NEAR◆◇MISS















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エピローグ
六年後
 解離性健忘。

 小難しい用語が載ったページを、眼鏡の少年は丸々暗記する熱心さで読みふける。
 少ない蔵書はとっくに制覇したので、島外から他の専門書を取り寄せてもらったのだ。
 足音を隠そうとしない、赤白のボーダーキャミソールと青いデニムのホットパンツ姿。
 不用心な茶髪の後ろ頭を平手打ちした少女の、ヒステリックな声が自習室に響き渡った。
「また学校さぼってこんなとこに、エディのバカ!」
 窓の外に止まっていたチルットが翼で頭をかかえ、こんもり白いアフロになった。

 図書館では静かに、といつも言ってあるのに。他の利用者とカウンターの司書に平謝りしながら眼鏡をかけた茶髪の少年、エディは小さなため息をつく。クラスに馴染めず不登校になりがちな兄と、マナーの悪さを直す気がない妹のオタチごっこ。暴力反対で降参を恥と思わないので、強気ですぐに手が出る彼女と勝負にならない。襟首をつかまれたまま外へ引っぱり出された途端、ふわっと困り顔のチルット=アフロが肩に降りた。階段下で待っていた二十代の若い女性と目が引き合う。ピンクパールのノンホールピアス。白いレイヤードブラウスとライトグレーのひざ丈パンツ、臙脂(えんじ)色のサンダル。お気に入りなのか、会うたびに身に着けているペンダント。待ち合わせをすっぽかしたと気づかされて、エディは素直に頭を垂れた。
「ごめんなさい、義姉(ねえ)さん。本を読むのに夢中で……」 
「昔の記憶がないのはどうでもいいけど、今朝の約束は忘れないでよ!」
「お兄ちゃんをそんなに怒らないであげて、ラミィ」
 栗色のミディアムボブに灰眼の美人、アイラ・ロングロードが兄妹の間を取りなした。

 夕日の色に染まった南国情緒のある穏やかなビーチを、道路沿いに見渡せる。
 “船長”と呼び慕う養父、ジョージ・ロングロードが守ってくれている海だ。ポケモンレンジャーの補助機関、沿岸パトロール隊の嘱託員として働いている。その実娘アイラは大学を卒業後、アルストロメリアという遠く離れた地方都市でジムリーダー職に就いたらしい。長期休暇以外で顔を合わせる機会はめったにないが、可愛がってもらっているのでエディは家庭的に好いている。ラミィはその上をいく愛着の強さで、兄へのツンケンした態度と別人みたいな甘えた笑顔で、ラブラブカップルのように義姉と腕を組んでいる。
「えへへ、もうすぐ夏休みだよ。ねーさんも一緒にクルーズ行けたらいいのに」
「それがね、ジムリーダーって結構忙しいのよ。前倒しで遊びに来たから許してね」
「チャレンジャーはバトルしたいタイプを指定できて、義姉さんは対応するレンタルポケモンを選ぶんでしょう? 普通はジムって一種類のエキスパートですから、バトルネーソスとの提携はレギュレーションが斬新ですよね」
 話に入らないでエディ! とラミィが目くじらを立てた。
「定期船に乗りそこねて、レストランの予約がパーになったのは誰のせい!?」
「ラミィ」
 アイラに呼ばれてぴたっと口をつぐんだが、兄をぎらぎら睨んだままだ。
「ネーソスのポケモン達の多くは犯罪歴があるの。でも新しいパートナーが見つかれば、過去を乗り越えられる心の持ち主も沢山いる。そういうコたちと有望なトレーナーが出会うきっかけ作りができれば、と思ってて。今はまだ駆け出しだけど、いつか一人前のジムリーダーになってみせるわ」
 義姉の張りきった笑顔につられて、エディもひかえめに微笑みを返した。
 バッグをつつくアフロ。詰めこんだ本の背表紙を見て、しまったと眉根を下げる。
「うっかりしてました……こっちの本、今日中に返さないと。先に帰っててください」
「あ、ん、た、ねえ、どこまで――」
 ラミィの肩に手を置き、アイラがモンスターボールの開閉スイッチを指にかけて言う。
「外食はなくなったけど、デザートにこんなのどう? ここから南へ二つ目の島で、美味しいマラサダショップがオープンしたの知ってる? 私たちでひとっ飛び、買いに行ってみましょうよ」
 光が放たれ、フライゴンが現れた。
 素人を先に乗せ、ひらりと後列にまたがったライダーの首飾りがはためいた。 
「それじゃ、後でね!」



