-8- おわりとはじまり
「来たね、アイラ」
幻影使いの仔狐――ゾロアが待ち受けていた。
あたり一帯に桃色の濃霧が立ち込めていた。
「その声……お姉ちゃん、よね」
アイラはひざまずいた。
幼い頃に生き別れた姉、メギナの思い出なら。
覚えている限りを、慕いつづけてきた。
人間とはかけ離れた姿の暗色の獣を、アイラは抱きしめる。
「普通、姉がゾロアとか信じる? もういい、離して」
「嫌よ」
年端のいかないぐずり屋に後退したかのような、涙ぐんだ声が出た。
ゾロアは身をよじって窮屈な腕をすり抜けた。
すとんと降り立ち、アイラを真正面から見上げる。
「一回しか言わないから、集中して。ジョージ・ロングの夢をいくらむさぼっても、メギナの記憶は戻らなかった。ゾロアークは自爆して、アイラに見せたあの“悪夢”を破壊した。どんな夢をみたか、覚えてないだろ? それでいい。ゾロアークが消えてジョージ・ロングは目覚めたけど、自爆のダメージであんたの昏睡は続いた。あんたの夢の力を食らって姉の人格がよみがえった時、あたし達姉妹の混線が起きた」
「混線?」
「あたしの思念の欠片が、あんたの魂の奥深くに残留したってこと。簡単に言えば、一つの肉体に二つの魂がある状態。あんたが喋れなくなったり、運動機能に支障が出ている原因は、このあたし。あんたが見る“悪夢”も、体からの異常信号。この頃あんたの情緒が安定してからは、悪夢の頻度が減ったようだけど。ああそれと、あんたの父親への嫌悪感、あたしの思念が増幅させてるって聞けば、少しは安心する?」
アイラは口の乾きを強く覚え、喉に気泡を飲んだ。
「お姉ちゃんは、パパのこと、まだ許せない?」
「仕事中毒の父親も、勝手に死んだ虐待癖の母親もね」
毛を逆立てたゾロアの口調は殺伐としていた。
「でも、あたしもクズの同類。妹を捨てたんだから」
アイラは、何も言えなかった。
証拠フィルムのように記憶に刻まれた、姉の後ろ姿。
幼い自分を置き去りにして振り返らない、背中で揺れる長い髪。
「父親があんたを国際警察に放りこんだのは、一人でも社会で生きていける力をつけさせるため。それがあの男なりの最低限の情だったとしても、あたしは、連れ戻されて恩を着せられるのは、絶対嫌だった。意地でもプライドを捨てられなかった」
往時の勝気で利発だった姉が、半生の振り返りを子狐の口から語る。
「小娘が独りで綺麗に生きていけるほど、世の中は甘くない。なんで人間なんかに生まれてきたんだろうって。野生でたくましく生きる携帯獣が、羨ましくて仕方なかった。人生に絶望して、死のうとしてたら……救われたんだ。あのサーナイトに」
ぬいぐるみのようにあどけない鼻面が、甘く潤んだ女の顔になる。
アイラの鼓動も少し、速くなった。
「ひと……目惚れ?」
「一緒に暮らしてるうちに、かな。本気で結ばれたいと思った。でもフラれた。人間の女に興味ないって。そんな理由じゃ、諦めきれなかった。逆に、燃えたよね。ヒトを捨てる研究がしたくて、犯罪組織の研究部門に潜りこんだり、よその最新技術を盗んだり。毎日忙しくて、大変で、でも結構充実してた」
苦労はあったが、苦痛ではなかった。
「やっと見通しが立ったと思ったら……彼の、本当の狙いを知った。彼が求めていたのは、歴史改変で滅亡する人類を選別して、まがりなりに生き残らせる手段だった。欲しいのはテクノロジーと科学者の頭脳で、あたしじゃない。あたしは感情任せに人体実験を強行して、記憶喪失の怪物に生まれ変わった」
おわりは、はじまり。
はじまりは、おわり。
不運で不合理な、波乱に満ちた姉の盲目。
アイラはおずおずと、即答を予感しながら訊ねる。
「まだ、愛してる?」
「まだ、愛してる」
語尾の上がりと下がりを除いて、一致するこだま。
引っ込みがつかない共感を、アイラは声の憂いに乗せた。
「お姉ちゃんは、ずっとその姿のままなの?」
「あたしの研究は、戻らないためのものだよ」
つま先立ちのゾロアはひざまずいている妹へ、毛むくじゃらの頬ずりをした。
「あんたの……」
「言わないで、お姉ちゃん」
しかし、ゾロアは引かなかった。
「方法は違うけど、記憶喪失の怪物はもうひとりいる。あんたのすぐそばに」
「言わないで!」
頭上で亀裂音がした。
中空に、ひび割れが生じていた。
空気が振動し始める。空間が真っ白な粒子で塗りつぶされていく。
「あの悪夢使いの干渉か……アイラ、聴け!」
そむけていた灰色の瞳がびくりと、腕の中のゾロアに引き戻された。
「実験体のイーブイに移植したあたしの精神データは、まだ生きてる。“心”がリンクしてるから、あたしには分かる。あいつらはそのデータを使って、あの出来損ない……ゾロアークを作り直そうとしてる」
「あいつら?」
仔狐の暗色が、白い粒子に包まれて消えていく。
「お姉ちゃん!」
「あのヒールボールは制御装置じゃない。悪夢を増幅する装置だ。あたしとの接触は、人為的に引き起こされたんだ。あんたにとってこれは悪夢に違いないからね。しゃらくさいけど、オルデン・レインウィングスは評判以上の天才だ」
信頼していた人物に、欺かれた。つまりそうことだ。
アイラは消えゆく姉に気を取られ、実感が沁みてこなかった。
「でもおかげで、伝えたいことは伝えられた。ようやく、あたしは眠れる」
「待ってお姉ちゃん! まだ、話したい事が、たくさん……」
アイラも、光に飲み込まれていく。
「“ここ”から帰ったら、彼に……パラディンに、一発入れてくれ!」
最後の最後に、ゾロアは不良少女のように不敵に笑った。
◆◇
膜のかかったような、遠い声が聴こえてくる。
何度も何度も、名前を呼ばれている。肩を揺すられている。
まぶたの隙間から、明るさが差し込む。寝室の照明が点いていた。
「起きたか、アイラ!」
筋骨のがっしりした両腕に、力強く包まれた。
肩越しに、ドアの陰に隠れているマンションのオーナーが見えた。
中年女性の乾燥した手が心配そうに、マスターキーを掴んでいた。
アイラのまどろんでいた意識が晴れてきた。
「私の部下は? どこなの」
自分を抱き締めているスーツ姿の大男は、父親だった。
「オルデンの所にいる」
「パパの仕業? レインウィングスさんを、そそのかしたの?」
忠実だった老ハーデリア=オハンの生前、父は目を覚ましてくれなかった。
自分の意識が戻ったとき、すぐに来てくれなかった。電話一本で済まされた。
国際警察の監視がついていると気付いたとき、取り合ってくれなかった。
歴史改変のことも、金城湊を人柱にする計画も、秘密にされていた。
部下とそのアシスタントが行方不明なのに、捜索の状況を教えてくれない。
厚みのある中老の胸板を突き飛ばした。
生半可な反抗期から、苛烈な振る舞いをしたのではない。
「パパなんか、大嫌い!」
愛娘を見つめる、頑ななジョージ・ロングの眼差しに、抑揚がつく。
「あいつのことは、諦めろ」