NEAR◆◇MISS















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第八章
-4- ハイリンク
 訃報が届く、数日前。銀朱の実戦練習を見かけた。勇気を振りしぼり、留紺の胸を借りて恐怖の水技に立ち向かっていた。つい最近まで、ハーデリア流の『波乗り』から逃げ回っていたとは思えない。いざ離ればなれになると、愛の鞭の思い出は、成長の起爆剤へ昇華されたのだろう。
 どんな困難も、諦めず食らいつく。
 国際警察犬の志は、後進に託されたのだ。

 あなたは何も悪くないのだから、元気を出して。アイラは、育て屋の斡旋を悔やむキズミを説き伏せた。恨むどころか、短くても余生に希望を持たせてくれて、感謝している。たしかに、看取ることはできなかったけれど、安らかに天寿をまっとうしたのだ。厳しくも優しい祖父のような大切な相手との別れに、涙はいらないと言ったら、いらない。
 
◆◇ 

 ここは、どこ。 
 美しい桃色の霧のような、謎の気体が立ち込めている。右も左も分からない。アイラは手探り状態で、視界が晴れる終点を探していた。
 前方に現れた、頂上の見切れた影。近づくまではっきりしなかったが、二本の樹だった。白い幹と黒い幹がぐるぐると丈夫に巻きつき合い、巨人が綯った縄のようにそびえ立つ。
 規格外も度を越すと、少し気味が悪くなってきた。大樹に気をとられていると、何かにつまずいた。石や、段差などではなかった。
 ダッチェスだった。
 傷だらけで、ぐったりしている。全身を淡く覆う『月の光』の回復量が追いついていない。苦しそうに、小さな鳴き声をしぼり出した。テレパシーではないのに、意味が聞き取れる。

「……ただ逃げろと言っても、アンタの性格じゃ、聞かないだろ……アタシは記憶の欠落した、無自覚のスパイだったんだとさ……アルストロメリアに流れ着いたのも、アンタの親父がやられた現場に居合わせたのも……偶然じゃない」
 
 アイラの頭の中を、最悪のシナリオが駆けめぐる。悪い冗談はやめて、と威圧しかけた口をつぐんだ。混乱している暇があるなら、まともな止血の一つでも。

「ここは、“夢”が混線した精神世界……絆を深めた頃を見計らって、アンタと『ハイリンク』させるのが……奴らの狙いだったんだ。さっき、あのゾロアークがご丁寧に、ペラペラ教えてくれたよ」

 今晩の添い寝の温かさを、体全体が覚えている。普段はべたべたしないダッチェスが例外的に、ベッドにもぐり込んできたのだ。葬儀の疲れを態度でなぐさめてくれたから、寝つきの悪さを乗り越えられたというのに。

「気がはやって誘拐未遂を起こしたらしいけど、失敗してざまあないね。説明はもう充分だろ、分かったらすぐ、ここから……」
「見つけた」

 舞い込んだ悪女の声に、アイラは引きつった顔を上げる。鏡像より精巧な変装にめぐり会い、衝撃を受けた。特性イリュージョン。愉悦にひたる微笑を浮かべる、もう一人の自分。この姿でダッチェスを痛めつけたのかと思うと、燃えあがるような嫌悪の対象でしかない。武器となる爪や牙の本性は収納しているが、どっぷりと濡れたどす黒い手と口元を見せつけていた。

「随分待たせてくれたわね。覚えてる? あたしのこと。気を失ってたから無理よね。まあいいわ、暇つぶしにあの時の借りを返せたし」
「どういう意味」
 偽物は唇を舐め、答えた。
「にぶいわね? 隣部屋の彼、そのブラッキーと懇意でしょ。あんたを誘導するついでに、巻き込まれたってこと。ほら、『シンクロ』は体の距離が近いほどイイって言うじゃない」

 信じる価値もない。でも、万に一つの事が。私のせいで。この空間のどこかで酷い目に。嘘だと言って。生き写しの女の顔をしたたり落ちる赤い雫に向かって、アイラは胸の中で懇願した。

