-11- 目が覚めたら
ジョージ・ロングロードを手始めに襲った一味はおそらく、ミナトとセレビィを引き離し、『シンクロ』の完成を妨害しようとしている。であれば黒幕は、この世界が時渡りにより上書きされたことを知る、人類滅亡をもくろむ森の護り神の信奉者であろう。
「予知を信じて捜査するような刑事は、この世界じゃ狂人扱いだ。おおっぴらに動けん。俺の同志はほんのひと握り、国際警察の上層部にはせいぜい二人だ。俺ぁまだクビになるわけにいかねえ。オルデンを味方に引き入れるのは、充分な証拠をそろえた後の予定だったが……そうも言ってられねえ」
歴史改変後のオルデン・レインウィングスは、警察への不信感が根強い。すべてロングの妄言だと一蹴されたならば、信頼を失い距離を置かれるだろう。打倒セレビィに必要不可欠なブレーンを、永久に失いかねない。
「俺は明日、街を出る。やることが山積みだ。お前に、真実を明かすのはまだ早いと思っていた。だが他に任せられる奴もいねえ。俺がミナトを人柱にすれば、アイラは殺人犯の娘になる。その時は、娘をよろしく頼む」
キズミは身体の中心が蒸し暑かった。しかし手足の末端は凍えている。喉は潤いを欲していた。ロング警部は、最初からそのつもりだったのか。そんな男の快気を、自分たちは呑気に望んでいたのか。正史で恋仲だったか何だか知らないが、自分ごときに、大切な父親が罪を犯したと知った少女の傷心を、癒せる訳がない。
「お嬢さんは、あなたを待っていた。その気持ちはどうなるんですか!」
十三年をかけて葛藤を克服した男の返答は、疲弊をにじませなかった。
「どうにもならねえ。お前は、俺みてえな人間になるなよ」
どう言われようと、ミナトを、死なせたくない。
被疑者の手持ちという責任を負わされ、“逃された”扱いでバトルネーソスに収容されている銀朱たちも、嘆き悲しむ。部下を一人犠牲にし、世界中の人命を守るという決断に至るまでロング警部の心情は、想像を絶する。非情なる覚悟の根源は、愛娘への切なる父性なのだろう。
警部補は、深く傷つくはずだ。
無論キズミは我が身の行いを棚上げにして、ロング警部を責められない。
断りなくクラウをコーチして、悪かった。祝い方が分からなくて、ミナトのように引っ越しを歓迎できなかった。レストロイ城で作った借りを、まだ見合うだけ返せていない。ディナークルーズでのドレスアップが綺麗だったと白状したら、どういう反応をされただろうか。
まっすぐで、努力家で、そんな警部補の心根が、眩しかった。
ロング警部は間違っている。
自分という赤の他人よりも、彼女に必要なのは、血の繋がった父親だ。
ミナトを生かし、父娘で幸せをつかめる方法が、必ずある。絶対に諦めない。
「せめて今夜は、お嬢さんのそばについてあげてください」
差し出がましいと思いながらも、頼まずにいられなかった。
ロングの個室を出て、自身が入院中の個室へと廊下を引き返す。
身内を犠牲にしない方法が簡単に思いつくなら、すでに警部が実践している。
焦っても好転しない。今、できることを考えるのだ。
力も、知恵も、何もかも弱小な自分に今、できるのは。
ウルスラを見つけ出し、連れ戻すことだ。
病院からの脱走を企てようとしながら、ふと感じた。
――その前にひと目、警部補に会いたい。
なにを、酔狂な。彼女は意識不明の患者だ。
部屋に戻り、ドアを閉めた後、カーテンの開いた窓辺へ向く。
夜の青い光のなかに、右腕の肘から先のない、隻腕の聖騎士が佇んでいた。
キズミは小さく息を飲む。
パラディン。
生きていたのか。
「私の死を偽装できたようで、何よりです」
心臓が、嫌な震え方をした。
