-8- 夜桜
衣服は小汚く、丈が寸足らずで背格好に合っていない。
金髪は前髪以外は長く、肩を越えている。
しかしキズミは、キズミだ。
中身と外見が釣り合う本人の自称を、誰も否定できなかった。
キズミの構えとウインディの炎が呼応した時、エディオルの体内から這い出してきた異界の怪物は消し飛んだ。時空のねじれを通過した影響で脆くなっていたZクリスタルは、“全力”の一撃を放った負荷に耐えきれず、砕け散った。
人里離れた山奥から最寄りの救急病院へ、意識のないエディオルと色違いのイーブイは搬送すべく、一行は冷たい冬の朝焼けを切り裂く風のように『空を飛ぶ』。フィッシャーはジョージ・ロングとオルデン・レインウィングスに秘密回線で状況を伝えた。長髪のキズミは、二人の声が聞ける通信機を喉から手が出るほど欲しかったが、エディオルの容態の変化を一切見逃さないためにも、今は自重した。
病院に到着後、急患の収容を見届けたキズミもまた簡単な健康診断を受け、結果を待った。ベンチで待つ間、キズミはポワロ・フィッシャーからことのあらましを説明してもらった。視線を合わせようとしないラルトス=ウルスラを除く、ウインディ=ファースト達からも話を聴いた。
自分たちの元いた世界が、森の護り神によって上書きされた。沈痛な面持ちで重くのしかかる事実を飲み込んだ後、キズミは身の上を語り出す。当時ロングが過去へ飛ばされた現場に、直属の部下である自分も同行していた。『時渡り』に巻き込まれ、気づいたら、携帯獣たちに介抱されていた。村の外の危険な荒地に倒れていたらしいと、テレパシーを扱える通訳者を介して知らされた。
その村の言い伝えでは、人間は大昔に滅びた幻の生物だった。未来は未来でも、森の護り神の歴史改変が完遂された殲滅後の時代なのか、自然の摂理で人類が絶滅した気の遠くなるような将来の時代なのか、真実を突き止める方法はなかった。
先祖が人間と暮らしていたという文化的な携帯獣は自治コミュニティを作り、野性的な携帯獣はダンジョンと呼ばれる過酷な地帯を根城とし、棲み分けがなされていた。助けられた村でしばらく世話になり、救助や開拓などを請け負う村の活動隊に志願して、過去に帰る手段を探した。一年近くかけて、ついに見つけた時空ホールと呼ばれる特異点をくぐって過去の時代へ向かうと、行き着いた座標があの湖だった。
未来にいる自分の空白を現代で埋める存在。
それが消えた“キズミ”だったのかもしれない。
あるいは、“キズミ”が消えた空白を埋めるために呼ばれたのが自分だろうか。
キズミは、右の掌を見つめた。時空ホール通過時の経験は人間の脳の処理能力を越えている。記憶は曖昧だが、そういえば、右手で何かをした。自分にしかできない、と力強い因果を感じた何かを。すれ違いざまにハイタッチしたかのような、形のない触感がかすかに残っている。
院内のシャワー室を借り、フィッシャーの用意した服に着替えた。
遠方よりオルデンが最善の最速で駆け付けたのは、昼過ぎだった。丸眼鏡越しの温厚な目で、病室の前にいたキズミは名前を確認された。話したい事は沢山あった。しかし、相手は深い洞察力の持ち主だ。わが子と早く対面したい焦りを冷静にいなし、終わりの見えない質問と応答に長々と付き合ってくれるだろう。そこに甘えて引き止めてはいけない。
「中へどうぞ、先生。話ならまた今度……いくらでも」
キズミは恩師を、昏睡状態のエディオルのもとへ急がせた。
中から物音と嗚咽が聞こえてきた気がし、廊下に佇む皆の無力感が深まった。
チルット=アフロとルカリオ=ソリッシュはオルデンに同行した。国際警察本部の職域病院への転院手続きを終えたオルデンと、キズミは近いうちにまた会おうと約束して別れた。事後処理で立て込んでいるロングからの待機命令が解けるまで、キズミはアルストロメリア市にあるフィッシャーの自宅に身を隠すことになった。行方不明のキズミ・パーム・レスカが見つかったと本部に知られたならば、身柄を拘束される。キズミの記憶を持たないキズミが事情聴取を乗り切るには、周到な準備が必要だった。
ロング父子に会えるにはしばらくかかるだろう、とフィッシャーから言われた。移動の途中で、とある無人駅のホームに立ち寄った。同じくアルストロメリアへ向かっている、ある国際警察官と合流するためだ。聞かされた男の名は、キズミを困惑させた。元いた世界では親友になどなりえない、因縁深い相手なのだ。
夕空は厚い雲に覆われ、グラーデションを飛んで直接夜が来たように暗い。
ようやく到着した逆方向の列車から、金城湊がホームに降りてきた。
目が合った瞬間に、水と油を直感した。互いに敵愾心を止められなかった。
「失せろ、ニセモノ。ここにてめえの居場所はねえ」
「なんやとコラ……クズのレストロイが!」
「オレは金城湊だ!」
ミナトが、キズミの胸倉をつかんだ。
藍色の瞳がゆがみ、ぽろっとこぼれた大粒が、無機質な床面に落ちた。
「オレが、オレ達が会いたかったのは、てめえじゃねえんだよ……!」
黙りこくっていたラルトスのテレパシーが、発作のように弾けた。
(わたくしが悪いのですわ! わたくしが目覚めなければ、きっとキズミ様が消えてしまうことも……なかったのに……)
全身を震わせて泣きじゃくる姿にシンクロしたかのように、小雨が降り出した。
