-7- ふたりぼっち
朝早くから探偵事務所を掃除していると、客が来た。クラウだ。
「急用で留守にします。退院日には必ず、戻りますから。アイラさんを頼みます」
退場が、逃げ足みたいな足の速さだった。俺の返事を聞く気なしだった。
午前中のうちに病室へ顔を出すと、イーブイの耳カチューシャをつけたジュペッタのタゥがいた。クラウのお願いで、警部補の世話や俺の手伝いをしに来たと言っていた。それは良いが、警部補に膝枕されるのはリラックスしすぎじゃないか?
「あなた、悪夢の力を気にして一度もヒールボールに戻ってないわよね。寝床を毎日探すのは大変でしょ。知り合いに、モンスターボールのエンジニアがいるの。相談したら、不安を取り除けるかもしれないと思って。どう?」
面白そうな職業だ。そんな知り合いがいたら楽しそうだ。
いや、それは今話す事ではなく。警部補は俺のトレーナーだ。判断は任せる。
三本指をサムズアップの形にする。
警部補が嬉しそうにすると、ピンクのペンダントも笑うみたいに優しく揺れた。
杖をついて歩けるまで回復した警部補の影の中に失礼して、病棟内の売店に行く。お菓子を買ってもらったタゥが喜んでいた。店員のおばちゃんはゴシップ大好きだから気をつけろと、クラウが言ってたっけな。
ドクター・ロビンの許可の出た外泊日まで、警部補は赤いマフラーとセットの赤い手袋を編んで過ごす気になっていた。手の寸法を測られる。さわられる感触がくすぐったくて、胸の中がぽかぽかと熱くなった。
「クラウの急用って何かしら。私が元気になってきたから、介助の息抜きだったりして」
それはない。あいつに限って、まさかそんな。
急いで手書きした俺の否定文を読むあいだ、警部補は瞬きしなかった。
「前に、私とクラウで話したことがあるんだけど、あなたの筆跡って……」
やっぱりなんでもない、と警部補が取り消した。
「前からといえば、あなたの青い眼。すごく綺麗な色だと思ってたの」
綺麗とか、やめろ! 恥ずかしい!
バイトの続きをしに事務所に戻ろうとすると、ジュペッタにしがみつかれた。
「雑用やから、俺の仕事おもんないで。警部補のお世話したりや」
「でもウチ探偵事務所、行ってみたいねん! バディやりたいねん!」
困ったやる気を代筆して見せると、警部補は微笑んだ。
「連れていってあげたら?」
そう言われたら、仕方ない。
るんるん歩くジュペッタの影にもぐって、事務所へのルートをナビしていると。
女の悲鳴!
場所は見通しの悪い公園だ。駆けつけると、その必要はなかった。若いカップルのじゃれ合いだった。ワークキャップがトレードマークの男子の頬に、痛そうな平手打ちの跡。「馬鹿リュート!」とカンカンになっているポニーテール女子の顔が赤い。
照れ隠しっぽいな。青春か。
俺には関係ない。そういえば、元人間の俺は何歳だったんだろう。
「なんやのあれ、事件ちゃうやん。しょーもなー」
「事件ちごたほうが、ええやんか」
俺が諭すと、タゥは俯いて少し黙った後に「うん」と頷いた。
「タゥは、なんで探偵に興味あんねん?」
「“名探偵ライチュウ”知らん? めっちゃええドラマやってん!」
知らんわー。
「それに……あんちゃんもウル姉も帰ってけえへん。留守番は飽き飽きやわ。ウチも探偵のバイトしたい! したい、したーい!」
寂しがりやねんな、タゥは。
事務所に着いて、パチリス所長にクラウの代理を容認してもらった。
キリンリキのキキリ先輩にはドラマの話が通じて、タゥと大盛り上がりだった。
「ウチ、ヒロイン役の子役ちゃんめっちゃ好き! めっちゃ可愛かった!」
「超分かるー! あたしはねー、リアルだと人間の女の子の足の匂いが好き!」
どういうトークだ、これ。
俺には俺の、大事な用件がある。
「所長。クラウが戻るまで休むとなると、バイトを続けるのは厳しいです。タゥは探偵業に興味があります。文字の読み書きは俺からも教えます。勝手を言いますが、やり甲斐を持ってくれると思います」
先輩の尻尾のシッポちゃんが聞きつけたみたいに、こちらを向いた。
小さな第二の脳が、俺の辞職を惜しんでくれているのだろうか。想像が過ぎるか。
所長はしんみりとして、俺の腕を優しく叩いた。
「分かった。ぎりぎりまで籍は残しておくよ。君が辞めたら、寂しくなるからね」
そう言ってくれてありがとう、所長。
◆◇
自宅に帰って翌朝まで過ごすことを外泊と呼ぶ病院の慣例はどうも、馴染めない。
徒歩で移動するついでに、警部補のやりたい事リストを消化していく。
部下のアシスタントと来たことがあるというカフェに、俺は影に潜って付き添った。女性受けのよさそうな、小綺麗な店だ。タゥは特製フルーツマラサダ、杖をテーブルに立てかけた警部補はホイップクリームが盛られたパンケーキを注文した。俺用に、警部補がマラサダをテイクアウトしてくれた。
総合スーパーにも立ち寄った。部下のお気に入りだというベーカリーも覗いた。袋一つに収まる買い物の量だった。目立ってはいけない俺に代わって、タゥが自宅マンションまで荷物を運んでくれる。
「少しだけ、遠回りしていい?」
急ぐ用事はない。警部補のリクエストは一つでも多く協力したい。
アルスロトロメリア市内にある自然公園の、並木道。
積もった雪で白い八分咲きのような枝の下を並んで歩いた。
「好き」
え!?
