キミがここにいて友だちになってくれるなら
マチルダ婦人はマリアを強く抱き締めた。
村の広場に、彼女のすすり泣きが響く。
「ああ、マリア……心配したのよ?」
「お母さん……ごめんなさい」
「ううん、でも、よかった……無事で」
右手の赤いバラで涙を拭き、マリアを離したかと思うと、その頭をなでる。
「おかえりなさい……」
「お母さん、ハチミツもらってきたよ。カンロ草原の」
と、マリアは蜜ツボを差し出した。
「ありがとう、あなたは私の誇りだわ……。でも、これからは危ないところに行っちゃだめよ」
「うん」
ハルモニアは、親子の睦まじさにあてられたのかもぞもぞとして顔をそらした。そこにマチルダが話しかける。
「この度はありがとうございました。おかげさまでこの子も助かって……」
「えぇっ、いや、そんな……」「へへ、どういたしまして」
照れるハルモニアとしたり顔のフリスト。
「これ、ほんのお礼です、種やリンゴばかりですがもらってください」
とマチルダは聖なる種と世界一と、他に種を数個差し出した。
「え、いいんですか? 世界一なんてもらっちゃって」そう言うフリストの顔は喜びに満ち溢れていた。
「とんでもない、娘の命に比べれば安いものです。でもお二人もまだ子どもですからあまり無茶はしないでくださいね」
とマチルダは言って頭を下げるとマリアの手を引いて帰っていった。マリアは後ろを向いて「ありがとう、ハルモニアさーん、フリストさーん」と、見えなくなるまでずっと叫んでいた。ハルモニアはそれが微笑ましく、今まで背けていた顔を戻して、ちょっとはにかんだ。だが……。
「子ども……ね。ねえ、フリスト」
「なぁに?」
「私って子どもに見える?」
ハルモニアはそう唐突に聞いた。
「え? う〜ん……まぁ、少し大人っぽいところはあるけど、まだ私と同い年ってところかなぁ。来年の三月で一緒に学校卒業するでしょ」
「そ、そう……」
「そうだけど、それがどうかしたの? あ、そうだ。前にいった場所、覚えてる? あの大きな丘の上。何かあるならそこで話そうよ」
「そうね……」
ハルモニアはフリストに手を引かれて歩いていった。
フリストは人間でいうと十四歳である。調査団に入団できるのは十八歳からなので、彼女の夢まではあと四年待たなくてはならない。
対して、ハルモニアは自分が十八歳であると思っていた。記憶はないが、人間だったときは恐らく十八歳だった、と。だが、フリストにはどうにも信じられなかった。
「へーそっかぁ……うーん、やっぱり見た感じは十四かなぁ……確かに振る舞いとかは大人っぽいとは思うけど」
「あら、信じるの?」
「うん、まぁ」
暗くなって、穏和村全体を星空が覆う。
「っていうか私はキミのこと信じるって言ったじゃん」
「そうだけど……」ハルモニアは言葉を濁す。
「実際、マリアちゃんを助けられたのもハルモニアのことを信じたからじゃない? だから私、キミのことを信じるよ。人間だったっていうのも全部」
「あら、私が嘘をついてるかもしれないのよ?」
「関係ないよ。だって、みんなに嘘つきだって後ろ指を指されてたハルモニア、すごく寂しそうだったもん」
「――――!」
完全に図星を突かれたハルモニアは、言い返す言葉もなくそのまま立ちすくむ。
「だから……だからって言うのもおかしいけど……ううん、だから、私だけはハルモニアのことを信じる」
その顔はさっきのしたり顔ではなく、正真正銘真剣な表情だった。フリストはハルモニアに一歩、歩み寄った。
「ハルモニア、私の友だちになって」
「あなたの……とも、だち?」
「うん。これは等価交換。
私はハルモニアのことを信じる。だから、ハルモニアも私のことを信じてほしい。友だちになってほしい。友だちになって……ううん、なって、ください」
その声に、普段のおふざけや茶々は全く見られない。ハルモニアは一息ついた。十秒、何を言うべきか考える。
