不穏を以て進む日常
マーガレット側からの答え合わせはなく、彼女はハルモニアに記憶がないことを知ってから去ってしまった。結局、ハルモニアもフリストも、ハルモニアが英雄ハルモニアなのかは分からなかった。今のところ、真実を知っているのはマーガレット=ロイフォードと神様のみである。
「ハルは……いいの?」
「何がよ」
赤く染まる夕日に照らされた二人。
「何がって……その、よくわかんないけどさ」
フリストは目を泳がせて、しかし選択肢すら作れない状況で思考を回す。
「私が、ね……マーガレットさんにハルモニアっていう名前だってばらしたこと?」
「それもそうだけど、まだハルは……古代の英雄のハルモニアと同じだって決まったわけじゃないんだよ?」
「名前が一字一句一緒で種族も一緒。おまけに英雄ハルモニアはポケモンに転生したって説もあるし、私はその転生したとされるピカチュウよ。一緒でいいんじゃないかしら」
「まだ決定的な証拠があるわけじゃないんだよ? 99パーセントなんて0パーセントとそんなに変わらないよっ」
「別にいいわよ。それに私が英雄だからってなんだっていうの? 何も変わりはしないでしょ」
「でも……」フリストは納得いかないとばかり歯噛みした。ハルモニアは、死体を蹴り上げるように畳みかける。
「私はね、フリスト。据わりがよければいいのよ、この件は。私は古代の英雄ハルモニア。それで納得してるの。正体不明の存在なんて、得たいが知れなくて気持ち悪いでしょ」
「そっか……ハルがいいなら、別にいいけど」
と、言葉とは裏腹にフリストは晴れない表情を見せた。
「あっ、でもさ」と、唐突。ふと浮かんだ疑問を投げかける。「英雄のハルモニアはさ、ポケモンの技が効かないんだよ?」
「っ――――」失念していた。見事に言いくるめられ、ハルモニアは絶句する。
技、とはエネルギーの跳躍である、という説が提唱されている。
ポケモンの中に潜むエネルギーを、放出し、攻撃する。それが火炎放射やハイドロポンプになる、というものだ。だから、“体当たり”という技を覚えていない者が、敵にぶつかっていってもそれは“体当たり”ではなく、ただぶつかるという行為であると考えられている。“体当たり”を行うにはエネルギーを“体当たり”という形にする技術が必要であるというわけだ
技が効かない、ということはつまり、そのエネルギーを弾き飛ばすことができる、ということである。フェアリータイプのポケモンがドラゴンタイプの技を受けないのは、その肌に技が触れた瞬間にエネルギーが弾け飛び、散らばるためである。同じように、ハルモニアがポケモンの技を受けないのは肌に触れる瞬間にポケモンのエネルギーを散らしているためであるという。歴史学者は、英雄ハルモニアについて述べる際、誰しもがこの論述を行っている。
ハルモニアは――――残念ながら、ポケモンの技を散らすことはできない。
夏休みも中盤に差し掛かったある日。ハルモニアとフリストが依頼をこなそうと村の広場に向かうと、リールとシンと鉢合わせた。
「よぉ、二人とも」
「げっ」目を合わせた瞬間にハルモニアが渋面を作る。
「なんだよ、げっとはご挨拶だな」
「当たり前でしょ。なんで何十日も休みがあるのにアンタらに会わなくちゃいけないのよ」渋面を崩すことなく答えるハルモニア。フリストは苦笑いぎみにまぁまぁと取り成すが、リールはそんなことには構わなかった。
「ところでさ、お前たち怖い話って興味ないか?」
「なによ、怪談?」
言ってすぐに、ハルモニアは隣でフリストが表情を硬くしたのを感じた。
「いやさ、最近出るらしいんだよ。学校に」と、シン。
「えっ、何が?」
フリストは少し声を上ずらせた。なるほど、こういった話は苦手なのだろう。対するハルモニアは超常現象は須らくゴーストタイプやエスパータイプのポケモンの仕業と思っているので、そもそも案ずることはない。それを知ってか知らずか、シンはハルモニアを重点的に怖がらせようと、その顔を見上げながら話し始めた。
