-9- ハイリンク
アイラはオハンの最期を看取れなかった。
自分が育て屋を斡旋したせいだ。自分がふたりを引き離したせいだ。また、しくじった。よかれと思ったことが、いつも裏目に出る。後悔しても、しきれない。
顔に出さないキズミの辛さを、察して、アイラは気丈に振舞った。
最期を看取ることは叶わなかったけれども。
オハンは長生きして、温かな居場所で、穏やかに寿命を迎えた。仕事上出くわす羽目が多い、多くの事故や事件のような悲劇的な結末ではなかった。だから、不必要に嘆かなくていい。嘆く理由が乏しい。と、アイラは気を張っていた。葬儀を終えて自宅に戻ると、喪服のままベッドに突っ伏した。
枕に顔面を押し付けて、ようやく泣けるとしばらく待った。
しかし、涙は出てこない。
手持ち無沙汰になり、隣部屋の、部下のことを考えた。彼は今回の件で相当自分を責めているらしい。色違いのブラッキー=ダッチェスには、自分より彼のほうを見てあげてと頼んだ。
泣けない。どうしても。
だったら、切り替えて眠らなくては。明日も仕事がある。暗い寝室。一人きりの深夜。耳鳴りがする。アシスタントのエルレイドも、愛竜のフライゴンもここにはいない。寂しさが大きすぎると感覚が麻痺して、それは、何も感じないのと同じ気持ちなのかもしれない。
◆◇
ここは、どこ。
美しい桃色の、霧のような気体が立ち込めている。
アイラは手を前に突き出しながら、視界が晴れる終点を探した。
徐々に、頂上の見切れるほど巨大なシルエットが前方に浮かび上がってきた。どうやら、巨大な樹だ。白い幹と黒い幹が頑丈な縄のように巻きつき合い、二対で一本の塔のような幹を作り上げている。
不思議な樹に気をとられていると、何かにつまずきかけた。
血まみれのダッチェスだった。
「アイラだね……アタシを助ける価値はないよ。アタシは記憶のない、無自覚のスパイだったんだとさ……アルストロメリアに流れ着いたのも、アンタの親父がやられた現場に居合わせたのも……偶然じゃない」
荒い呼吸で途切れがちな発音はテレパシーではなく、肉声だ。
「ここは、“夢”が混線した精神世界……絆を深めた頃を見計らって、アンタと『ハイリンク』させるのが……連中の狙い、だったんだ。アンタの誘拐は、あのゾロアークの独断ミス、だとさ」
「ま、待って。話がよく…… それより、止血を……」
傷口に触れようとしたアイラを、ダッチェスがたしなめた。
「聞きな。ここは危険だ、早く……」
「見つけた」
突如舞い込んだ、艶のある悪女の声。
アイラは息を呑み、ダッチェスが敵意を剥きだした。
「アイラに近づくな、この雌ギツネ!」
「うるさい、ドブネコ。実験台の分際で」
愉悦にひたる微笑を浮かべた、もう一人のアイラだった。特性イリュージョン。爪と牙の本性を隠した手と口元が、おぞましい色で汚れている。鏡像よりも精巧なこの変装姿で、ダッチェスを痛めつけたのかと思うと、本物のアイラは嫌悪感で身震いを催した。
「にしても待ちくたびれたわ。暇つぶしに、借りを返せたけど」
「どういう意味」
本物は、父を襲った一味の一員でもあるその女を睨みつけた。
偽物がせせら笑った。
「覚えてない? そういえばさらう時、あんたは気絶してたかしら。隣人くん、そのドブネコの同居人でしょ。『シンクロ』は体の距離が近いほどイイって言うじゃない? あんたのついでに、“こっち”に巻き込まれたってこと」
嘘だと言って。
赤い筋がしたたる自分と同じ顔を見張り、アイラは声なき懇願をした。
偽物の灰眼が、邪悪に興奮する。
その不意をついた。
ダッチェスは手負いの身体に鞭打ち『電光石火』を食らわせた。
イリュージョンが解けた。
二体は激しく転がり、不透明な気体の奥に飲み込まれていった。
ごめんダッチェス。今は、私だけ逃げられない。
アイラは心のなかで謝りながら、化け狐の来た道をたどった。
這いつくばるほど膝をかがめ、血痕を見失わないよう進む。
そして、最後まで信じたくなかったその瞬間が訪れた。
キズミ・パーム・レスカが、血溜まりに倒れている。
左脚がない。右の眼球も。
痺れるほどのこわばりを手に覚えながら、アイラは抱き起こした。
熱で喉が爛れたような掠れ声が、胸より近い真下から聞こえてくる。
「ただの……悪い夢です」
弱々しく開かれた片目は、青いゆらめきを宿していた。
「俺にかまわず。さっさと、目を……覚まして下さい」
ぶつけ先のない動揺が湧き上がり、アイラの息を締め上げる。
バカ。バカ。本当に、バカ。
どうして他人の心配ができるのよ。
こんな時くらい、自分のことを一番に考えてよ。
しかし振り絞りたい糾弾をこらえて、優しい同意を選んだ。
「そうね。これは、ただの夢」
アイラは、ぎゅっと抱きしめた。
「現実の私なら、こんな事しないでしょ。目を覚ますのは、あなたが先よ」
間近で別々に響く鼓動を、全身を耳にして受け止める。人肌に触れ合いながらも、互いの心の一部は現実を見据えて冷えたままだ。決してぶれない平行線。こんなにも、近くて遠い。
アイラのうなじを鋭い痛みが襲った。ダッチェスの叫びと体当たりの振動で、鋭利な食い込みが外れて地面に投げ出された。アイラは手で噛み傷を押さえたが、流れ出る勢いが強すぎる。このペースはもう助からない。届いて、ねえ聞いて、私を守るのは諦めて、せめて彼をつれて逃げて。血が抜けていくごとに寒気が増していくなか、アイラは懸命にダッチェスの『シンクロ』に呼びかけた。
すると何故か、突然ゾロアークが苦悶を浮かべて膝から崩れた。
頭痛にもだえてたてがみを掻きむしり、口の端に泡を吹いている。
首に致命傷を負った灰眼の少女を、おもむろに、虚ろな瞳に映した。
「え……アイラ……?」
朦朧としながらも、アイラの内なる妹の耳は確かに疼いた。
自分の名を呼んだ姉の声を、聞き間違えるはずがなかった。
虚ろだった瞳が、はっきりと瞳孔の輪郭を定めた。
「副作用の記憶喪失……把握したよ。しっかり! 今、リンクを切る!」
化け狐が、状況を飲み込めないブラッキーに飛びかかり、押さえ込む。
「悪いね、『シンクロ』の媒体。道連れさせてもらうよ」
両手に『ナイトバースト』の力を溜める。
自爆の寸前。
姉の人格は妹を流し目に見やり、別れを告げた。
「じゃあね。ここで起きた事は、忘れてしまいな」
◆◇
騒ぎを聞きつけて、杖をついた男が病室に踏み込んだ。
十日ぶりに目覚めた患者は声を荒げて、看護師に悪夢の内容を訴えている。
「落ち着け、キズミ」
名を呼ばれると、ベッドから降りようとする動きを止めた。
驚きと困惑の青い双眸が、杖の男に吸い寄せられる。
まさか夢の続きではないか、と、青年は半信半疑に呼び返した。
「ロング警部……」