「……私なんかでいいの?」
「違うよ、ハルモニアだからこそいいんだ。私もみんなと打ち解けられていないから、キミの気持ちは痛いほどわかる。
私のことを信じてくれる人が一人でもいればって思うんだ」
「そう……。残念だけど、友だちにはなれないわ」
その瞬間のフリストの顔は、ハルモニアはすぐに忘れることができた。友だちにならない、というのはそういう意味で言ったんじゃないから。
「あのね、私はアンタに何回か助けられてるの。アンタがいなかったら切り抜けられなかったダンジョンもあったし、命だって落としてたかもしれない。アンタからすれば私は友だちかもしれない。でも、私にとってはアンタは特別な存在なの。初めて、初めて私と打ち解けてくれたのもアンタなの。だから、フリスト。私の……“特別”になってちょうだい。ううん、なってください」
その瞬間、フリストの目が星空のようにキラキラと輝いた。彼女はハルモニアに抱き着いた。
「ハルモニア……ありがとう! 別にいいよ、友だちでも“特別”でもなんでもいいよ。よろしくね、ハルモニア……ううん、ハル」
「ハル?」「うん、ハル。ハルモニアだと長いから、ハル。どうかな?」
「……ハル。いい響きね、ありがとう。これで充分だわ。あなたがいてくれて、助かった」
――――たった一人でいい。
たった一人、君さえ私のことを信じていてほしい。例え世界が私に牙を向いたって、君がそばにいれば大丈夫。勇気が湧いてくる。どんな理不尽にだって打ち勝てる。
腑抜けだったハルモニア=ロイフォードはこのとき覚醒した。消えてしまっても構わない。たった数時間前まではそう思っていたのが嘘みたいだ。
手さぐりでもいい。私は、彼女のために生きていく。彼女のそばに、ずっといるために――――。
ハルモニアとフリストだけの二人だけの場所。大きな木のある丘の上。ここで彼女は、一つの誓いをたてた。
ずっと彼女を守る、と。
「ありがとう……そうだ、じゃあこれを受け取って」
フリストは肩からかけているポシェットの中から二枚のスカーフを取り出した。一枚を自分の首に巻き、もう一枚をハルモニアに差し出す。
「私に?」
木目がついた布地だ。古いが清潔。ハルモニアが手に触れた瞬間、微かに光を漏らしたように見えた。
「あなたの大事なものなのかしら」
「うん。……と言っても出自は私にも分からないんだ」
「拾ったものなの?」
「ううん。十四年前、私が体に巻いていたものなんだって」
「……?」
頭に疑問符を浮かべてフリストを見た。どういうことだ? 私は昔の使い方を聞いたわけじゃない。出自を聞いているんだ。……いや、分からないんだったか。としても、ひょっとしてどこから来たのかもわかっていないのか?
「そういえば、ハルには言ってなかったね。私、じっちゃんとは血が繋がってないんだ」
「そう……それは何となく予想してたわ」
卵グループ、というものがある。ポケモンは、雌雄が揃っていれば必ず卵を産むものではない。特定の種族同士でつがいを作る必要がある。その特定の種族を組み分けし、体系化したものが卵グループだ。卵グループが同じ種族同士でしか子孫を残すことはできない。卵グループの概念で考えるとウェルクライム老人とフリストは血の繋がりがあってもおかしくはないが、それでも違うんだろうな、というのはあった。
「私、どこで生まれたのか分からなくてさ……赤ん坊のころに村からちょっと離れた湖のほとりに捨てられてたの」
それを聞いて、ハルモニアは言葉を失った。生まれてすぐに両親から見放されてしまっていたなんて。それを言うと自分なんかはいい年して記憶もなくして湖のほとりに倒れていたわけだが。
湖のほとり……? そうだ、自分も村から少し距離のある湖のほとりで目を覚ましたはずだ。もしかすると、同じ場所かもしれない。運命とか奇跡なんて言葉を信じるハルモニアではなかったが、少しだけ微笑を浮かべた。
