-2- ここにいない、誰か
建物の原型はこじんまりした居酒屋か何かだろう。縦長のワンルームをパーテーションで仕切り、飲食スペースを応接スペース、キッチン周りを休憩室兼物置きにしていた。小汚くて、ごちゃごちゃしている。
「アーロン、アベル、アダム、アドルフ、アルバート、アレックス、アルフ、アルフォンス、アルジャーノン、アラン、アンドリュー、アンディ、アンソニー、アーノルド、アーサー、バッカス、バーナビー、バーソロミュー……」
しっぽを枕にして、大滑車に寝そべっる、パチリス。
広げた人名辞典に鼻をくっつけるようにして、呪文みたいに読み上げていた。
「待って、Bを後三つまで……はい、よし! 初めまして。所長です。友達のタチ山からざっくりとですが、伺いました。記憶喪失者の身元を調べたいそうですね。ご依頼者さん、出てきて貰えますか」
仕方がない。
クラウの影から、生首をにょきっと生やした。
お化け屋敷で驚いた客のように、オタチが悲鳴をあげて腰を抜かした。
パチリス所長が笑って体を揺すると、座っている滑車もゆらゆら揺れた。
「傷を負って倒れていた幻のポケモン……かぐわしいミステリーの香りがするね」
探偵心をそそられた様子のコメントから、ついと現実的なトーンに移る。
「ところでご依頼者さん、報酬は払えるんですか?」
「今は無一文です。アルバイトに応募します。給与を依頼料に宛ててください」
「そうくるか。案外、世間慣れしてますね。採用テストは筆記とバトルですが?」
「筆記は大丈夫だと思いますが、バトルは……俺は、『技』が一つも使えません」
当たり前に技を使える三体が、一斉にぽかんとした。
はい! と、気を取り直したクラウが慌てて手を挙げる。
「僕、バディになります! バトルの特訓とか、色々フォローします」
白髪の被らない左側の青い目がにゅっと険悪になった。
「勝手を言うな、これ以上迷惑をかけたくない」
「だってあなたは、僕の知ってる人に、雰囲気が似てて……ほっとけないです!」
「そんな理由で、世話を焼くな。俺はどう見ても、厄介者の疫病神だぞ!」
自宅の居間で家族喧嘩でもしているかのように、どちらも言い分を譲らない。
「所長、ぼくからも頼むよ」
「タチ山まで?」
オタチから後押しを受けたパチリスが、考え中の腕組みを解いた。
「いいよ、採用。しばらくアルバイト見習いね」
とりあえずバディ結成、ということで、決着した。
パチリスが念を押した。
「ドクターには、病気や外傷が原因の逆行性健忘じゃなくて、精神的な理由の解離性健忘じゃないかって言われたんだよね? 身元調査が成功したら、君は故郷に帰れるかも。だけど、自分の過去と向き合う覚悟はある?」
「構いません」
行くあてのない記憶喪失者を、出て行かせる訳にいかない。
と、エルレイドのクラウから言われている。
気持ちはありがたいが、誰かを悪夢で苦しめる前に街を去りたいのだ。
パチリス所長がよれよれの雑誌を持ってきて、広げた。
「お給料じゃないけど、ナイスな情報をあげよう。これ見て」
根本の金から蛍光緑へのグラデーションが美しい。
くるりと弓なりになっている、神々しい羽毛の写真だった。
『三日月の羽』には、悪夢を振り払う力が秘められている。
「すごくレアだけど、すっごくたまーにこの街でも、すっごおおーい高値で取り引きされることがあるんだ」
両手でリアクション付きの所長に、タチ山が理論を発展させた。
「つまり持っておけば、悪夢をばらまく力を封じ込めるんじゃない?」
「すごい! ぜひ手に入れないと!」
街に引き止めたせいで、かえって気苦労を背負いこませたかもしれない。
という負い目が少なからずあったクラウが、身を乗り出した。
「俺たち、金がないんです。そんな物は買えません」
足元の影からシビアに突っこまれ、クラウの肩がしぼんだ。
表で物音がし、事務所のドアが蹴破られた勢いで開いた。