取っ手に力をこめた。閉じたドアは揺れもしなかった。
「無駄です。ここはすでに、夢の檻」
「これも、『ドルミール』の指示か!?」
「アシスタントはカモフラージュです」
重力のようなサーナイトの瞳。キズミの碧眼を、引きずり込む。
「私は極秘に導入された亜人捜査官、第一号。コードネーム『ドルミール』」
市民権を取得した携帯獣こと、亜人は原則として公職に就任できない。国際警察暗部は複雑化した携帯獣犯罪に対抗すべく、違法性も辞さず、トレーという手綱のない人外生物を秘密裏に登用したのだ。
『催眠術』をかけたと気づかせることなく、標的の認識する現実世界を“仮想現実”へとすり替え、“夢”のなかの出来事を“現実”だと思い込ませるすべを熟練させた。『ドルミール』が架空の人物であることは、催眠リストに含まれているジョージ・ロングにもまだ悟られていない。
「目的は、なんだ」
おぞましさが骨の髄に殺到しながら、キズミは声を地の底にした。
サーナイトの口角に、透けた花びらのような、極薄の角度がついた。
「滅びる対象が無ければ滅亡もない。人間は、我々の同胞に生まれ変わるのです」
人間が存在する限り、憎むべき犯罪は生まれ続ける。
人間の思想に毒された犯罪ポケモンも、同様に。
森の護り神セレビィの企てる皆殺しには、崇高な哲学がない。
博愛と知性をそなえた善良な人間は、救済されるべきである。
「肝心なのは選別です。有徳の民のみが、犯罪なき理想郷に迎えられるのです」
愛情に飢えていたメギナ・ロングロードに取り入り、利用した。彼女は人間の肉体を捨てたい一心で研究に没頭した。イーブイの細胞を使った前臨床試験では、環境への高い順応性をもつ遺伝子が『夢の煙』からムシャーナへの進化条件である『月の石』、すなわち月の波動の影響を受け、細胞がブラッキー化した。
追試データを蓄積し、『夢の煙』でポケモンの細胞を“悪タイプ”に変質させる科学的方法の再現性を高めると、ポケモンからポケモンへの擬似的な転生実験を開始。実験台を眠らせ、『身代わり』の潜在力と夢エネルギーを融合した“分身”の一時的な実体化に成功した。
人間の精神をポケモンに移植する実験では、重大な夢エネルギー不足が発覚した。夢世界でウインディ=ファーストのデータ体内に封印された『C-ギア』を起動し、最もデータ数値の良好だった色素変異体のイーブイに逆流させる事で、起死回生を狙った。
しかし、実体化したブラッキーに移植したメギナの精神の定着率は一パーセントに満たなかった。人間の要素がまじわると、過去の出来事に関する記憶が著しく欠落する副作用が判明し、本体のイーブイと失敗作のブラッキーは凍結された。逆行性健忘の発症を抑える課題が残っていたが、メギナには時間がなかった。国際警察の捜索をかいくぐった潜伏先で、彼女は研究データを残さず消去し、自身に人体実験を強行した。
人間女性から転生したゾロアークは怪物だった。
人間時代の記憶ごと消滅したテクノロジーを取り戻すべく、パラディンの一味はロングロード親子に白羽の矢を立てた。メギナの憎んだ父を『催眠術』で昏睡させ、生き別れた妹のそばには、欠落前を模しつつ改竄した記憶を植えつけた色違いのブラッキーを解凍して配置し、二名をパターン別『ハイリンク』の被験者とした。
メギナの人格形成に深く関わった肉親が生み出す夢エネルギーを、夢エネルギーで出来ている黒狐に径口摂取させることで、記憶のネットワークをつなげる治療を試みた。ジョージ・ロングの数値は目標を大きく下回ったが、姉の精神の一部を持つブラッキーの『シンクロ』はアイラの精神に適合し、噛みちぎった少量の肉片でゾロアークを覚醒させた。