「幽霊に決まってんだろ。なんでも、草木も眠る丑三つ時だったかな……そのころに学校の中を歩いてると、『暑いよぉ……』って声がな」その語りは、途中でフリストが「ヒッ」と小さく声を上げる程度には迫力が感じられた。「で……そこで後ろを向くと、な。無数の人魂が……ばぁぁ! っと」「ひゃああっ!」ばぁぁ、の部分をシンが言った瞬間に、フリストは飛び跳ねて逃げ出した。
「フリスト!?」「あっ……なんだよ、根性なしだなー」ハルモニアが止める間もなく、元来た道をフリストは爆走し、背中を隠す。
「知らなかったぜ。アイツ、ああいうの苦手なんだな」
いい弱点を見つけたとばかりににやりと笑うリール。ハルモニアは、彼女が去った方向をじっと見つめている。その表情がなんだか悲痛であることに、後頭部越しに気付いたのはリールだった。
「ハルモニア、どうした?」
「……なんでもないわ。追いかけてくる」ハルモニアは、短く言ってフリストの後を追った。
フリスト=ウェルクライムはこと逃げ足にかけては穏和村一である。毎日村の誰かしらに悪戯を仕掛ける身なのだから、当然ではあるのかもしれない。しかし、それを追いかけさせられる側はたまったものではない。ハルモニアは毎日フリストを追って回すポケモンを見ては大変だなぁと思っていたのだが、今回でその苦労を実感させられた。
少し背中が見えたのもつかの間、彼女は木立の中に入っていって一瞬で見えなくなった。そのまま彼女はフリストを見失ってしまった。探し回っても見つからない。家に帰ったかと思ったが、彼女の住処である村長老人の家を訪ねてもいなかった。ハルモニアが歩き回っていると、村の隅っこで謎の建物と出くわした。古びた鉄製のドアに、「この中、入るべからず」と書かれている。まさかこの先か? とドアに手をかけこじ開けるハルモニア。ぎいいい、と耳障りな音をたて、その先を見てみる。一寸先は闇を絵に表したかのような真っ黒が目の前に広がっている。怖い話をされた矢先にこんな場所に飛び込むわけもないだろうと判断したハルモニアはドアを閉め、周囲を見渡してさっさとこの場を立ち去ろうとした。
そこで足元に目を落とした彼女は、黒い粉末があたりに散らばっていることにようやく気付いた。鉄粉のようなものが足について黒くなっている。ハルモニアは顔をしかめて舌打ちした。
さて、結局フリストは見つからず、困り果てたハルモニアは、その日の活動を諦めてガルーラカフェで時間を潰すことにしたのだった。
そう思い立ってカフェに向かったハルモニアは、オオホリと出くわした。
「おや、ハルモニアさん。こんにちは」
「あ、こ、こんにちは……お出かけですか?」そういえば、ここ数日姿を見かけなかったような気がする。とはいえ、会ったところで調査団の活動の様子を聞かれるだけなのであまり気にしてはいなかった。
「いえ、そろそろこの村を離れようかと思ってましてねぇ」
「えっ……行っちゃうんですか?」少しの絶句を置いて、ハルモニアはオオホリを見上げた。
「ええ。この地以外にも仕事がありますからねぇ。穏和村は良い場所ですので名残惜しいものですが……またいつか、あなたたちが念願の調査団に入ったころにでもお会いしましょう。ところでフリストさんの方は?」
「フリストは……」ハルモニアは少し口ごもった。お化けの話に怖がって逃げ出した、と言ってもいいのだが、逐一説明するのも面倒くさい。「知らないわ。どっかに行ってるみたい」とだけ返しておいた。
「そうですか。でしたら、彼女にもよろしくお伝えください。それでは」
爽やかな笑みを残して、オオホリはふらふらとカフェから出ていった。一旦転んで、また立ち上がって歩き出す。
ハルモニアは、バッグからガジェットを取り出してしばしの間それを見つめていた。
