-1- 記憶喪失
黒い浮遊霊のような体躯。逆立ってゆらめく白い頭髪。
前髪で顔の右側が隠れていた。左の瞳は、青い色をしている。
ダークライ。
暗黒ポケモン。
新月の夜に活動的になるといわれている。
深い眠りに誘い、恐ろしい夢を見せる能力を持つ。生態には謎が多い。
「医師が正しい。俺は危険な存在だ。助けてもらった恩を、あだで返したくない」
「でも、記憶喪失なんですよね。行くあてのないあなたを、出て行かせる訳には……」
首をひねるエルレイドの表情が、ぱあと明るくなる。外出用に青いマフラーを巻いた。
「いい考えが浮かびました!」
レンタルバトル施設、バトルネーソス。
今日は定休日なのか、という疑問に、先導するクラウが小声で説明した。ある事件でイメージダウンして、すっかり閑古ポッポが鳴くようになったのだ。警戒を緩めず、エルレイドの足元の影に潜ったまま、ついて行く。
「こんにちは、オーナーさん」
挨拶したクラウと同じ複合タイプの、修行僧のような見た目の携帯獣。
チャーレムが「ひっ」と青ざめて、植え込みに水をやっていた手を止める。
「なんだい、アシスタントさん。国際警察に逮捕されるようなことは、何も……」
「実は知り合いが、少し訳アリで。しばらくこちらに置いてもらえませんか?」
「いきなりそう言われても、ちょっと」
その頼み方は断られるだろう、と影の中から顛末に納得する。
クラウひとり、がっかりしていた。
気を取り直したクラウが、友達を紹介したいと言い出した。
暇そうな総合受付でボールをレンタルして、ひそひそしゃべりながら屋外へ。
「上手くいかなかったですね。僕の知ってるブラッキーさんは、匿ってもらえたんですが。さっきのチャーレムさん、亜人では初の就任なんですよ。でも、他にオーナーのなり手がいなかった、という理由が寂しいです。ヨガ教室が大成功した先生で、慈善家でもあるんです。昔ヤンチャして、警察にしぼられたらしくて。それで僕、苦手意識を持たれてるんですよね」
到着したバトルフィールドで、二球を開放した。
「よく来たクラウ! 父上は息災か? 保釈は!?」
「はしたないわ、そんなに急かして」
「紹介します。
雄黄さんと、
長春さんです」
高貴な風貌に三枚目の片鱗がちらつく皇帝鳥、エンペルト。
虹色に見え方が移ろう鱗を召した絶世の美魚、ミロカロス。
「こちらは僕の知り合いで……会ったこと、誰にも内緒にしてください」
前置きにつづいて、影から抜け出し、不吉な姿を実体化。
ふたりはわずかに驚いたきりで、パニックにはならなかった。
「すみません。新しい情報はないです。ミナトさんも、
留紺さんの行方も」
「いいのよクラウ、雄黄の話は気にしないで」
「あの不忠なヌオーのことなど、どうでもよい」
「留紺が黙っていなくなったのは、きっと考えがあったのよ」
ミロカロスに咎められたエンペルトが、むきになって怒り出す。
「ええい、分かっておるわ! 見よ、この荒れた毛艶、くすんだ翼を。ストレスは美容の大敵という父上の言葉は、真であった! 長春そなた、見目麗しさにて優位であると勘違いしておらぬか!? 傲慢であるぞ!」
「喧嘩は、ストーップ!」
クラウが腕を広げて、止めに入った。脱いだマフラーを畳んで置く。
「バトルで発散しましょう。僕、強くてかっこいい雄黄さんの胸、借りたいなー!」
「かっこいいとな? 何を分かり切ったことを……まあ、よい。参ろうぞ」
手合わせ、開始。
フォームを例えるなら、スピードスケート対フェンシング。誉め言葉に弱いエンペルトの強さは本物だった。速度で不利な陸上戦を『アクアジェット』の瞬発力でおぎないながら、抜群の切れ味を誇る翼でパワープレーを見せつける。一撃でも入れば、スリムなエルレイドの身体はひとたまりもない。緑色の肘刀は受け流すことに集中し、カウンターの小技でちまちまとダメージを稼いでいる。
