ハルモニア
ハルモニア=ロイフォードは人間である。今はピカチュウの姿になってしまっているが、これは紛れもない事実である。
ではなぜ彼女は人間からポケモンになったのか? 彼女には実際わからない。
というより、彼女がピカチュウの姿になって起き上がったとき、何も思い出せなくなっていたと言う方が正しい。彼女が記憶しているのは、ハルモニア=ロイフォードという人間の少女だったことと、ポケモンについての奥深い知識のみである。目が覚めたとき、彼女は滝つぼの傍の草むらに横たわっていた。なんだか頭痛がするので滝つぼの水を飲もうと顔を近づけて、初めてピカチュウになったことを理解した。最初は衝撃だった。身長が縮み、腕も足も短い黄色い生物になってしまった衝撃で動けなかった。何かを思い出そうとしても、何も出てこない。そのうちにまた頭痛がして倒れこんでしまった。
コノハナのノーテルは倒れこんだハルモニアを見つけた。
「おい! おめぇ大丈夫だべか!?」
彼女が目を開けると、コノハナが話しかけていた。見知らぬ土地であるにも拘わらず、言葉が理解できたためそれだけですこぶる安心できた。
ハルモニアが起き上がると、コノハナは自分の名を名乗り、ハルモニアがこの辺じゃ見ないポケモンである、と疑った。
「あ、怪しいポケモンじゃありません。というか、ここがどこかもわからないんです……」
「ほんとだべか? じゃあどっから来たんだおめえ?」
「……それもわかりません。恥ずかしながら、さっき目を覚ましてから記憶がなくて……」
元々人間です、というのも言うべきであるかどうか迷った。このポケモンが人間をどう思っているかわからないからだ。
「あーらま、こな小さな子供がねぇ。そりゃ大変だべなぁ。頭でも打ったんかい? そうじゃ、オラの家さこっから近いけぇ、よってくがいいべ。穏和村っていう小せえ村ん中あるだ。どだ、穏和村っちゃわかるか?」
家にこい、という誘いはありがたかった。流石に記憶が戻るまでいろとは言ってくれなかった。しかし、穏和村と言われてもピンとこない。
「……わかりません」
「うーん、仕方ねえなあ。まぁ、とりあえずはオラん家いくだ。お茶でも飲んでくがええさ」
「……はい」
彼女は、ノーテルの誘いに乗ることにした。乗るしかなかった。
「そいや、名前聞いてなかったなぁ。オメェなんてーんだ?」
「ハルモニア、です。ハルモニア=ロイフォード」
直前まで何をしてたのかもどこにいたのかもここがどこかもわからない。イコール身寄りがない。そうだ、自分は穏和村に住んでいたのだろうか? 穏和村に父と母はいないだろうか……ポケモンになった身でも、挑戦はしてみよう。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「ん、なんだべ?」
ハルモニアはノーテル、と名乗ったポケモンに歩きながら聞いた。
「その、穏和村、人間って住んでいませんか?」
「人間ん?」「人間です」
ノーテルは怪訝な表情だった。それでいて、ハルモニアの正気を疑っているようでもあった。
「何言ってんだオメェ、人間はずーっと昔にポケモンと戦争して皆死んじまっただよ。それともオメェがその人間だってーか?」
人間は絶滅した。ただでさえ混乱を極めていた彼女を絶望に落とすような一言が突き付けられた。人間はいない? じゃあ自分はなんだ? たった今さっきまで人間として生きていた自分は何なのだ? ひょっとして、自分の記憶が間違っているのか?