「ただいま。遅くなったー! 君たちが依頼者さん?」
買い物バックの持ち手を頭の角に引っかけた、キリンリキだ。
「ごめんねえ。お茶もお菓子も切らしてて、調達しに行ってたの。私は所長の助手のキキリ、よろしくね。あっシッポちゃん、噛み癖あるから気を付けて!」
嗅ぎ慣れないエルレイド達の匂いに、第二の脳を持つ尻尾が昂っている。
所長とタチ山が、どうどう、と落ち着かせようとしている。
部屋の片隅にばたばた追いやられた来客コンビが、声をひそめ合った。
「あの、すみません。急にバディとか……出しゃばって」
「いや……ありがとう」
にゅっと影から、黒い拳が現れた。
クラウはにっこりとして、緑の拳で小気味よくタッチした。
◆◇
帰り道の、暮れた空から降る粉雪はおさまっていた。俺とクラウは金策を話し合った。手始めに、ミロカロスの長春から『綺麗なウロコ』を譲ってもらい、レアアイテムを取りそろえる街の掘り出し物ショップに買い取ってもらうのはどうだろう。ライバル意識の強いエンペルトの雄黄色が、自分のこの美しい鋼鉄の羽の値打ちが分からないのか、と憤慨しそうだが、まあいい。
とにかく、今は金がない。
これから恩人を見舞うというのに、手土産の一つも買って行けない。
クラウから、自分のトレーナーは入院中で、長い眠りから覚めた後も原因不明の後遺症と戦っていると聞いた。失声と、足の不自由だそうだ。注意点も教えられた。肉親、特に父親の話題を振ってはいけないらしい。俺とその女性とは筆談で、簡単なやり取りならできると思う。助けてくれてありがとう、と伝えたい。
いよいよ、再会だ。
個室のドアをクラウがノックをしてから、ひらく。
極力、長居は慎みたい。
戸締りを確認してから、俺はクラウの影から浮き上がった。
ペンダントの、真珠大ヒールボール。あれに命を助けられた。部屋着の質素な淡灰ワンピース。なんとなく、目のやり場に困る。色白の肌と、赤い編みかけの手芸品。首筋が隠れるくらいの長さの栗色の髪は、ふんわり内側へ丸みがある。個室のベッドに脚を伸ばして座っているのは、高校生くらいの、美人なお嬢さんだった。
灰色の瞳。
あっ。
と、心の中で息がこぼれた。
目が、パンとはぜた気がした。
なんだ、これ。
俺の頬が、濡れている。
涙。
なんでだ。
後から後からあふれてきて、ぬぐう手の甲が追いつかない。
世界の輪郭が溶けている。この透明が止まらない理由を、俺は知らない。
これが本当に、自分か。お前は誰だ。錯乱しそうだ。暴れる前に部屋を去れ、急げ。
背を向けた途端に、危ない、とクラウの声がした。振り向くと、少女が身を乗り出して、ベッドから落ちそうになっていた。押し戻そうとするクラウの力に逆らっている。手の指が、固まっている俺に向かって、細い白い花びらのようにひらかれている。
考えるまでもなく引き返し、クラウを手伝った。
大人しく元の位置に座らせられた少女に、腕をぎゅっと捕まえられた。
距離が近い。どうかしてるぞ、俺。こんな状況で、照れそうになっていたら。
頭を抱き寄せられた。
顔に、予想だにしない柔らかさを食らう。
「ここに、いて」
たどたどしい声が、消え入りそうに潤んでいた。
雷に打たれてショートしたみたいだった思考回路が、その瞬間、戻った。違う。俺じゃない。本当に抱きしめたかった相手は、ここにいない他の誰か。離れていなくなろうとした俺の行動が、彼女の経験した苦痛と重なっただけだ。
この申し訳なさは、なんだ。人間時代の俺が反応している。
俺に、どんな過去が。俺の正体はなんなんだ。くそっ。
抱き返した腰が、折れそうに華奢だった。人肌が、信じられないくらい温かい。おいクラウ、彼女は喋れないんじゃなかったのか。声、出たじゃないか。嬉し泣きをこらえるな、思いっきりやれ。俺もこうなったら、開き直ってやる。号泣してやる。君の会いたかった奴じゃなくて、ごめんな。