「ごめんなさい。雄黄ったら自惚れ屋の気取り屋で、いつもああなの」
観戦していると、たおやかな声で話しかけてきた。近くで見ると、ますます美女だ。ミロカロスの波動はすさんだ心を鎮める、という話を聞いたことがある。バトルネーソスでは野生復帰が難しい前科ポケモンを保護し、レンタルバトルを通じて里親を募っている。穏やかそうな彼女にも、複雑な背景があるのだろう。
「父上というのは、親トレーナーか? 育成の腕がいいんだな」
「ええ。私たちのご主人様。そして私の初恋相手」
蠱惑的にきらめきが走る、不思議な鱗。
「……に、なりそうだったお方」
魔性だ。それも、天然の。
エルレイドの『剣の舞』の構え。予備動作には無駄がある。水技で妨害され、発動に失敗した。『研ぎ澄ます』のほうは、流れるような受け身にうまく組み込めていた。守りを捨てて、エンペルトの懐に飛び込む。ほとんど『がむしゃら』に、荒削りな格闘タイプの上級技『インファイト』をたたき込んだ。
ガードする『鋼の翼』が、急所必中の補助効果とタイプ相性のコンボに押し切られそうになる。拳のラッシュの一発が、腹にめり込んだ。肺のつまった濁り声がして、紺色の片ひざが地を捉えた。
「そこまで! そなた、腕を上げたな」
「まだまだ、敵いません」
気持ちの良い表情を浮かべ合う、雄黄とクラウ。
手合わせの終了を見届けた長春が、そっと耳打ちした。
「私たちは、ここを出られないから。クラウ達のこと、よろしくお願い」
プランAは没になった。しかし、プランBがぎりぎり生きている。
バトルネーソスから指定場所へ移動中、ちらほらと粉雪が舞いはじめた。アーケードの往来の中に、人間は一人もいない。店員を含め、全員ポケモンだ。大多数が亜人ではない。クラウのように無資格で人間社会に適合する者や、トレーナーのもとを離れて羽を伸ばしに来る手持ちポケモンが、入り混じっている。
「ここはジョインストリート。バトルネーソスのオーナーがシャッター街を買い取って、亜人に安く貸し出すようになってから、活気が戻ったんです。将来的に規模を拡大して、ポケモンタウン化する計画もあるそうですよ」
「オーナー、やり手だな」
と、影の中から返事があった。
「ひとりでぶつぶつ言ってる変な奴に、思われないか?」
「平気です。話しながらのほうが、楽しいですから」
「クラウ君、いいマフラーだね! 手編みかい?」
青果店店主のプクリンから、褒められた。
極上の手触りといわれる薄桃色の毛皮が寒さで膨らみ、ふかふかだった。
プクリンと笑顔で別れた後のクラウの表情が、ふっと沈む。
「何か、気になるのか」
勘の鋭い、影のなかの同伴者がささやいた。
「それが、さっき、すれ違ったコマタナが指名手配犯に似てた気が……」
「寄り道なら付き合うぞ」
「僕はアシスタントですから、介助に専念しないと。逮捕後の事務仕事はアイラさんの管轄なので、負担をかけたくありません。前に、失敗してしまって」
はあと吐いた息が、大きな白い雲になって、未練っぽくとどまった。
「気を抜くと仕事のこと、トレーニングやバトルのことを考えてしまうんです。キルリアの頃は、こんなにエネルギー持て余してなかったんですよ。格闘タイプのさがでしょうか。あ……また僕ばかり喋って」
「いい。聞き役のほうが楽だ」
尻尾で立ち上がって待っていたオタチが、手を振ってクラウを呼んだ。
「こっちこっち!」
日替わりメニューを書き込む店先の立て看板のような具合のブラックボードに、白いチョークで、探偵事務所、と書かれていた。商店の路地にねじ込むように建てられたボロ屋を、リノベーションせずに、使いまわしているらしい。傷やへこみの目立つドアに張られた悪筆な手作りポスターが、雑用アルバイトを募集していた。
「君から連絡もらってすぐ、話を通しておいたよ。入って」
オタチにドアを開けてもらい、ありがとうございますとクラウとその影が進む。