五年後
解離性健忘。
小難しい用語を解説するページを、眼鏡の少年は食い入るように読みふける。少ない蔵書は読破したので、島外から別の専門書を取り寄せてもらったのだ。近づいてくる赤白のボーダーキャミソールと青いデニムのショートパンツ姿が、サンダルの足音を誇張していた。不用心な茶髪の後ろ頭が平手打ちされ、ペチンと音を上げた。続いて、叩いた少女の甲高い叱責が自習室に響き渡った。
「また学校さぼってたのか、ボケ兄!」
一緒に本を覗き込んでいたチルットが翼で頭をかかえ、こんもり白いアフロになった。
地味で大人しい不登校気味な少年と、勝ち気ですぐに手が出る癇癪持ちな少女。
地元図書館ではお馴染みの、でこぼこ兄妹だ。
「うじうじと記憶喪失にこだわって、気色悪い」
ずばずば言ってのける少女に襟首をつかまれ引きずられながら、茶髪に眼鏡の少年エディは他の利用者やカウンターの司書に、すれ違いざまに謝った。
屋外へ連れ出されると、若い綺麗な女性が待っていた。栗色のミディアムボブに、灰色の瞳。ピンクパールのノンホールピアス。白いフリルカットソーとライトグレーのひざ丈パンツ。深い紅色のミュール。お守りのようにいつも身に着けているペンダント。
義姉アイラ・ロングロード。
エディは俯いた。
「待たせてごめん、義姉さん。本を読むのに夢中で……」
「昔の記憶を思い出せないのはいいけど、最近の約束は忘れるなっての!」
兄に食ってかかる妹を、アイラがなだめた。
「本当はお兄ちゃんが心配で、きつく当たってるんでしょ?」
「ち、ちがうもん! こんなヘタレで、根暗で、鈍感なヤツ!」
「言い過ぎよ。謝りなさい、ラミィ」
「はーい」
義姉に対しては素直な少女、ラミィの謝り声は拗ねていた。
歩道下に広がる南国情緒のあるビーチは、海に沈みゆく赤い光に染まっていた。
エディ達が“船長”と呼び慕う養父、ジョージ・ロングロードは、非正規の嘱託ポケモンレンジャーだ。エディ達の住む島を駐在職員として守り、シズク諸島最大の本島に拠点を構えるポケモンレンジャー、通称エリアレンジャーの補助をしている。
養父の実娘アイラは大学を卒業後、アルストロメリアというイッシュの地方都市でジムリーダー職に就いた。直接顔を合わせる機会はめったにないが、エディは家族として好いている。妹のラミィは姉妹愛が重症で、恋愛対象並みにデレデレだった。
「えへへ。もうすぐ夏休みだよ、ねーさん。もっと遊びに来ればいいのに」
「ジムの仕事が結構忙しいのよ。許してね」
ラミィにべったり腕にくっつかれているアイラが答えた。
ジムといえば。
エディが好奇心から会話を膨らませた。
「チャレンジャーはバトルしたいタイプを指定して、義姉さんはそのタイプに合わせた手持ちをバトルネーソスからレンタルするんでしたよね。普通ジムリーダーは特定のタイプのエキスパートだから、レギュレーションが独特ですね」
「ネーソスのポケモン達の多くは、前科があるでしょ。そういうコたちが良いパートナーと出会うきっかけ作りができれば、と思って。今はまだ口先だけの新人だけど、いつか一人前になってみせるわ」
仲良く話す二人に、ラミィはぷんすかと焼き餅を焼いた。
「ねーさん、ライキに乗せて! 空を飛んで家に帰ろ!」
「でも、エディは飛ぶのがあんまり……」
気にかけてくれた義姉に、妹の睨む目が怖いエディは急いで遠慮した。
「僕のことは気にしないで。アフロと歩いて帰ります」
実の両親の顔も名前も覚えていない。幼い頃にとても辛い目に遭い、そのショックで忘れてしまった。と、“船長”から教えられて育った。過去について知りたいとせがんでも、皆の返事はいつだって「もっと大きくなってから」。具体的にそれが何歳かも挙げないで、はぐらかせれているのではと疑っている。
ある日、病室のベッドの上で、長い眠りから覚めたみたいに意識がはっきりした。それが大体一年前。十歳だというのに、退院後の一年分の記憶しかない。自分は普通の子どもじゃないという意識が自信を無くさせる。教室の隅で本ばかり読んでいる内気な性格を、わざわざ相手にするクラスメイトもいないので、ジュニアスクールでは浮いている。
ラミィは、そういう兄を変えたいのだ。
だけど、気色悪い、なんて暴言を吐かなくても。
自分の過去を知りたい。それって、そんなに悪いことなのかな。
とぼとぼとガードレールに沿って歩く、帰り道。
落ち込むなあ、と立ち止まったエディは溜め息をついた。
夕陽が、水平線に完全に沈む直前。一瞬、ちらりと緑の光が浮き上がった。
あまりにも不意打ちの出来事で、興奮よりも困惑に心が包みこまれた。
見た者に幸福が訪れるという言い伝えがある、奇跡の自然現象。
「グリーンフラッシュ……」
(初めて見たよ。幸先よさそうだ)
「誰!?」
エディが驚いて見回すが、テレパシーの発信者は見つからない。
青輪に金目の色違いのブラッキーが、隠れ場所からくすっと笑った。
エディと別れてまもない、夕焼け空の上。
乗り心地が抜群に良い、フライゴンの安全飛行。
落ちないようにアイラが後ろから支えている。前に座るラミィはご機嫌だ。
「ねーさん、いっつもそれ着けてるよね」
顔だけ振り返って、ペンダントに目配せした。
「ええ。大事な物なの」
「ふーん……前から気になってたんだけど、貰い物?」
「そうよ」
甘え声だったラミィが一気に慌てた。
「もしかして、恋人……!?」
少し考えてから答えたアイラの唇は、ゆるんでいた。
「ヒミツ」
首にかけているペンダント――『三日月の羽』が風に揺れていた。