一方で作用が強すぎたため、ブラッキーを道連れに自爆するという暴走を招いた。イーブイ本体に保存されているメギナの記憶情報を培養してゾロアークを再作製するまでに、数か月を要する。
「時間を浪費できません。メギナの技術の再現は難航していますが、我々には新しい実験アプローチが残っています。善良な人間であるあなたには、ぜひ被験者になって頂かなければ。恐れることはありません。生まれ変わる時、記憶を喪失するのですから」
黙って聞いていたキズミの、慣れない縫合手術のような時間が終わる。
不格好なつぎはぎの意志に、破竹のごとく、血潮が通い出す。
何が、救済。何が理想郷。
体が発火しそうで、悔し涙が出そうだった。御高説はもういい。沢山だ。
警部補たちを傷つけた仇に、貸す耳はない。
「断る。そんなのは、俺たち刑事の仕事じゃない。この裏切り者!」
サーナイトの手の上に、アレストボールが現れた。
揺れ動いている。束縛をのがれようと、必死で内側から抵抗している。
ウルスラだ。キズミはぞわっと直感した。
「あなたの賛同を得たかった……残念です。キズミ・パーム・レスカさん」
意識が、無、に侵食されていく。
畜生。こんな所で、終われない。
◆◇
ラボに戦利品を持ち帰ると、サーナイトは熱烈な歓迎を受けた。
メギナという計画の要を失い、後釜に据えた研究者の名はシレネという。
「助かるわ。サンプルを調達してくれて。どんなデータが取れるか、楽しみ」
被検体を一瞥し、がたがた揺れているアレストボールに口づけた。
メギナの愛情は歪んでいたが、シレネの狂気に比べれば可愛いものである。
鼻歌でも歌うように、独り言を口ずさむ。
「私のエディ。可愛い坊や。上の子が死んだのは、か弱い人間だったせいよ。でもポケモンなら大丈夫。データ化して時を止めれば、不老不死も夢ではないわ。いつかオルデンを説得して、世界一のモンスターボールに入れて守ってあげる。待っててね。ママが必ず、研究を成功させるからね」
◆◇
「――良かった、気がついて」
ほっとした様子でそう言った彼の種族を、知っている。エルレイドだ。見ず知らずの自分を心配して、付き添ってくれていたのだろうか。目に飛び込んでくる情報は、どれも身に覚えがない。携帯獣用の医療ベッドに寝かされていた。カーテンで周りを囲まれている。どこかの病院か、医務室のようだ。
「僕はクラウ。国際警察官のアシスタントです。覚えていますか? 僕たちのこと。怪我をしていたあなたを、ヒールボールで保護した女の人の名前は、アイラさんといって――」
積もった雪の冷たさを、地肌に呼び起こされた。当時は朦朧としていたので、ぼんやりとなら思い出せる。このエルレイドは車椅子を押していた。車椅子に乗っていた人間の少女が、動けない自分を見つけて、首にかけていた物を外した。
それは、ピンク色のペンダントだった気がする。
「――アイラさん、二ヶ月も入院してて。外出許可が下りたのは最近なんです。散歩中にたまたまあなたを見つけ……しまった、忘れてた、お医者さん呼んできます!」
クラウがカーテンの向こうへすっ飛んでいった。
人を呼ぶならナースコールを押せばいいのに。
慌てん坊だが、心優しい奴なのだろう。
だんだん、頭がはっきりしてきた。
以前、どこかの研究施設にいた。
そうだ。
必ず戻る、と胸に湧き上がる意思に突き動かされて、脱走したのだ。でも、一体誰のもとへ。思い出せない。記憶が入り組んだ迷宮(ダンジョン)をさまよっているみたいだ。自分の本名も分からない。確かなことは一つだけある。しかしこんな話、信じてもらえないだろう。妄想だと疑われるくらいなら、公言しないほうが良い。
自分は元人間で。
目が覚めたら。
ポケモンになっていた。