学校に幽霊が出る――――真夜中に学校にいると、暑いよぉ、と声が聞こえる。それ自体は単なる怪談で終わらせられるかもしれないが、学校の教員ともなると話は別である。声が聞こえること自体が異常であるし、そもそもそのような噂が流れるということは誰かが真夜中の学校に入り込んでいるということだ。どうせ生徒の誰かであろうが、それでも用もなく休みの学校に無断でくるということが問題である。というわけで、穏和村学校では教員同士で夜間に見回りをしようということに相成った。今日の担当は教頭先生。当然のことながら辛そうである。眠気を隠そうともせずに職員室の椅子にドカッと座っている。見回りなど一切する気もなさそうで、陽が登り始めるころにはカフェに行ってシェイクでも頼もうかなどと考えていた。
そんな彼が少しくらいは職務をこなそうとふらふら職員室から出たときだった。
「あー、まだですかねぇ夜明けは。全く、月時計があった実家に戻りたいもんですよ」
「……」
「ん?」
後ろからぼそっと何かが聞こえたかと思い振り向く教頭先生。特に何も見当たらない。だが、何かが聞こえるのは変わらない。
「……暑いよぉ」
「なっ」
前もって聞かされていたあの声が、今度ははっきりと耳に入ってきて、教頭先生の目の前が真っ白になった。恐怖を振り払って周囲を見渡す。変わったモノは何も見つからない。しかし、それがより一層の恐怖を際立たせている。自分の頭を銀の針のボウガンで狙われていると知りながら、しかしその狙撃手がどこにいるのか分からないような、そんな恐怖。
「暑いよぉ」
暗いだけの学校の夜空教室にまた声が響き渡る。今度は、はっきりと後ろから聞こえてきた。さっと振り返った教頭先生の目に映ったのは――――。
穏和村の闇夜をつんざく悲鳴が響き渡った。
その次の日、マサムネ先生が出勤すると、仰向けにひっくり返った教頭先生が見つかった。
「教頭先生……教頭先生!? どうされました!?」
駆け寄って、まずは彼の手首に翼を当てる。脈はある。だが、揺さぶっても起きない。有能ではないが、真面目な性格の彼なので酒を飲んだとは考えづらい。外傷も見当たらない。命に別状はないようだが、このままにしておくわけにもいかずにマサムネ先生があたふたしていると、直後に保険医でタブンネのピール先生が出勤してきた。
教頭先生を、ピールの指示で保健室に運び込んでベッドに寝かせた。マサムネ先生が雲母山の見回りを終え戻ってくると、教頭先生は目を覚ましていた。
「教頭先生、大丈夫ですか?」
「え、ええ……申し訳ない、私としたことが」
「いえいえ、何事もなかったようでなによりです。ところでどうされたんですか」
ピールが見当たらないと思ったら、バケツに川の水を汲んできていた。教頭先生はそれで顔を洗い、覚えていることだけを話した。
「いえ、見回り中に例の声を聞きまして……それで声のする方を見ると……ええと」
「忘れちゃったんですか?」
「いえ、忘れては……そうだ、何か炎が見えたんです。それで、その後おぞましいものが……あれ、何だっけ」
「そこで気絶なされた、というわけですか」
「そうですね……」
幸か不幸か、教頭先生が巡回中に幽霊を見て気絶したという話は半日もせずに村中に広まった。学校では本格的に対策を打とうという話になり、夜間の見回りも二人一組で行うことになった。その日の担当はマサムネとピール。日が落ちて、教室に誰もいないことを確認して保健室に入る。
「お茶、飲みますか?」
「ん、ええ。緑茶で」
穏やかな笑顔のピールに対し、素っ気ない対応のマサムネ。ピールは川から汲んできた水を火にかけている。
「紅茶は飲まれないんですか? 美味しいですよ」
「いえ、私は……紅茶の味はどうも苦手で」
「そうですか、残念。……あ」
「どうされました?」
「お茶っ葉、切らしてました。紅茶飲みませんか?」
「う……いえ、紅茶は……。勤務上がりにカフェで飲みますゆえ、今はいいです」
「そんなこと言わずに、お砂糖とミルクを入れれば美味しいですよ」
そういって、ピールは勝手に紅茶を二杯入れた。角砂糖とモーモーミルクのビンをマサムネに手渡す。
