不思議な腕輪
朝、ハルモニアは窓から差し込む日差しで目を覚ました。ノーテルはまだ帰ってこない。
よろよろと起き上がると、彼女は食糧庫からリンゴと干し肉を取り出して平らげ、鞄を背負って家を出た。
そういえば今日はフリストが迎えに来ない……と思いつつ、村の広場に出る。
日時計を見てみると、今は八時十五分。学校が始まるのは九時半だ。今から学校に行っても授業が始まるまでまだ時間がかかる、と思っていたハルモニアは、湖のほとりのベンチに座って空を仰いでいた。
フリストのことはどうするか……あれからずっともやもやしたままだ。
村の誰かに話してみるか、とベンチから立ち上がり、歩き回る。すると、ふと村の東の出口からやってきたハスブレロが目に入った。彼はカクレオン商店の近くにいた、アバゴーラとヒポポタスと落ち合った。
「どうじゃった? カンロ草原の様子は」とアバゴーラ。どこかで見たことがあるな……そういえばフリストの祖父でこの村の村長だった。下の名前は知らないが、名前ではウェルクライムと呼ばれていたはず
「もうやばいよ。ハチミツ作りでみんな気が立ってる。マジでこりゃ殺されかねないな」とハスブレロ。殺されるって、なんでそんな物騒な話になっているんだ?
「ホオー、そろそろハチミツ作りの季節かぁー」
そこに、小さい子どもが話しかけにいった。
「ハチミツってなあに?」大きさはハルモニアの半分くらい。彼女がさっきまでそのポケモンが気づかなかったのは、小さすぎて見えなかったからだろう。
あら、あの子は確か……。
ハルモニアは、その子どもの存在に気付いた瞬間、彼女がマリアというスボミーの幼女であることにも気づいた。
「お前さんは……マチルダさんとこのマリアちゃんじゃったかの。ハチミツ作りの時期が来たんじゃよ」
普段厳しそうな老村長も、さすがにマリアには優しく接していた。
「スピアーやミツハニーたちが一斉に花の蜜を集めだすんじゃ。味は天下一品でこの穏和村の名産品にもなっておる。何より栄養があるんじゃ」
「ああ、美味いのなんのってな、思わず体中の穴っつー穴から砂がブシューってなるよな」
というヒポポタスの声は少し上ずっていた。
「ふーん、栄養があるんだ……」
マリアが小声で言ったのをハルモニアは聞き逃さなかった。そういえば、彼女の母親は病気だったっけ。
「ただよぉ、ハチミツ作りの間はみんな気が立ってっからな。マジやべーよほんと絶対カンロ草原にはいくんじゃねーぞ。じゃ、俺仕事あるんで。おう、ハルモニアじゃん。学校かー? 頑張れよなー」
と、ハスブレロは色々言って去っていった。アバゴーラと目が合い、思わず会釈した。
「おお、お前さんか。すまんのう、うちのフリストが迷惑かけて」
「あ、いえ気にしてないんで……」
と、歩みよってくる老村長から逃げるように、彼女は学校への道を走り出した。
そこでフリストの後ろ姿を見かけた。
「あら?」
フリストは毎朝決まって彼女と一緒に登校しようとする……。はずだ。彼女が自分を置いていくだなんて、まさか。
やはり昨日言い放った一言が刺さったのだろうか。
「……別に迎えに来るななんて一言も言ってないじゃない。ただちょっと周りに気を配れって言っただけなのに……バカじゃないの」
心の中にとどめておこうと思っていた本音がポロリと漏れた。幸か不幸か誰にも聞かれることはなかった。五十歩ほど彼女と距離を取って歩き、学校に向かう。
学校に着くと、フリストはいつもと変わらず接してきた。少し面食らったハルモニアだが、実は昨日のあれは全く関係なくて、用事でもあって自分を迎えに来る暇がなかっただけなのだろうか。
と思ったが、笑顔に違和感を感じる。何だろう、いつもより変……ではないけど、ぎこちない。
一限目は理科だった。塩酸と水酸化ナトリウムを混ぜると中和が起こる。地面を転がる玉は何か力を加えないと止まらない。ハルモニアにとっては、全て頭の中にしまわれている知識だった。なぜその知識があるのか、までは彼女は知らない。だが、教科書の先を読んでいても知らない知識が一切ない。
見たことがないものがない、というのはハルモニアにとって最上の苦痛だった。かといって寝るとマサムネ先生に怒られる。彼女は仕方なく、授業の終わりを寝ずに待つことにした。
二限目は昨日と同じ課外授業だった。担当は昨日と違ってミルホッグの教頭先生。彼は昨日のマサムネ同様チームを二つに分けた。教頭先生は生徒たちを別のダンジョンの入り口に連れていき、そこに並ばせた。彼は大きい板を一枚持ってくると説明を始めた。
「一チーム目はクラリス、ハルモニア、レイラ。二チーム目はフリスト、リール、マイルだ。シンはここで待機しておく。じゃあ各チームの代表は道具箱を取りに……こらそこ! 喧嘩するんじゃないよ! あぁもう、疲れるったらありゃしない……」
フリストとリールを一緒のチームにするのはまずいだろう……と思った矢先、二人は案の定どちらが道具箱を取りに行くかで早速もめていた。
