッキーは、ブラッキーなりに、キズミを特別扱いして、守ろうとしているように見える。
「私に無断でそのブラッキーが失踪したら、始末書で済まないと思いなさい」
傷ついたブラッキーの身も心も、どうでもいいとは思っていない。
迅速な聴取は諦められないが、アイラはやむなく引き際を妥協した。
主人が背上に乗り込むと、フライゴンが菱形の翼を広げた。羽ばたいて、軽々と垂直に上昇する。急場はしのいだ、という認識でいいのだろうか。風の生産者が完全に空へ溶け込むのを見届けると、キズミはブラッキーの目線にしゃがみ込んだ。
「さっきのは、お前らしくない台詞だ」
(ああでも言わないと)
自分の顎を指でつまみながら、オーナー=アナナスがぶつぶつ呟いていた。
「待てよ? ロングロード……ロング……ロングロードって」
「どうかしましたか」
「い、いや。なんでもない。はっはっは!」
長いバイブレーションが通話着信を知らせる。
キズミが携帯の画面を確認した。表示名はミナトだ。
『よ! そろそろ話がまとまった頃じゃねえかと思ってさ』
(アイラさーん! ガーディが、ガーディが化けてましたー!)
おぶった仔犬にぺろぺろ角を舐められているキルリアが、走って戻ってきた。