「で、そこを通りかかったじっちゃんに拾われたんだ。このスカーフはそのとき私が体に巻いていたの。何なのかは分からないけど、多分私にとってすごく大切なものなんだ。だからこれは一枚ハルにあげる」
「ちょっと待ちなさいよ、大切なものなら受け取れないわ」
「そんなことないよ。だって、ハルは私の『特別』……うーん、友だち、っていうか、そんな感じでしょ?」
「……そうね」フリストが『特別』を『友だち』に言い換えたのはちょっと気に食わなかった。と言ってやりたいが、彼女は自分以外に友だちがいないんだった。傍目から見ればどっちでも同じなんだろう。『特別』なんかよりも『友だち』が欲しいはずだ。思えば、自分の発言が青臭すぎる。ハルモニアは顔を覆いたくなった。
「だからこれ、ハルにも持っててほしいの」
言われて、ハルモニアはスカーフに目を落とす。緑地に黒で木目が描かれた布を、月光に照らし出す。その匂いには、何故か覚えがあった。同時に、フリストが彼女に呼びかける声が頭の中で響いた。出会って一か月と少し。その中で呼ばれたどれとも違うものだ。
「……ねぇ、フリスト」
「なぁに?」
「前にアンタ、言ってたわよね。いつか調査団に入って世界中を旅するって。
もしもの話だけど、もしその日が本当に来たらアンタは私にどうしてほしい?」
期待している答えなんてない。彼女がどうするかなんて考えていない。
「うーん……それは分かんないけど、さぁ……。
でも一つだけ、口実があるんだ。ハルは人間からポケモンになったんでしょ? 五年前と十七年前の英雄と同じで、大きな力を持つ誰かが、ハルを人間からポケモンに変えた。だったらそれにはそれなりの理由があると思うんだ。私はその理由も知りたい。ハルが知りたがってるなら、力になりたい」フリストはそう言うと、ハルモニアの手に握られていたスカーフを彼女の首に柔らかく巻いた。
「これが、私たちの絆の証になるんだ」と、ニッコリと笑う。
「フリスト……」ハルモニアはスカーフと月光の入り混じった匂いを嗅いだ。
「分かったわ、これは今日から私の宝物。これがある限りずっと離れないから、覚悟しておいてね」
「へへっ! ありがと、ハル!」
フリストとハルモニアは笑いあった。星空覆う丘の上。二人だけの世界。嬉しかった。ありがとう。大好き。
そう言いたかったフリストは、ハルモニアの傍に誰かがいることに気付いた。
二本の脚で立つ少女だ。頬は綺麗な桃色で、肌は淡いオレンジ。頭からは栗色の長い毛が生えている。何より特徴的なのは、体に布を纏っていることだ。
もしかして、これが噂に聞く人間なのか。目の前の美少女はハルモニアなのか。彼女はフリストに優しく微笑むと、口をもごもごと動かした。
「久しぶり」
声は出ていなかったが、口の動きはそうなぞっていた。フリストが惚けて見ていると、人間の少女はピカチュウのハルモニアの中に吸い込まれるように消えていった。
上空十万キロ。大気も殆どなく、周りは宇宙の暗闇に溶け込んでしまっている空間。
デオキシスとレックウザというポケモンが邂逅していた。デオキシスは人間のような容態だが腕を触手のように自在に操ることのできるポケモンで、宇宙からやってきたと言われている。対するレックウザはここより遙か下のオゾン層を飛び回っている。赤の大陸にあるという天空の塔というダンジョンで眠り、隕石を食らう伝説竜である。
デオキシスはレックウザの様子に酷く困惑していた。あの天空の王が怯えているのである。
かつて二人は制空権を争って刃を交えたことすらあったが、デオキシスはサイコブーストなる絶大な破壊力の技や幾多のフォルムチェンジを使用して尚惨敗しているのである。今は両者和解し、それぞれ平穏に過ごしているが――――。
「レックウザ? どうした、何があったのだ」
デオキシスは更に上に飛んでいく緑色の竜を呼び止める。が、彼は何も聞く耳を持たずに、逃げるように飛んでいってしまった。