「……あの、実は人間なんです」
もし、ノーテルが人間嫌いなポケモンだったらどうしようという心配を忘れて、彼女は自分の正体を吐露した。
「は? いやいやいやオメェどう見たってピカチュウでねえか」
「そ……それは分かってます。でも人間だったんです。人間だったこと、と、自分の名前……それしか覚えてないんですけど」
「うーん……そっかぁ。嘘言ってるような顔じゃねえし、信じるしかねえなぁ。んでも、なんで人間からピカチュウになっちまったべ? ……あぁ、記憶がねーんだったなぁ」
なぜと言われてもわからない。とりあえずは、このノーテルというコノハナについていくしかない。なぜか、は自分が一番知りたいんだ。
「お、そうだった、オラ不思議のダンジョンを通り抜けてきたんだったべ。オメェ、不思議のダンジョンってなんか知ってっか?」
ノーテルはいきなり立ち止まって、峠の入り口でこう言った。当然、ハルモニアは首を横に振る。
「んだろうなぁ。記憶がなくなるっちゃあ大変なことだべ。おし、ちょっくら不思議のダンジョンについて教えてやる。この世界で生きてくんには、このレベルのダンジョンは通れねえと話になんねえ」
そう言って、ノーテルは不思議のダンジョンのいろはをハルモニアに教授した。ハルモニアは、人間だったこともあり、ポケモンとしての技の使い方を知らない。ノーテルは、呼吸を調整しながら力を籠め、調整した呼吸を一気に戻すように力を放出する、と言ったが、彼女には難しかった。ノーテルも、草・悪タイプであって、電気ショックや電磁波の出し方は分からないのでそこはどうしようもなかった。
ダンジョン中盤で、あきらめたハルモニアは拳を使ってポケモンたちと戦うことにした。技を使えない分、人間だったころの感覚が残っていた。記憶が残ってない、というのは関係ないのだろう。
とにかく、二人はダンジョンを抜け、ノーテルの言う穏和村にたどり着いた。
始めは路頭に迷っていたハルモニアだが、ノーテルが家に住め、と言い出した。当初はお茶をすするだけのために訪れたはずなのに、そこまで話が膨らむとは思わず、ハルモニアはやんわり断ろうとした、が……
「遠慮すんなって。流石にオラだって身寄りなしの子どもを家から追い出すほど冷血にゃなれねえんだ。な? オラのためだ思ってこの家に住んでけ住んでけ」
「いや、でも……」
「丁度一人暮らしにも飽きてきたところだべ。隣りの村長の家に同い年くらいのツタージャも住んでるから丁度いいはずだど」
「そんな……いきなりお邪魔して住むなんて、迷惑じゃ……」
「だーから迷惑じゃねえつってるべ。そだ、学校もいかねえとな。この大陸はな、世界で一番インフラ整備が進んでて大抵の子供は学校行ってんだべ。オメェも明日から学校いかねえとな。そんな遠慮する必要ねえべ オメェは子供のくせに他のポケモンに頼ることを知らねぇな? そんなんじゃこの先生きてけねえぞ。じゃあオラが今から学校行って手続きしてくっから、くれぐれも家から出ねぇようにな?」
ありがたいが、これでいいのだろうか……しかし、ノーテルは案外楽しそうだった。ハルモニアには奥の部屋を使えと言い、学校に行ってしまった。
取り残されたハルモニアはベッドで横になった。
改めて、自分がこの世界に来てしまった、ということを考えた。
なぜ? 何のため? どうして記憶がない?
「うーん……」
頭の中でいろんなことがぐるぐる渦巻いていく。……。
『ねぇ、久しぶりだね』
記憶の片隅で、何かがそう話しかけた。誰だ?
『キミを迎えに来たんだよ?』
だから、お前は誰だ!