「こら! 今から実習の説明をするのでワテクシの話をよく聞くように!」
なんかこのおっさん、声が甲高くてイライラするなぁと言いそうになったのを押さえつけるハルモニアだった。そんなことなど露知らず、教頭先生は説明を始める。
「今回はリングルの使い方をマスターしてもらう。キミたち、リングルやラピスのことはちゃんと習ってるね?」
しかし、誰も首を縦に振らない。ハルモニアはもちろん、フリストも知らないようだった。試しにクラリスをちらと見てみたが、彼女も首をかしげていた。
「……あれ、みんなリングルやラピスのこと知らない?」
と言うと一斉に首を縦に振る生徒たち。
「何ィ!? 全くマサムネ先生は何をやっておられるんだ……。仕方ない、説明するとしよう。
みんな、道具箱にこんな輪っかがあると思うから、それを取り出して……こら! だから喧嘩するんじゃない!」
数秒後、教頭が言う輪っかを、リールとフリストは取り合っていた。
「離せ! これは俺のだ!」「私が使うもん!」
「やかましい問題児共! リングルはどれも同じやつだから取り合っても一緒だ!」
なんかこの先生、いつか心労で倒れそうだなぁと憐れむハルモニアは、道具箱から輪っかを取り出した。腕輪、だろうか? 試しに嵌めてみると、彼女の手にすっぽり収まった。なんだかサイズが縮んだ気もするがそれは置いといて、じっくり眺めてみる。鉄のような質感に、四つ、くぼみがついている。どうやらこのくぼみにヒントがあるようだ。
じっとリングルを見つめるハルモニアを教頭先生は指さして言った。
「ええと、そう。ハルモニアのようにリングルを腕に嵌めてみてください。大丈夫、これは伸縮自在なので多少サイズが合わなくとも嵌められます」
「先生、リングルの窪みは何ですかー?」
と、話しているところに声を重ねるシン。そうやって何も考えずに便乗するから怒られるんだ、とハルモニアは彼を見咎めようとしたが、教頭は怒ることはなく、寧ろ彼を誉めた。
「おっ、いいところに気付きましたね。このくぼみは先ほど言ったラピスをここにはめこむためにあります。いいですか? ついてこれてますか?」と教頭は周りを見渡し、一息おいて続けた。「ラピスはダンジョンに落ちている鉱物のことで、そのラピスをリングルのこのくぼみにはめこむんです。ちなみにそのラピスですが……」
「すいません、ちょっといいですか」
と手を上げたのはクラリスだった。ハスキーな声を響かせる。
「なんでしょう?」「その……何のためにラピスをはめ込むんですか」
「おおっと、危ない危ない、肝心なことを言い忘れるところでした。
そうですね、なぜラピスをはめ込むのか。それは、ラピスをはめこんだリングを装着すると様々な能力を得られるからです。攻撃力や防御力を上げるラピスもあれば、ダンジョンに眠るお宝の場所を探るラピスもあります。ラピスを上手く使えばダンジョンをクリアするのは難しくありません。ラピスを制するものはダンジョンを制す! ちなみに、道具箱の中にラピスの一覧を記した本も人数分入れてあるので覚えておくように」
と熱を入れて喋っている教頭に対し、少し引き気味な生徒たち。だが、興味深い話ではあるようで、しっかり聞き入っていた。
「でー、さっき言いかけていた……なんだっけ……あっそうだ。で、そのラピスですが、君たち、見てみたいですか?」
「見たい!」とフリストとマイル。他の生徒たちも首を縦に振った。
「よろしい。では見せましょう……しかし、実はラピスはダンジョンの外に持ち出そうとすると砕けてなくなってしまうのです。なので今回はただの絵になってしまいますが……ほいっ!」
と、そこでようやく教頭先生は持ってきた板を生徒たちに向けて掲げた。そこには、赤色の宝石が描かれていた。
「えー、これがラピスです。色は様々。もちろん大きさも様々ですが、その窪みに入らないということは恐らくないでしょう。ちなみに、リングルに嵌めていてもラピスはダンジョンから出た瞬間に消えてしまうので気を付けるように! 過去にいたからね! 前のダンジョンで持ち帰ったと思い込んで同じノリでダンジョンにいって痛い目に遭った生徒が!」
と教頭先生は釘を刺す。
「じゃあ、説明は以上なので今からこの雲母山というダンジョンにいってフラッグを取ってくるように。終わったチームから今日は解散だ。念のために言っておくが、あくまでレースではないので、安全第一で行動すること! 以上だ」
と教頭先生が言うと、フリスト、リール、マイルたちの三人は返事もおろそかに雲母山に突入していった。教頭先生はその後、ラピスの絵が描かれた大きな板をしまいに行ったのだが、その際にラピスの絵が一瞬で消えていたのをハルモニアは見逃さなかった。最初は見間違いかと思ったのだが、明らかに消えていた。板が裏返されたということもない。教頭先生はミルホッグだがもしや……?
