NEAR◆◇MISS - 第九章
-8- おわりとはじまり
「来たね、アイラ」
 幻影使いの仔狐。ゾロア。

 桃色の霧のなかにいるような閉鎖空間で、視線が溶け合う。
「その声……お姉ちゃん?」
 アイラはひざまずき、暗色の獣を抱きしめた。
 幼い頃に生き別れた姉、メギナ。
 覚えている限りの思い出を、慕いつづけてきた。

「普通、姉がこの姿だと驚かない? 痛い、もういい、離して」
「嫌よ」
 年端のいかない下の子に戻ったかのような、涙ぐんだ声。
 ゾロアは激しく首を振り、尖ったひげを鞭にして威嚇する。身をよじって窮屈な腕をすり抜け、すとんと降り立つ。アイラを真正面から見上げた。殿上眉のような目の上の赤い模様がゆがむ。
「一回しか説明しないから、集中して。ジョージ・ロングの夢をいくらむさぼっても、メギナの記憶は戻らなかった。アイラは違う。ゾロアークは自爆して、あんたに見せた“悪夢”を破壊した。どんな夢をみたか、覚えてないだろ? それでいいよ。ゾロアークが消えてジョージ・ロングは目覚めたけど、アイラの昏睡は続いた。自爆の賭けが、若干しくじってたんだ。あんたの夢の力を食らって姉の人格がよみがえった時、あたしら姉妹の混線が起きた」

「混線?」

「あたしの思念の欠片が、あんたの魂の奥深くに残留したってこと。イメージで言うと、二重人格。一つの体に二つの魂がある状態。あんたが喋れなくなったり、運動機能に支障が出た原因は、このあたし。“悪夢”も、体からの異常を知らせるサインだ。この頃あんたの情緒が安定してからは、頻度が減ったみたいだけど。ああそれと、あんたの父親ぎらい。残留思念が増幅させてるって聞けば、少しは安心する?」

 アイラは、つばを飲みこむ。

「パパのこと、まだ許せない?」
「仕事中毒の父親も、勝手に野垂れ死んだ母親のほうもね」
 ゾロアの口調は固く、頭と首の長毛が逆立った。
「でも、あたしもクズの同類。妹を捨てたんだから」

 アイラは、何も言えなかった。
 記憶に刻まれている、姉の後ろ姿。
 幼い自分を置いて去って行く、背中で揺れる長い美髪。

「あの男があんたを国際警察にやったのは、生きるすべを身に着けさせるためだ。一応、父親の情が残ってたことは知ってる。でもあたしは、あの男に連れ戻されて世話になるのは、絶対嫌だった。意地でもプライドを捨てられなかった」

 往時の勝気で利発だった姉が、半生の振り返りを子狐の口で語る。

「小娘が独りで綺麗に生きていけるほど、世界は甘くない。なんで人間なんかに生まれてきたんだろうって。携帯獣が、羨ましくて仕方なかった。人生に絶望して、死のうとしてたら……救われたんだ。あのサーナイトに」

 ぬいぐるみのようにあどけない鼻面が、甘く潤んだ女の顔になる。
 アイラの鼓動も少し、速くなった。

「ひと……目惚れ?」
「一緒に暮らしてるうち、かな。本気で結ばれたいと思った。でもフラれた。人間の女に興味ないって。そんな理由じゃ、諦めきれなかった。逆に、燃えたよね。ヒトを捨てる研究がしたくて、犯罪組織の研究部門に潜りこんだり、よその最新技術を盗んだり。忙しくて、大変で、でも結構充実してた」
 
 苦労はあったが、苦痛ではなかった。

「やっと見通しが立ったと思ったら……彼の、本当の狙いを知った。彼が求めていたのは、歴史改変で滅亡する人類を選別して、まがりなりに生き残らせる手段だった。欲しいのはテクノロジーと科学者の頭脳で、あたしじゃない。あたしは感情任せに人体実験を強行して、記憶喪失の怪物に生まれ変わった」

