-10- 多角形
真っ暗なミナトの部屋に居候中のラルトス=ウルスラは、窓辺で頬杖をついていた。
先日、誰かにとっての大切な誰かが失われた。世間的には一連の出来事が無かったことにされようと、ひとりひとりの胸に深い傷が残された。空虚でしめやかな無気力でいられる時間と場所に閉じこもることを白い目で見られたり、泣いても泣いても涙が枯れない情緒不安定に後ろ指を差されている気がする。悲嘆もそこそこに切り替えて、前を向ける側の心の強さについて行けない。
インターホンが鳴った。
「こんばんは。お邪魔します」
エルレイド=クラウは玄関に倒れているサーフボードを跨いで、部屋に入った。明かりを点ける。趣味人の自宅マンションは相変わらず物が多く、ごちゃごちゃしている。綺麗好きで整頓上手なウルスラが黙って暮らせる環境ではない。ミナトに許可を取り付けて大掃除を率先する気力がまだ戻らないのだ。
「美味しいですよ。食べたら元気出るかもです」
「無駄ですわ。そこまで単純な性格ではありません」
手土産の人気菓子店の紙袋から、ラルトスは顔をそむけた。
「わたくし、アイラ様とは違いますもの。よく平気でレスカ様に接することができますわね。外見が同じなら中身はどうでもいいのでしょうか? あんなに節操のない女性だと思っていませんでしたわ」
「困ります、アイラさんの悪口は。それに僕も好きですよ、レスカさんの人柄」
はっきりとクラウに言われて、ウルスラは思わず醜い鼻声を叫んだ。
「わたくしの気持ちなんて、分かる訳ないですわ!」
涙が溢れてこぼれてくる両目に、ハンカチ代わりにおかっぱの前髪を押し当てた。
「もう関わらないで下さい。クラウさんを傷つける言葉ばかり……」
「で、でも! 僕は好きで関わってるんです。僕、あなたの事が」
勢いで出かかった告白を、クラウは喉の奥の奥へと送り返した。熱くなったこめかみで、早縫いの電動ミシンのように脈が打っている。心が弱っている女性の隙につけこむのは卑怯だ。それに、きっと混乱させてしまう。
ウルスラのしゃくり上げる声が少し落ち着き、ゆっくり前髪から手が外れた。
クラウも、自分を呼ぶ視線のような気配を感じ、窓の外を探す。
地上から高層を仰いでいるガーディが、尻尾をいそいそ振っていた。
◆◇
水の抵抗が少ない、丸みをおびた翼竜的なフォルムは万能だ。ルギアは主な生息域の深海のみならず、発達した両腕とエスパーの地力をもって大空をも自在に舞う天性に恵まれている。エキサイティングなアクロバットあり、野生のホエルオーの群れの遊覧あり、の沖合の夜間飛行をミナトは謳歌し、電気の力できらびやかに輝くアストロメリア市に帰投した。
埠頭を過ぎたあたりから、故郷の海に還した白銀の聖獣の“鏡像”が解けた。街の上空では、海神ともてはやされる格好だと目立つからだ。長寿の生物にありがちな発達の遅い体格や顔立ちのあどけなさが、遺伝子組み換えの光を発し、まったく別の携帯獣へ作り直された。
おっとりと着陸した気球霊、フワライドが、頭に乗せていたミナトをバトルネーソスの正面ゲートの手前に降ろす。ぐにゃりとしたフワライドの体がまた光り、新しく炎色の子犬に『変身』した。目のくりくりして毛質が柔らかい、人懐こいガーディだ。ぶんぶん尻尾を振って、ミナトの顔面を舐め尽くそうと後ろ足で立って飛びついてきた。
「大サービスかよ! あいつらにそっくりだぜ、さっすが!」
ありがとうの言葉を安売りできない代わりに、褒ちぎった。月白と銀朱の姿だけにでも会わせようしてくれている、安直でややズレた人ならざる者の感性を、優しさと呼んでやりたい。ミナトは本物と見分けがつかないふさふさの頭を撫で、あごの下をこちょこちょくすぐった。
笑ってむせたガーディが点滅して、ぐにゃりと真の姿に戻る。
レストロイ家に代々隷属させられ、父ハイフェンと命運を共にした一族の生き残り。
ぷるぷるでもちもちなスライムの感触が気持ちいい、薄紫色の頭を撫でた。
「さ、行け。お前は自由だ。二度とレストロイに関わんじゃねえぞ」
何か伝えたそうにミナトを見つめる表情が、旅立ちの不安に負けない明るさを宿す。身体が輝き、純白の天使のような姿に変わる。トゲチック。廃絶するであろう名門直系の末裔の周りをくるくる飛び回り、『幸せの粉』と呼ばれる光る羽毛を振りまいた。トゲチックはミナトの額に優しくキスをすると、星空の向こうへ飛び去っていった。
ああいう“ニセモノ”は受け入れられるのにな。
自分の中にある矛盾に、ミナトはちぇっと舌打ちしたくなった。髪の長いあの男への拒絶をやめられない。まごころに姿も関係ない、と、今さっき身をもって感じたが。逆恨みにケリを着けてしまったら、生者の思い出の中でしか生きていけなくなった親友たちは――どうなるのだ。
バトルネーソスの館内カフェ、旧称『くさぶえ』改め『あくび』。
先客の閑古鳥ならぬネイティが一羽きりで待つ店内に、ミナトが顔を出す。
「お待たせ!」
目に見えない空気の塊が胸に飛来し、受け止めたかのようなポーズになる。
不可視の力が解除された。ミナトに横抱きされた歌姫の、萌黄色の髪は長く美しい。
「よっ。正式採用おめでとう」
祝われた新しい雇われマスター、ヌオー=留紺がカウンター越しに手を挙げた。
「オレの手持ち辞めて、亜人デビュー。驚かされたぜまったく」
カウンター席に座り、メニュー表に目を通す。新作、胡椒入りモーモーミルク。パス。新作その二、どろんコーヒー。これのホットに決めた。早速、湯気が立つカップを目の前に出された。こうばしい豆の香。チップでも置くかのように、ミナトは生体認証を解除済みのモンスターボールをソーサーの横に並べた。
「これはもう、お前のもんだ。けど、いつでも戻って来いよ。歓迎するからさ」
掌サイズの古巣をまじまじと眺めるヌオーは、いつも通りのポーカーフェイス。
「なんか飲む?」
ふわりと隣に座ったメロエッタに聞くと、ミナトのカップを手で差した。
(おぬし、さっきからわしを無視しておらんか?)
