-7- 泣き上戸
アパートの一室で、大量失血した男性の遺体が発見された。そばに横たわっていた携帯獣の死因は、血液の誤嚥による窒息死。現場の状況から、食害事件とみられている。
生前の被害男性と、キズミとミナトは一度だけの面識があった。
日常的に血液をパートナーポケモンに給餌していた形跡が腕にあり、条例違反で厳重注意した。あの時、もっと強い危機感を喚起できていれば。未然に自分たち警察が防げた悲劇ではないだろうか。キズミは被害者たちの死を悼んだ。明日挙式の予定だった被害者の元婚約者についても、不憫に思った。
ミナトは条例違反者に、そこまで同情しない。警察の忠告を聞かないのがまず悪い。肉体だろうと魂だろうと、人間の味を覚えさせる愛情表現はまずい。パートナーポケモンの独占欲をエスカレートさせる。おそらく、無理心中を強いられたのだ。元婚約者については、立ち直って良い男を見つけてほしいと思う。
給湯室で気を落としているキズミに、ミナトが訊いた。
「ウルスラは今日、ジョイン・ストリートの懇親会だっけ」
「ああ、タチ山さん主催の。夕方には帰ると言っていた」
「じゃあ今、お前んちにダッチェスひとりか。暇だろーなー」
昨晩、育て屋ランドのもとから色違いのブラッキー=ダッチェスが戻った。同じ特性『シンクロ』でも、訓練を受けた特定の国際警察官をサポートする能力と、大多数の中から特定の波長を絞り込む能力は、専門性が棲み分けされている。ダッチェスはサーチ能力に特化して経験値を積んだ。あとは実戦経験を積めば、ジョージ・ロングロードを襲った一味の逮捕に近づける。期待の捜査協力者だ。
「キズミ、ダッチェスを手持ちに入れないのか?」
「俺は……頼める立場じゃない。向こうも望んでない」
「そう決めつけんなよなぁ。案外、勧誘待ちだったりして」
データ上、ラルトスという種族の平均戦闘力はキャタピーと同レベル。だが賭けてもいい。ウルスラを戦わせる恐怖。ウルスラの代わりに、他のポケモンを戦わせる不安。誰も傷つけたり、失ったりしたくない。そういった心の傷に囚われたままでは、近いうちに、キズミは国際警察官として立ち行かなくなる。
「こうしようぜ。オレ、お前に仕事で銀朱たちをもう貸さねえ。アイラの身辺警護もやめる。防犯ボランティアだったしな。考え直してほしけりゃ、手持ちになってくれってダッチェス口説け。で、三回フラれてこい。よーし、決まり!」
キズミが焦った。
「待ちや。誘拐犯はあれきりやし、打ち切りは警部補の希望やけど、タイミングが……」
「心配すんな。お膳立てはまかせろ。今度みんなでスキー場行こうぜ。楽しみだスノボ!」
「そういうのは喜ばないと思うぞ、ダッチェス」
「ネーソスもいいな。派手にぶつかろうぜ、オレの水さばきとお前の炎さばき!」
「話を聞けよ、ミナト」
◆◇
市内最大の橋を電飾で幻想的に演出する、年に一度のライトイベント。
橋のたもとは寒さに身を寄せ合うカップルを中心に混雑していた。思い通りになるなら、大切な人とふたりで訪れたかった。今夜も残業が長引くであろう彼を、ラルトス=ウルスラは強く心に浮かべるにつれて、孤独感が浮き彫りになる。人々の足を縫うミネズミたちは景色に目もくれない。落ちた食べカスを探している。花より団子な野生が、ポケモン本来の姿。そんな気まで、して来る。美しいものに感動する心に種族なんて関係ない。そう信じたかったのに。
懇親会を終えて、勢いで、ひとりで立ち寄ったのは失敗だった。
こんな、どん底の気持ちで帰りたくない。
とぼとぼと路地に逸れると、膝を抱えて座り込んだ。
羽音がして、オニドリルがV字型にヒュッと横切った。
背中から飛び降りてきた色違いのブラッキーが、しゃなりと目の前に立つ。