その瞬間、目が覚めた。どうやら、寝ていたらしい。影の長さと向きはあまり変わっていない。よかったよかった。ほんの少しの間ようだ。しかし、何だ、今の夢は? ……わからない。少し、外の空気を吸ってみよう。ノーテルは外に出るな、と言ったが少しくらいなら構わないはず……。
そうなるはずが、どうしてこうなったのだろう。ちょっと外に出てみた結果、自分は不思議のダンジョンで技も使えないまま、敵ポケモン相手に立ち往生している。半分は横のフリストとかいうツタージャのせいだが、もう半分は、自分が強がったせいだ。弱そうと言われたが、実際弱いじゃないか。
「ハルモニア、やっぱり技使えないと不便じゃない?」
「うるさい。アンタには関係ないでしょ。黙ってて」
「でも……」
ええい、話しかけるな。話しかけるならせめて……。
「文句があるなら、せめて技を出す方法くらい教えなさいよ」
「技を出す方法かぁ……」
できるわけない。ノーテルも上手くは教えられなかったし、理解できなかった。こいつも一緒だろう。
「うーん、上手くいくかは分かんないけど……」フリストは周りを見渡して敵がいないことを確認し、ハルモニアに歩みよった。左手で、ハルモニアの右手を取ると、そっと逆の手を添えた。
「ちょっと、近いんだけど……」
「へへ、いいじゃん。じゃあ、今から私の言う通りにしてみて。まず、ここにこう力を籠めて……そう。で、息を吸って……吐きながら、こう。あ、そうじゃないそうじゃない。えっとね、今のもっかいやってみて。うん。で、息を吐きながら……こうっ! っ!」
「んんっ!」
ハルモニアの右手からエレキボールが出た。ばちばちと音を立て、木にぶつかると弾け飛び、そこから煙が上がった。
「あ……」
「技、出せるじゃん」
フリストは手を放すとハルモニアの目の前にきてサムズポーズを見せた。
「……意外とすごいのね」
ハルモニアは素っ気なく言うと歩き出した。お礼くらい言ってもよかったかな、とは思ったが、なんだか気恥ずかしい。
「ああもう、ハルモニアは恥ずかしがり屋さんだなーこのこのー」
無視した。確かにコイツは凄いし、借りを一つ作ってしまったけど……。ひょっとして、いいやつなのかな。
そこで、ハルモニアは何かが自分の足に転がっているのに気づいた。
記憶はないが、知識はある。縛りの玉。相手のポケモンを動けなくする道具だ。これは使い方がはっきり分かる。
「そういえば、リールたちが言ってた紙、まだ見えないね」
「そうね……あ」
噂をすればなんとやら。少し先に開けたところがあってそこには大きな紙と、恐怖からか震えているヌメラの姿があった。
「マイル!」
フリストが彼の姿を見るなり走り出した。少し安堵を覚えたようにも見える。だがマイルは、フリストを見るとなんと、泣きながらこう言った。
「フリスト!? こっちに来ちゃだめ! 危ない!」
――――え?
だが、フリストはマイルの忠告に耳も貸さずに走り続けた。ハルモニアは最初、何なのか分からなかったが、すぐにマイルの言わんとすることに気付いた。
マイルは二匹のポケモンに襲われていたのだ。右にムクバード。左にガマガル。
――――! 危ない!
「アンタ、止まりなさい!」
「フリスト! 止まって! ダメ!」
ハルモニアとマイルの忠告を無視して走り続けるフリスト。ムクバードとガマガルが振り返る。
危ない!
フリストは相変わらず気づいていない。このままでは危ないが、止めようがない……。どうすればいい?
「……そうだわ」
思い出した。自分はさっき、技を使えるようになったんじゃないか。他でもないフリストのおかげで。
ここから、エレキボールをアイツに……いや、それはだめだ。威力が高すぎる。そうだ。あの技なら。
ハルモニアは四足で走り出した。ピカチュウである今、二足で走るより圧倒的に速い、と本能で理解したのだ。そして、ある程度フリストと距離を縮めると、腕を開いた。体中の力を集中させ、呼吸を調整して、
叩き鳴らした!
猫騙し、と言う技だ。フリストの細い体がビクンと跳ね、止まった。そこに一秒遅れてハルモニアがたどり着いた。
「び、びっくりしたぁ……ハルモニア、いきなりなにするの!?」
「私のセリフよバカ! よく見なさい!」
フリストはハルモニアに恫喝され、彼女の指す方を見た。そして、自分たちを威嚇するポケモンの存在に初めて気づいた。
「そ、そういうことか……これ、倒すしかないかな」
「ちょっと動きを止めるだけで十分じゃないかしら」
にじり寄ってくるガマガルを、完全に仕留めようとするフリストを制し、ハルモニアは手を振り下ろした。
すると、ガマガルの足元に草が生え、彼を叩いて転ばせた。草結び、という技だ。
今度はムクバードが向かってくる。ハルモニアはエレキボールを当てようとしたが、なかなか当たらない。翼で打つを繰り出してきたので、後ろに飛んで下がった。
するとなんと、今度はフリストが果敢にもムクバードに向かっていったのだ。
「何してるの!?」
蔓の鞭で翼を打つを受け流し、善戦しているかに見えた。しかし、それはムクバード一体が相手であるからであって、後ろから近づくガマガルには対処どころか気づけてさえいない。それにムクバードにも善戦できているだけで倒せていない。
「バカ……倒さなくていいって言ったでしょ!?」
戻れと言っても彼女は聞かないだろう。今ここで猫騙しを打つのは逆に危険だ。こうなったら、もう一度ガマガルを転ばせるか……ん?