「桜の花。昔一度、見たきりだけど。ここは春の名所なんだって」
あ、ああ……あ……そ、そっちか。
自意識過剰な俺の顔は、たぶん赤い。影の中からバレてませんように。
「見頃になったら、みんなでピクニックに来たいわね」
賛成! とタゥが手を挙げる。俺も、できればその願いを、叶えてあげたい。
満足そうな警部補の頭に、枝から雪がぱらぱら振ってきた。警部補が手で払ったが、取りこぼしがある。周りに人はいない。今なら、影を抜け出せる。なるべく栗色の髪に触れないように、綺麗にしてあげた。
「ありがと」
笑顔が十倍くらい、魅力的に見えた。
おいおい、待て待て。今さらだがこの道、デートコース感ないか? ……ないか。
警部補の自宅に来るのは、これが二度目だ。マンションの内廊下より、暖房の効いていない室温のほうが冷えていた。警部補はベーカリーのドーナツをさっき買ったグッズでラッピングして、タゥへのお礼にプレゼントした。バイト先へのお土産ができたとタゥが喜んで、探偵事務所に戻っていった。
ふたりきりだ。
そ、それがどうした。
「このウェットフード、消費期限まだだけど食べる?」
警部補は高級そうな缶詰の中身を皿に盛りながら、備蓄の理由を教えてくれた。
「知り合いのブラッキーがね、グルメだったのよ」
缶詰は、今まで食ったポケモンフーズのなかで最高に美味かった。
好きなの見ていいわよと言われたので、テレビ番組のチャンネルを適当に変える。これを見たいというのが特に無い。杖を脇に置いて、警部補が編み物を始めた。タゥに似合う黄色いマフラーの続きだ。俺が手袋の後回しを頼んだから。
療養中のゆるやかな暮らしを、君はどう感じているんだろう。俺は、ポケモン・セラピーを果たせているんだろうか。クラウからは、入院前は仕事熱心な国際警察官だったと聞いている。忙殺されてない今の君もいいと思う。君のそばにいられる居心地良さで、自分が胡散臭い記憶喪失者で、厄介者の疫病神であるのを忘れそうになる。
夕飯は、牡蠣のアヒージョとブルーチーズのパスタ。
食後のデザートに、板チョコ。
「ちょっと、食べすぎちゃった」
ちょっとどころか……病院食のカロリー何日分だ?
風呂の支度をする警部補の手には、バブルバスの入浴剤が握られていた。
「覗かないと思うけど、覗いたら朝ご飯抜きよ」
覗かないに決まってる!
待ち時間が気まずくて、今晩の寝床を探しにいこうかと考えた。書き置きしてとんずらしたと思われたら、そっちのほうが誤魔化しが利かない。ああでもないとこうでもない。時間が無駄に経って、湯上りの良い香りが漂ってきた。ふらふらふらーっと頭がポンコツになりかけた。もこもこした淡いオレンジの、パーカーとズボンがセットになった部屋着の警部補。寝室のドアを開け放ち、見える位置でベッドに横になった格好が、無防備で……くそっ! 目のやり場に困るっちゅうねん!
「うちに泊まりなさい。今夜は、新月だから」
アホな動悸が、その瞬間に鎮まった。
知ってたのか。
知ってて半日も、一緒にいてくれたのか。
「改良してもらう代わりに、知り合いが出した条件を飲んだの。あなたの力が最も強まる夜に、データを取ること。性能が不十分だったら、悪夢を抑制できるモンスターボールとは言えないでしょ」
なんなんだ、その狂った条件は。
なんで、警部補が実験台にならないといけないんだ。
もし失敗作だったら、俺は君を地獄のような目に遭わせるんだぞ。
「悪い夢なら慣れっこよ。黙ってたけど、入院中よく見てたの。あなたと関係なくね」
そうだったのか……鈍感で、すまなかった。
だが、それとこれとは。警部補がよくても、俺がよくない。
「深刻な異常が起きたら、アフロが止めてくれるわ」
警部補が解放したモンスターボールから、チルットが出てきて警部補の肩に留まった。
「あなたが自分を悪い奴だと思ってるところ……部下に似てて、ほっとけないの。あなたは無害だと証明したい。私には『三日月の羽』を手に入れられそうもないけど、このヒールボールを試すことはできる。テストが上手くいかなくても、あなたが見せる悪夢なら、後悔しない」
そんな台詞、望んでない。
溺れているみたいに感情がもがく。どうしたらいい。
どうしろってんだ。人間時代の俺なら、どうする。教えてくれ。
どんなに問い詰めても、俺の心の深淵は、答えてくれなかった。
そこまで歩み寄ってくれる彼女に抗えるしたたかさを、持っていない。
言われたとおりにするしかない。
今からする事は、ささやかな抵抗ですらない、低俗な自棄だ。彼女の首に下がっているピンク色の綺麗なペンダントが、この部屋のふたりぼっちをひとりひとりへ分かつ前に。近づいて、真正面から覗き込んで、雨雲色の瞳を独占する。こんな無礼は、これが最初で最後にしないといけない。壊れやすい陶器のように、そっと彼女の右手を取り、握手とは違う意味で両手で包みこんだ。
肌と肌の隙間を埋める微熱に、文字にも声にもできなかった言葉を託した。
――おやすみ。