 おわりは、はじまり。
 はじまりは、おわり。

 不運で不合理な、波乱に満ちた姉の盲目。
「まだ、愛してる?」
「まだ、愛してる」
 語尾の上がりと下がりを除いて、一致するこだま。
 引っ込みがつかない共感を、アイラは声の憂いに乗せた。 
「お姉ちゃんは、ずっとその姿のままなの?」

「あたしの研究は、戻らないためのものだよ」

 ゾロアが歳の差のある妹へ、毛むくじゃらの頬ずりをした。
「あんたの……」
「言わないで」 
 ゾロアは引かなかった。 
「実験方法は違うけど、記憶喪失の怪物はもうひとりいる。あんたのすぐ近くに」
「言わないでったら!」

 頭上で亀裂音がした。
 中空に、ひび割れが生じていた。
 空気が振動し始める。空間が真っ白な粒子で塗りつぶされていく。
「あの悪夢使いの干渉か……アイラ、聴け!」
 びくっとして、そむけていた灰色の瞳を腕の中のゾロアに恐々戻す。

「実験体のイーブイに移植したあたしの精神データは、まだ生きてる。“心”がリンクしてるから、あたしには分かる。あいつらはそのデータを使って、あの出来損ない……ゾロアークを作り直そうとしてる」
「あいつら?」

 仔狐の暗色が、白い粒子に包まれて消えていく。 

「お姉ちゃん!」
「あのヒールボールは制御装置じゃない。悪夢を増幅する装置だ。あたしとの接触は、人為的に引き起こされたんだ。あんたにとって悪夢に違いないね。しゃらくさいけど、オルデン・レインウィングスは評判以上の天才だ」
 
 信頼していた人物に、欺かれた。つまりそうことだ。
 アイラは消えゆく姉に気を取られて、実感が沁みてこなかった。

「でもおかげで、伝えたいことは伝えられた。これで、あたしは眠れる」
「待ってお姉ちゃん! まだ、話したい事が、たくさん……」
 アイラも、光に飲み込まれていく。

「“ここ”から帰ったら、彼に……パラディンに、あたしの恨みを晴らしてれよな!」
 女傑のごとく、ゾロアが笑った。



◆◇



 膜のかかったような、遠い声が聴こえてくる。
 何度も何度も、名前を呼ばれている。肩を揺すられている。 
 まぶたの隙間から、明るさが差し込む。寝室の照明が点いていた。

「アイラ!」

 筋骨のがっしりした両腕に、力強く包まれた。
 肩越しに、寝室のドアの陰に隠れているマンションのオーナーが見えた。
 中年女性の乾燥した手が心配そうに、マスターキーを掴んでいた。

 アイラのまどろんでいた意識が晴れてきた。
「私の部下は? どこなの」
 武骨な顔立ちを横から見る。自分を抱き締めているスーツ姿の大男は、父親だ。 
「オルデンの所だ」
「パパの仕業? レインウィングスさんを、そそのかしたの?」
 老ハーデリア=オハンが亡くなる前に、目を覚ましてくれなかった。
 自分の意識が戻ったとき、すぐに来てくれなかった。電話一本で済まされた。
 無断で国際警察の監視がついていると気付いたとき、取り合ってくれなかった。
 歴史改変のことも、金城湊を犠牲にしようとしていることも、秘密にされていた。
 部下とそのアシスタントが行方不明なのに、捜索の状況をまるで教えてくれない。
     
 胸板を突き飛ばして、体を離した。
「答えてよ! 大っ嫌い!」

 生半可な反抗期から、苛烈な振る舞いをしたのではない。
 愛娘を見つめる、頑ななジョージ・ロングの眼差しに抑揚がついた。

「あいつのことは、諦めろ」

レイコ ( 2018/10/15(月) 19:56 )