「……」
マサムネは角砂糖を一つと、それとモーモーミルクを入れ恐る恐る口から流し込む。
「ん」
少し目の色を変え、また啜る。
「美味しいでしょう?」
「え、ええ……。悪くない味ですね。ん」
少し頬を緩ませるマサムネ。しかし、また彼も不穏な音を聞きつけた。
「どうしました?」
「……」
「マサムネ先生?」
無言のまま出ていくマサムネ。部屋を出る瞬間に、「聞こえた」と不穏な一言を残した。身を震わせるピール。数秒待って、何もないじゃないか、と思って自分も外に出ようとしたその瞬間、悲鳴が聞こえた。
「マサムネ先生ッ!?」
咄嗟に、とはいかず、少し足が竦んで、よたよたと、恐る恐る保健室のドアを開く。えいやっと外に飛び出たピール。
「マサムネ先生、どうされました!?」
飛び出た後は勢いで叫ぶピールだったが、マサムネがその場から消え去っている、という事実に気付くことに数秒かかった。
教頭先生が卒倒した、という噂同様―――いや、目撃者がいる分それよりも遥かに早く話は広まり、翌朝にはハルモニアとフリスト、それにレイラが学校に野次馬にくるという事態であった。
「ねぇっ、先生はどうなったの!?」と息を切らして学校に飛び込んでいくフリスト。そこにはジバコイルというポケモンがいた。この地域に配属された保安官だという話を聞いたが、ハルモニアには面識がない。
「それで、職員室から出たときには既にいなかった、と。他に変わったところはございませんか?」
「いえ、そういうのは特に……」
保安官から聞き込みを受けるピール先生。タブンネの短い尻尾が恐怖からか、垂れ下がっていた。
「大変なことになってるみたいだな」気づけば、リールとシンも来ていた。「そうね」
適当な感じで返すハルモニア。
「なるほど……わかりました、質問は以上です」と、保安官が告げた。ピールから聞きこんだことを何にもメモしていないようだが、大丈夫だろうか? 不安を感じるハルモニアだった。「では、捜査に入らさせていただきますので今後現場には立ち入らないようにお願いします」
「えっ……でも私たち、学校に忍び込む不届き者を捕まえようと……」
「それは承知していますが、まずは皆さんの安全が最優先です」
「でっ、でも」「分かりました。生徒の皆さんにも言っておきましょう」
あたふたするピールを校長先生が制する。
「この件はジバコイル保安官にお任せいたします。事件が鎮静するまで皆さん学校には一切立ち入らないようにお願いします。君たちも、」校長先生はハルモニアたちに視線を向けた。「このあたりで帰りなさい。保安官の邪魔をしないように」
――――という下りを経て、ハルモニアとフリストとレイラ、そしてリールとシンは学校にいくときに使う通学路を学校を背にし歩いている。
「なーんか物騒だねぇ」完全に他人事上の空といった感じのフリスト。
「もうっ、先生が消えちゃったんだよ!? 心配じゃないの!?」レイラは典型的な優等生のようなセリフを口にした。
「俺としちゃあ、このまま夏休みが伸びてくれた方が嬉しいけどなぁ」「そーだな、俺もだ」リールとシンの言葉もある程度、こんなことを言うだろうと予測されるようなことである。もちろんそれにレイラが食って掛かり、学校での休み時間に見られるようなドタバタが繰り広げられる。喋らないのはハルモニアだけだ。
ところで、ハルモニアはあることを気に病んでいた。リールたちのことだ。今でこそすれ違うときに軽い会釈などこそすれ、いがみ合っていないわけではなかった。何かあればすぐに事態は紛糾するようなそんな関係である。それは当然、ハルモニアの相棒のフリストも一緒である。そして、前述したようにフリストは怪異などの話が苦手なのである。この件に絡めて二人が何もしてこないことを祈った――――だがもちろん、祈りは届かないこともある。いや、届かないことの方が多いだろう。
「ところでさ、俺いいこと思いついたんだけどよぉ」
ハルモニアは渋面を作り、体を硬くした。