 化け狐の眼が生き生きする。
「いきなり喰い殺すのは……芸がないかしら。あんたは女だし、もっと別の遊び方がいいわよね?」
 ダッチェスが唸る。 
「アイラに近づくな、女ギツネ!」
「うるさい、メスネコ。実験台の分際で。用が済んだら八つ裂きにし――」
 『電光石火』の抵抗。 
 イリュージョンが解けた。
 噛みつき合った獣が二体、ころげ回る姿が霧状の不透明な気体にまぎれて見えなくなる。
 他に確かめるチャンスはない。アイラは地面についた血痕をたどり出す。逃げ出せなくてごめん、ダッチェス。一滴も見落とさないように、這いつくばるようにして進んだ。話が事実ならば。この先にもしかすると、彼が。
 いた。
 頭が真っ白になりそうだ。
 左脚がない。右の眼球も。
「……ただの悪い夢ですよ」
 寝言のような囁き声。風前の灯火で、痛覚が麻痺しているのだろうか。残った左の碧眼はまぶたの重さと戦いながら、絶望の淵に立たされたアイラを案じている。
「どこかに、出口があるはずです。俺にかまわず、急いで……目を覚まして下さい」
 傷に響かないよう、アイラは注意深く抱き起こす。愛する老犬の大往生と、青年が閉じる未来を一緒くたに出来るほど、自分は達観していない。先日、右頬に一生残る痕を作ったばかりだ。ひっきりなしの大怪我を棚上げにして、人の心配しないでよ。
 これがたとえ夢でも、あなたを失う思いはしたくない。
 胸に抱きしめた。
「そうね、ただの夢。現実の私なら、こんな事しないでしょ。目を覚ますのは、あなたのほうよ」
 どちらの体勢も、じっと動かなかった。間近で別々に響く鼓動を、全身を耳にして受け止める。髪についた汗の香りが、切ない感情に突き刺さった。どれだけ強く肌に触れていても、二人の心の一部は冷えたまま。自分の命より大切だ、と揃いも揃って同じ軸が拮抗していて。こんなにも、近くて遠い。

 突然、アイラの首すじを激痛が襲った。後ろに引きずりこまれる。駆けつけたダッチェスの絶叫とぶつかる振動がしたかと思うと、アイラは地面に投げ出された。倒れたまま、起き上がれない。破裂した水道管のように噴出が激しい。狐の牙は気道まで達していて、声も出せない。ダッチェス、『シンクロ』が使えるなら聞いて。もう助からない。私を守るのは諦めて、彼をつれて逃げて。
 これまで優位を崩さなかった敵が、だしぬけに膝から崩れ落ちた。頭痛に苦しみ、真紅のたてがみを掻きむしる。意識が薄れていくアイラの姿をおもむろに、虚ろな瞳に映した。
 
「アイラ……?」
 
 お姉ちゃん。
 十年越しの妹心が疼いた。
 どうして、その声が。
 似ても似つかない生き物の口から。
 
「副作用の記憶喪失……そういうことか。しっかりしろ! その傷が元で死んだら、ここから簡単に戻れなくなる。今、リンクを切るから」

 取り戻した人格がせわしなく、姉としての激励を言わせた。残された猶予は秒読み段階。困惑しているブラッキーに鋭い爪で掴みかかり、宣告する。悪いね、『シンクロ』の媒体。心中してもらうよ。もう片方の前肢に最大限の力を溜める。態勢は、ゼロ距離射撃の『ナイトバースト』を使った自爆。

「じゃあね。ここで起きた事は忘れなよ、アイラ」

◆◇

 ナースの騒ぎを聞きつけて、一人の男が病室に踏み込んだ。数日ぶりに意識が戻った入院患者が強い語気で、断片的に思い出せる悪夢の内容を口走っている。全身に包帯を巻いたラルトスが率先してなだめようとしているが、少女とブラッキーについて聞かれると返事をにごすので、火に油を注いでいた。

「落ち着け、キズミ」

 乱暴にベッドから降りようとする動きが、止まった。誰の静止も聞き入れなかった患者の青い双眸が、その一言で、医師でもない男に吸い寄せられる。これは夢の続きかと問いたげな、半信半疑の口調で呼び返した。

「ロング警部」   

レイコ ( 2017/10/12(木) 20:18 )