キズミは、ウルスラの気持ちを苦しめてまで“自宅”に立ち入るつもりはなかった。必要品はフィッシャーに言づけ、なるべくロングの自宅に引きこもった。長い金髪を切り落とす気はなく、毛先だけを鋏で整えると、洗面台の鏡に映る見た目がいくらか小ざっぱりとした。
人や携帯獣と接するのが好きで、彼らの笑顔を見るのが好きだった。国際警察官はやり甲斐のある仕事だった。それなりに死にかけては、ぎりぎりで生き延びてきた。運のしぶとさに関しては、ある意味で刑事は天職だった。
覚悟さえ決めれば、大抵の苦境は乗り越えられた。少なくとも仕事面ではそうだった。だが、今キズミが直面している困難は、誰かの喜びが誰かの悲しみという、どうにもならない齟齬だった。帰還を心から認めてくれたファースト達がいる一方で、ウルスラ達を深く傷つけてしまった。
今夜は、アルストロメリア警察の残業でフィッシャーの帰りが遅い。
キズミからキズミへ所有権が移った携帯端末に、メッセージが一件届いた。
呼び出したのはアイラだった。オーナーの計らいで、特別にバトルネーソス内の併設カフェを閉店時間後に使わせてもらえることになった。不要の外出がしづらいキズミへの配慮だ。
それなのに、アイラは挨拶に詰まった。目も合わせられない。
彼の、右頬の傷跡。長い金髪。あの青い瞳に映るこちらの印象を意識してしまう。
どう接すれば良いのか。心臓の音が大きくなったり、小さくなったり乱れている。
「……こんばんは」
ありきたりな挨拶を、ようやく絞り出せた。
「……どうも」
キズミは向かい席から、まじまじと見つめすぎないように目線に気を配った。
彼女の、大きな灰色の瞳。栗色の髪。一日も忘れたことがない人がそこにいる
身を乗り出し抱きしめたくなるほどの感動を、驚かせたくない一心で抑え込んだ。
研修中の雇われマスターが、当店からのサービスでコーヒーと紅茶を提供した。
体の内側から温まると、疲れの溶け出すような、芯のほぐれが二人を歩み寄らせた。
「連絡が遅くなって、ごめんなさい」
「かまへんて。仕事で忙しかったんやろ?」
アイラの部下と同じ男の声が、気さくな物言いをした。
「そうだけど、刑事は……しばらく休職するつもり」
不思議だ。一旦話し始めれば、昔馴染みのように話しやすい。彼と一緒にいるときの自分が、何故かしっくりくる。アイラは心に着込んでいた喪服がするすると勝手に脱げていくかのようだった。違う部分も同じ部分もひっくるめて、ただの別人だとは思えない。一卵性双生児でも二重人格者でもない。いなくなったはずの大切な人と、奇跡的に巡り合えたかのような気持ちが湧き出してくる。
「今の生き方に……少し、疲れた気がして」
「そうか。それがええ」
「でも、あんまりぼーっと過ごすのもそれはそれで、憂鬱が増えたりして」
「ほな、修学休職は?」
キズミは提案した直後に、目をぱちくりさせたアイラを見て急に失敗感に駆られた。歴史が変わる前のアイラは学業優秀なハイスクール生だった。ついうっかり、大学に進学するイメージが先行してしまったのだ。
「俺、変なこと言うたやろか」
「ううん。考えた事、なかったから。それって面白そう」
心を休めるやり方はさまざまだ。目標を作って打ち込むのも良いかもしれない。
「勉強とか美味しい物とか、おしゃれしたり髪型も……あなたは、伸ばしてるの?」
「これか。切らん理由は……何べん聞いてもすぐ忘れるくらい、しょうもないで」
あっけからかんとした彼のはぐらかし方が、逆に引っかかった。まるで、すでに一度明かしたかことがあるかのような。察したアイラは、すとんと罪悪感の穴に落ちてしまった。
「ごめんなさい。あなたが覚えてる、あなたを知ってる“アイラ”じゃなくて」
「なんで君が謝るんや。謝らなあかんのは、俺のほうや。ごめんな。帰ってきたのが、君の部下やなくて」
「そんな……あなたはほうこそ、謝る必要なんて」
「いや。フェアやない。俺には覚悟を決める時間があったのに、君にはなかった」
ひたむきで穏やかな愛情がにじむ目をした男が、切なげに微笑んだ。
「迷惑やなかったら……俺にとってはこれからも、やっぱり君はアイラや」
名前を呼ばれた瞬間、アイラの心臓がきらきらと火照って視線を落とした。
不用意な発言で彼女を困らせたと思いつつ、キズミはその反応にどぎまぎした。
お互い、この空気をどう変えるべきか考えあぐねた。熱く速い胸の苦しさが、何を意味するか。アイラは彼の真剣な願いをかえって軽んじてしまいそうで、早急に結論を出す勇気はなかった。呆けた思考の背筋を正し、やがてアイラは目を上げた。今夜呼び出した理由の一つを、やり遂げるのだ。
「伝言があるの。消えてしまったパラディンという国際警察官から、あなたへ」
僕の本名は、クラウです――
聞き届けたキズミは青い瞳を一瞬揺らし、ゆがめた眉とともに数秒閉じた。歴史が変わる前の世界で、最後の任務に向かう直前、何があろうと再会して、教えてもらう約束を交わした。コードネームしか知らなかった親友はアイラのおかげで、その約束を守り切れたのだ。
「ありがとう。なら俺は、もう一つの約束は意地でも守らなな」
「それ、私にも手伝える?」
「君以外に適役はおらんで」
急に予知能力にでも目覚めたかのように、アイラは見当がつく気がした。
親友の消滅を知った直後の空元気であろうと、キズミの笑顔に嘘はなかった。
「いつか一緒に、夜桜を見に行く約束や」