ぴょいとミナトの肩に跳び乗ったネイティの、テレパシー。
バトルネーソスで犯したネイティの罪は、ハイフェン・レストロイ卿の洗脳によるもの。逮捕されたミナトを替え玉とすり替えたのも、本物のミナトを海外の無人島に拉致、監禁した黒幕もレストロイ卿。職員への報復を危惧して逮捕できずにいた霊能家当主の仕組んだ策略という、死人に口なしの偽証の採択は、国際警察にとっても都合がよかった。
釈放されたミナトの名誉は回復した。エンペルト=雄黄とミロカロス=長春の身柄はネーソスから即行で引き取った。しかし、ネーソス収容中にトレーナー権の変更されたガーディ=銀朱は取り戻せない。
「してねえって。つーかこの先イヤってほど喋れるだろ、長老」
精神的な負担が重なった影響で、ミナトの霊能は亢進している。過剰に視え、不必要に聴こえ、異常に触れることができる。日常生活に支障が出始めていた。放置すれば、現実と妄想の区別がつかなくなりそうだった。
母親は生前、霊能を封印する方法を探して旅に出たらしい。同じ動機を、働くモチベーションを見失いつつある国際警察から距離を置く理由に当てはめた。ドクター・ロビンに作成してもらった大げさな診断書は本部に受理された。復職に向けた療養という名目で、霊能の封印方法を探すがてら、気ままに世界を旅行してやるつもりだ。経歴に難がありすぎる、この年寄り臭いネイティも連れて。
(ミナト様!)
再注文した高温のコーヒーがあやうく、気管へコースアウトするところだった。
店に飛びこんできたペアを、咳こみながら見やる。ラルトスが何かを抱えている。
タマゴだ。
ウルスラとクラウに向かって、ミナトはぐっと親指を立てた。
「おめでとう! お幸せに!」
(んもう、よくご覧下さい! ミナト様に貰ってほしいと頼まれたのですわ!)
タマゴの殻には通常、生まれてくる個体の体色的特徴が表れる。
オレンジ色に、黒い縞模様。
「おい、まさか……銀朱の!?」
派手に立ち上がったはずみで、カウンターの椅子がひっくり返った。
「あいつが親に!? 信じらんねえマジか!」
渡されて、腕に抱く。温かい。腹の底から溢れ出す、陽気な大笑い。
タマゴといえば、守護霊の儀式。敬遠が浄化されていくようだった。銀朱の奴、新生活をエンジョイしやがって。一生幸せでいろよ。生まれてくる二世は大事に面倒をみる。オレも負けてらんねえな。思考をすらすら回転させて、ミナトは笑いすぎて潤んだ目尻をぬぐった。
「ウルスラ、失恋の特効薬は新しい恋って言うよな。オレと来ねえか?」
歴代のナンパを成功に導いてきたハイスペックなスマイルを久々に解禁した。
「つってもオレの本命は、人間の女子だから。二股、いや三……とにかくハーレム前提は譲れねえ。それでもいいなら。ウルスラのことは前から好きだし、オレに惚れてくれたらすっげー嬉しいよ!」
はちゃめちゃな台詞の内容は、ともかく。
こうも堂々と口説かれた経験がないウルスラがうろたえて、恥じらった途端。
(ちょ、ちょっと待った!)
割り込んだのは、中性的にトーンの高い、周囲の脳内に直接響く少年声。
義憤と嫉妬に駆られて結婚式場に殴り込んだ恋敵のような熱量でまくし立てた。
(ハーレム!? そんなルーズな恋愛観の人に、ウルスラさんは任せられません!)
「そうこなくっちゃ、ライバル」
ミナトはニッと白い歯を見せた。
「ていうかテレパシー、聞こえたぞ。やったじゃんか」
へ? と表情を間抜けにしたエルレイドの肩をミナトの手が叩いた。
「オレたちの新・三角関係の結成を祝して乾杯! お前ら、朝までへばんなよ!」
(マスター、ラストオーダーとやらは何時だったかのう)
長老が振り向くと、ヌオーは閉店時間が載った張り紙をしわくちゃに丸めていた。