「じゃあ、私たちも早く行きましょう」とレイラ。
「え、ええ……」ハルモニアはそう言って歩きながらチラチラとクラリスの顔色を窺う。一切変化しないのが怖すぎる。あれならまだ喜怒哀楽がきっちり分けられている先生の方が扱いやすいだろう。
「何、どうしたのハルモニア」
「へっ!? い、いや、なんでも、ないわ……」
ハスキーな声で静かに語りかけてくる。声だけ聞くと、深窓の令嬢といった感じだが、見た目が際どすぎる。顔立ちは整っているが、ぱっちり開いた目を合わせたくない。
「……あなた、ひょっとして怖がってるの? ごめんなさい、私いつもこんな感じだから」
と、ハルモニアの心中を察したクラリスは微笑みを浮かべた。
「(表情を変えた!?)」心臓がびくんと飛び跳ねたハルモニアだが、クラリスの表情は存外柔らかく、それ以降ハルモニアの胸が高鳴ることはなかった。
気づけば景色はすっかり雲母山のそれで、三人は岩肌を歩いていた。
「私いつも無表情だから、先生から怖がられてて……レイラたちは笑ったら可愛いって言ってくれるからうれしいんだけどね」と、クラリスはまたほほ笑んだまま言った。だが次の瞬間に表情を無に戻し、「レイラ、ハルモニア、気を付けて」
と言った。その素の表情にまたびっくりしたハルモニアだが、確かに敵の気配を感じた。
「ほんとね」と、身構えるレイラ。突然、クラリスは走り出した。驚くハルモニアの視界には、岩陰から飛び出してきたズルッグ。クラリスはだまし討ちで拳を落とそうとするズルッグをチャージビームでぶっ飛ばした。
「……うん、敵の気配は消えたみたい。先に行きましょう」
と、ズルッグを倒したばかりのクラリスはさっきの動きがまるで嘘であるかのような静かな勢いで言った。ハルモニアはレイラの顔色を見てみたが、彼女は眉一つ動かさない。
「ハルモニア、足元。ラピスが一個落ちてる」
「えぇっ、あ、ほんとね」
ハルモニアは言われて気づき、それを拾い上げる。燃えるような炎の赤色を透かして見ると、Xの文字が入っていた。これはなんだろう、と道具箱の中の本を取り出し、パラパラと捲る。見つけた。威力上昇Xの文字だ。これ単体では技の威力を上げるのみだが、威力上昇Yというラピスと合わせて装着すると、技のコントロールがしやすくなる。つまり、エイムが安定するのだと書いてある。ハルモニアはふと顔をあげると、二人がこちらを見ているのに気づいた。早くしろ、と急かされているような気分になり、ラピスをはめこんだ。「ごめん、じゃあ行きましょう」
雲母山は学校の課外授業の場として使われるには少し危険ではないだろうか、とハルモニアは感じた。ところどころ道が舗装されておらず、出てくるポケモンの実力も高い。彼女とレイラは毎回手こずって敵ポケモンを倒している。いや、倒すというよりとどめをクラリスに持っていかれているのだ。例えばエアームド、マンキー、アサナンが出てきたときだ。ハルモニアがエアームドを、クラリスがマンキーを、レイラがアサナンをといった感じで相手をするのだが、クラリスは敵を倒すのに十秒もかけず、すぐにハルモニアかレイラの助太刀をする。タイプ相性もあってのことか、と思ったが、最初にズルッグを倒すのにも時間をかけていなかったことを思い出すハルモニアであった。そもそも、自分がエアームド相手に手こずっている時点でタイプ相性なんてあってないようなものである。
なりは深窓の令嬢でスプーンより重いものを持ったことがなさそうと思っていたが、寧ろとんでもない化け物だ、と畏怖を感じるハルモニアだった。
「……ハルモニア」
「はいっ!?」
話しかけられる度にびくびくするようになっている。レイラは特にそういったことはないようだが、慣れているのだろうか?