 自分の過去を知りたい。それって、そんなに悪いことなのかな。
 どうでもいい。と言い切った妹の台詞を反芻しながら、図書館へ続く、来た道を戻る。
 とぼとぼ歩くエディの胸の中で、どうでもよくないよ、と沈んだ呟きが溜めこまれた。
 実の両親を覚えていない。幼い頃に好きだったものも、どんな友達がいたのかも。六年ほど前に事故に遭い、そのショックですべて忘れてしまったと“船長”から教えられた。「僕が小さい時の話をして」と何度もせがんだけれども、返事はいつだって「もっと大きくなってからだ」。二年は治療に費やされたそうで、十一歳になろうとしている人生の内、ここ四年分の記憶しか振り返れない。飛び級したので公立ジュニアスクールは今年で卒業だ。最後の夏休み。自宅兼クルーザーで諸島をめぐる旅の思い出を作ろう、と船長が計画を立てている。興味がない、行きたくない、というのが正直な感想だった。心は喪失した過去に魅入られたままで、未来の進路も決まっていないのに、現在のバカンスだけ楽しむなんて。
 
 本を返し終わり、図書館を出た。彼方へ広がる、熟れた柑橘のような濃い空。
 太陽が、水平線に完全に沈む直前。ほんの一瞬、ちらりと緑の光が浮き上がった。
 見た者に幸福が訪れるという言い伝えがある、奇跡の自然現象。
 見間違いを恐れたエディはその名をはばかろうとして、我慢できず口から漏れた。

「グリーンフラッシュ……」

(あれが? 初めて見たよ。幸先よさそう)
 わっと驚いて、自分で自分の足に引っかかってころぶ。なんだ、今の声。誰だ。
 おどおど見回すが、誰もいない。青い小鳥に助け起こされ、打った尻をさすった。
「いてて……アフロ、今のが幸福だったと思う?」
 きっと、気のせいだったのだ。興奮しすぎて。エディは苦笑いした。

 図書館の屋根の上に凛とたたずむ、耳長の黒い影。
 青輪に金目の色違いのブラッキーが、くすっと口角を上げた。



「寒くない?」
「ぜんぜん!」
 日暮れが置き忘れていった赤みが薄まり、藍色が星を招待しはじめた空の上。
 フライゴンで飛べるのが嬉しくて、のぼせたラミィは体感温度がちょうどいい。
「エディは人をイラつかせる天才。でもわざとじゃないから、気を悪くしないで」
「大丈夫。あなたがお兄ちゃんを嫌いじゃないって、ちゃんと分かってるわ」
「ち、ちがうもん! あんなヘタレ、根暗、鈍感、妹に迷惑ばっかかけるヤツ!」
 はいはい、と後ろから支えるアイラが肩越しに振り向いている義妹の頭を撫でる。
 暴れて海に落ちたら大変だ。愛竜=ライキなら空中でリカバリーできるけれども。
「仕事が忙しいってほんとだよね?」
 ぶすっとむくれて、前を向いたラミイが声だけでたずねた。
「そうよ」
「……ふーん。ねーさんって、恋人いたりしない?」
 少し考えてから答えたアイラの唇は、かすかにゆるんでいた。 
「ヒミツ」
 首にかけているペンダント――『三日月の羽』が、風に揺れていた。

レイコ ( 2019/05/08(水) 15:49 )