「こんなとこで油売ってたのかい、ウルスラ」
ダッチェスだった。
「『シンクロ』のサーチ能力ってのは、使いもんになるね。小腹すいたから、アンタを連れ戻しに来たのさ。ところで」
ふんふん、と匂いをかぐ。
「酒と煙草かい」
「いえ!」
ひっく、とウルスラの口から大きなしゃっくりが出た。
「お煙草はマフォクシーさんにすすめられましたけれど、お断りしましたわ。お酒といっても、タチ山さんからワインに浸けたリンゴのコンポートを少々、頂いてだけで……ですから、決して飲みすぎでは」
早口で力説するラルトスの白い肌は、淡くピンクがかっている。
ダッチェスは「ふーん。下戸だねえ」と金色の目を細めた。
「キズミが帰る前に、その顔は冷ましたほうがいいね。心配性で面倒くさいだろ、アイツ」
「キズミ様」
カチッと錠前をあける鍵音のように。
ウルスラが小さく、意中の男の名を唱えた。
「一緒に見ましたわよね、お昼のニュースで報じられていた……食害事件」
「それがどうかした?」
「殺すつもりは、なかったのかもしれません。愛を抑えきれず、暴走して……」
「アンタ、殺人犯と自分を重ねるつもりかい」
金目がじっと睨む。
潤んでいく赤い瞳は、黄緑の前髪で隠れていた。
「わたくし、すでにキズミ様を『シンクロ』の重い副作用で、苦しめていますのよ。それにわたくしのサイコパワーは、人間の命を簡単に奪えますわ。わたくしも血迷ったら、キズミ様を……」
「やっぱり酔ってるよ、アンタ」
「キズミ様は!」
カッと語気が激しくなった。
「あのお方は、アイラ様に尽くしておられますわ。アレストボールの件もそうですわ。敬愛するオルデン様に技術力で挑むなど、ありえないことですもの。アイラ様のために、ご自分を奮い立たせて」
呼吸が乱れ、またしゃっくりが出た。
グズグズと鼻がつまってきた。
「アイラ様へのご贔屓は、はじめのうちは共感が大きかったのでしょう。キズミ様は幼くして、天涯孤独になられたそうですもの。ですが、それだけではなくなっていったのですわ。わたくしには分かります。たとえキズミ様がお心に鍵をかけていようと、感じてしまうのですわ」
鼻をすすった音が汚らしくて、ウルスラはますます惨めな気分に陥った。
「アイラ様は、随分とご寛容になられましたわ。わたくしのこと、プライベートではお友達のように扱ってくれますのよ。でも……」
ひく、ひくっ、と息を引いて飲む拍子に、細く小さな白い腕の付け根を震わせる。
「キズミ様のお力になれず、アイラ様を羨んで、こんな、言い方は悪いですけど、飼い殺しの生活が続くのなら、いっそのこと、ダッチェスさんのような……モンスターボールに縛られない生き方を、してみたい。でも無理ですわ。わたくしに、ひとりで野性で生きるノウハウはありません。亜人の皆さんとお話して、思いましたの。わたくしは価値観ばかりが人間の、ただの人間かぶれですわ」
ダッチェスは、黙って聴いている。
ウルスラは手でまぶたを押さえ、口走った。
「ラルトスなんかに、生まれてこなければ」
音として耳へ還元される、自分の言葉。
どんな鋭利な飛び道具よりも、胸を抉られた。
「わたくしが人間だったら、キズミ様は振り向いて……いいえ、違いますわよね。アシスタントだから、おそばにおいて下さるのですわ。わたくしが人間だったなら、叶うことのなかった出会いですわ」
ダッチェスが、ぺろりと赤い角を軽く舐めた。
ウルスラは、黒く艶やかな短い被毛の胸に顔をうずめた。
「でもやっぱり、やっぱり、恨めしくて」
温かい体に、ぎゅっとしがみつく。
雫が後から後から、目から溢れて、止まらない。
しゃくり上げる背中を、尻尾で抱きながら。
ダッチェスが、溜め息まじりに呟いた。
「家出……すれば?」