「これ、威力上昇Yっていうラピスなのだけど……」
と言って彼女が差し出したのは、青色のラピスだった。中にYという文字が埋まっている。
「えっ……拾ったの?」
「うん。でもあなたのリングル、威力上昇Xのラピスがあるでしょ。だからあなたのリングルにつけて」
そうか。そういえば、このラピスはXとYでセットにすると、技のコントロールが安定し、より精密に動けるようになるんだった。
ハルモニアは「あ、ありがとう」と言ってクラリスから威力上昇Yのラピスを受け取り自分のリングルにはめ込んだ。
心なしか、自分の動きが軽くなったような気がする。動き出すときだけでなく、動きを止めるときも体に負担がかからない。なるほど、確かにラピスの効果は発動しているようだ。
ハルモニアがレイラとクラリスと一緒に歩いていると、視界にリングルが落ちているのを見つけた。
「あれ、これって……」ハルモニアがそれを拾い上げる。
「それってさっきもらったのと同じじゃない?」とレイラ。ハルモニアはしばらく観察していたが、「違うみたい。ノーてんリングルって書いてあるわ。ほらここ」とリングルの淵を指さす。
「ノーてんリングル……? 何かしら、それ」
レイラが首をかしげると、クラリスがラピス一覧の本を開いて見せてきた。
「ラピスだけじゃなくてリングルにもいくつか種類があるみたい。ノーてんリングルは……天気の影響を一切受けずに行動できる、っていうリングルみたいね」
「それって、ラピスを嵌めなくても発動するの?」
「ええ。リングル固有の能力みたい」
「ふーん……」
天気の影響を一切受けない……か。別にそんな効果あっても意味ないと一瞬思ったが、ちょっと前にガバイドとバトルしたときは砂嵐に巻き込まれて負けそうになったんだった。砂嵐自体は直接関係あるわけではないが、このリングルは持っていよう。
「このリングル、私がもらってもいいかしら」
「ハルモニアが? 別に構わないけど」
「私も」
二人ともノーてんリングルには興味を示さなかった。しめしめ、とハルモニアは鞄の中にリングルをしまいこんだ。
二回目の課外授業。ハルモニアのチームはほとんどクラリスのおかげで難なく成功を収めて終わり、一方フリストのチームは攻略に失敗し、ボロボロになって帰ってきた。
「あぁ!? お前のせいだろうが! わざわざ危険なところに突っ込んでいきやがってよぉ!」と激怒するリール
「それが冒険ってもんじゃないの!?」と反論するフリスト。
「そんなわけあるか! ……へんっ、こんなのが調査団に入りたいだなんてな」
リールは更に激昂するかと思いきや、一瞬声色を落とし、フリストを煽るように言った。
「やればできるに決まってるでしょ!? 今からだって調査団に入りにいくよ!」
「はっはー! 子どもが調査団に入るだなんて無理に決まってんだろ!
大体クラリスみたいに冒険が上手いやつが言うならわかるけどさあ。お前、昨日だってやらかしたしな! はっはー!」
フリストはリールが言葉をまき散らす度に表情を暗くし、うつむいていく。
「……なんだよ、バカにしやがって。私だってやればできるんだから……絶対やってやる。決めたんだから……」
ダンジョンの入り口で突っ立ったまま、彼女は拳を握りしめ、ぶつぶつとつぶやいていた。ハルモニアはさっさと荷物をまとめて帰ることにした。最初は何も言うまい、と思ったが、フリストがついてくるかどうか気になったので一言だけ、
「帰るわよ」
と言い残しておいた。彼女はその言葉にぴく、と反応だけはしたが、着いてくることはなかった。
――――やっぱり昨日の一言、気にしてるのかしら。