「そうだ、縛りの玉……」
ここで、ハルモニアはさっきの玉を思い出した、拾って持っていたが、これを持つと頭上に掲げた。玉の中から光があふれ。翼を打つを使おうとしたムクバードと何か技を打とうとしていたガマガルを硬直させた。
「負けるかっ! おらおらー……? あれ?」
「アンタ、止まりなさい。言ったでしょ、コイツらは倒さなくてもいいって。私たちの目的はあくまであの子を助けることなんだから」
ハルモニアはそう言ってマイルを指さした。マイルは未だに震えながら、しかし安堵と尊敬の目をハルモニアに向けていた。
「あ……」
「マイル、大丈夫!? 助けにきたよ!」
フリストとハルモニアは彼の下に駆け寄った。マイルは大きな紙の傍でじっとして、ぶるぶると震えていただけのようだった。紙にはグネグネの文字で「Mile」と書かれていた。
「……これがあのバカどもが言ってた大きな紙ってやつね」
ハイネスはジト目でこれを拾い上げた。湿った場所に放置されていたからか、少し濡れている。
なるほど、マイルはここまで来て名前を書くことはできた。しかしその後、今は後ろで硬直しているムクバードとガマガルに襲われてここから動けなくなったのだろう。
フリストは、震えているマイルに駆け寄った。
「マイル、大丈夫? リールたちから話を聞いて来たんだ。怪我とかない?」
「う……ううう」
彼はずいぶんとしおれていて、次の瞬間、大泣きを始めた。ハルモニアとフリストは、彼を慰めながら森の入り口まで送った。
森の入り口に近づくと、マイルは段々と泣き止んでいった。
「全く……キミを探すのも苦労したんだよ? これからは一人で危ないところにいっちゃだめだからねっ」
「よく言うよ、フリストだっていつも冒険ごっこでダンジョンとか行ってるくせに。……ねぇ、ところでこのポケモンは誰?」
心が落ち着いてきたのか、マイルはようやく初対面のハルモニアのことに触れた。
「私たちの学校の転校生だよ。明日から通うんだって! 名前は……」
このツタージャ……フリスト、私のことを村中に触れ回る気でもいるのだろうか? 全く、めんどくさい……。
だけど、良い奴。信頼できる奴だ。技が出せるようになったのも彼女のおかげだし、ちょっとくらい、仲良くしようかな。
「ハルモニア=ロイフォード。ハルモニアって呼んでも構わないわ。それより、着いたみたいよ」
そう言って、フリストとマイルは初めて目の前のリールたちに気付いた。
「か、帰ってきたのか……?」
リールは目を丸くしていた。マイルがうなづきながら件の大きな紙を目の前に置いた。リールがのぞき込む。ちゃんと名前は書かれてある。ただし、グニョグニョの文字で。
「……プッ、何だこれ、お前が歩いた跡みたいな文字だな。へにょへにょだ」
「う、うるさい! へにょへにょって言うな!」
「面白いな、みんなに見せて回ってやるぜ」
リールとシンは紙を取ると、村の方に走って逃げだした。
「ちょっと待ちなさいよ!」というレイラの声にも耳を貸さない。
「全く……」レイラは呆れたようにうなだれると、マイルの方を向いた。「あなたもあなたよ。何かあったらどうするの? 命は一つしかないんだから、危ないことはしちゃだめよ」
「ご、ごめん……それと、フリストと、ええっとハルモニア、ありがとう」
それに対し申し訳なさそうなマイル。フリストは「どういたしまして」と胸を張ったが、未だに気まずそうだった。