夕餉の話
――――数週間前。
キレイハナのテルル=サイネリアは、ある大学の食堂に座っていた。フェイル大学アルクエテキャンパス。農学部や理工学部の学生がひしめくキャンパスである。界隈では有名な術式変換の専門家、グリック=ランドルトを輩出した名門大学でもある。
件の専門家はテルルの前にどっかりと腰をおろして足を組んだ。
「よくこれたなお前。役所の事務員サンはさすがに休日出勤はないのか」
「あなたみたいに自分のラボに引きこもってるわけじゃないのよ」
嫌味に嫌味で返すテルル。別に、仲が悪いというわけではなく、この類いの煽り合いは二人が学生だったころからやっていたことだ。
だからといって、この二人が特別な仲であるというわけではない。ただ、学生時代から仲がよかった友人同士で遊ぼうということでここにいるだけだ。後から恐らく、数人くらいがやってくるのだろう。この場所には、まずグリックがいて本を読んでいた。そこにテルルがやってきた。少しの間雑談して、グリックがトイレにいって戻ってきてこうなっているわけだ。
「あ、そうだ。今度お前の雇い主さんに用があるんだけどそっちにいっていいかな?」
「サルジャーニー卿? ……うーん、その話は私にされても困るのよねー。私はただのエルセン街役所の事務員だからさぁ。直接手紙でも出した方が早いんじゃないかしら」
「はー? 使えねーなーお前」
「あ?」
「ごめんなさい何でもない何でもないです」
顔をしかめたテルルに対し逃げ腰なグリック。手を振った瞬間に、読んでいた本を落としてしまった。
ばたっと音を立てて、宇宙学概論という名を冠した書物が地面にたたきつけられる。
「あー落としたーお前のせいでーついでに単位も落としたー」
「やかましい私より一年長く大学に居やがったアホたれが」
「うるっせえ!」
このグリック=ランドルト、術式変換の研究で名をあげ、現在二十八歳にして数々の有名大学で教鞭をとっているのであまり知られてはいないのだが実は一留である。
この国では十六歳で全ての義務教育が終わり、大学受験の資格が得られる。四年間学部生として学び、多くの学生が卒業後科学者の道を歩む。グリック=ランドルトもその一人だったわけだ。ちなみに、テルル=サイネリアは文系だったため、科学者の道を歩むことはなく、エルセンの街でアーサー=サルジャーニーの下につくこととなった。
科学者は何を考えているのかわからないが、普段は死んだような目をしている。それに政治なんかへの関心も少なそうだ。国会議員になったが、任期中の発言が「議長、暑いので窓を開けてください」の一言しかなかった科学者もいるそうだ。確か、アイザック=ニュートンなる名前だったと記憶している。同名のルカリオが身内にいるなぁ、なんて平和なことを考えているテルルにとって、彼らが興味を持つものは予想がつかなかった。たとえば、さっきグリックが読んでいた本。
「ねぇ、それ何なの?」
「あ、これか?」
死んだような目はしていなかったが、テルルが宇宙学概論の本に目を向けると、何やらグリックの目がキラキラしだした。
「そんなの読んでて面白いの?」
「めっちゃくちゃおもしれえよ。なんかな、例えばこの世界の時間の流れ方とかパラレルワールドとかについて書かれてあるんだけどさ」
あ、やべえ語りだした。まぁこいつ喋ってる時が一番面白いし喋らせとくか。
「ほらこれとかさ、なんかこの世界ってループしてるらしいぜ? なんでも、時間の流れは永遠にまっすぐではなく、ある時を境に世界が生まれて、時間が流れ出して、ある時を境にその世界は終わるけどまた始まりに戻ってもう一度同じ時間を繰り返す、みたいな。この本の著者はそんな説を主張してるんだ。
で、そういう風にループしてる世界がいくつもあって、これをパラレルワールドって言うんだと。さっき言ったような時間が生まれる“時の境”を特異点って言うらしいんだけど、この特異点からパラレルワールドにいけるらしくてさ――――」
ふーん、と相槌を打たれながらグリックの声はテルルの脳を素通りしていく。こいつが何かを語ってるときの顔、すげえ面白いな、とテルルはぼーっと考えていた。
さて、イリーガルが帰った後に話は戻る。
「ごちそうさま。じゃあ、みんなも早く寝るように」
午後七時二十分。夕食を食べ終えたアーサー卿がトレーを持って立ち上がった。食堂にいる他のポケモンたちはそれぞれ生返事をしながら夕食を食べていた。
「ああ、そうだ」そこに、アーサー卿は思い出したように声を出した。「この前の誘拐事件の話だが……」
リリーとハイネスが口を止めて彼を見た。シャルルは当事者であったにも限らずそのままオレンの実を食べ続けていた。
「まだ頻発しているらしいんだ。
……で、なぜかわからないが決まってフェアリータイプのポケモンが誘拐されているらしい。うちの屋敷にいるフェアリータイプはシャルルだけだが、他も安全とは限らないから注意するように。もちろん娘は守ってほしいがね……」
そう言ってアーサー卿は食堂をあとにした。
「ねぇ、リリー」
ハイネスは食事に戻ろうとしなかった。
「なに?」
「あんた、フェアリータイプだったって言ってたわよね」
その瞬間、アイザックの手がぴたりと止まったが、二人は気づかなかった。
「そう……だけど、私は自分の身は自分で守るよ」
「違うわよバカ。この前イリーガルが言ったこと覚えてる?」
「イリーガル? うーん……」
そんなことを言われても、そもそも彼女の言葉の何を覚えてるかも覚えていない。
「私もよく覚えてないけど、確かイリーガルが誘拐されたのは彼女が……ええと、なんだったかしら」
「あー、何か特別な存在かもしれなかったから、だっけ?」
「そうよ。名前は忘れちゃったけど。
で、お嬢様も同じ理由で誘拐されて、別のフェアリータイプのポケモンも誘拐されてる。そしてアンタはフェアリータイプで、しかも本来とは違うタイプのポケモンじゃない」
「……えっ」
リリーは少し間を置いて、ハイネスの言葉を噛み砕いた。つまり、その特別な存在であるポケモンはフェアリータイプであることを、誘拐犯の一味は知っている。また、自分はその特別な存在の力のおかげで、フェアリータイプになっている……?
「つまり、私がその……誘拐犯が狙っているような力の持ち主ってこと?」
「……可能性はあるんじゃあないの」
「どうかなぁ……私がフェアリータイプなのは遺伝子変異が理由なんじゃないかな。ほら、こういう事例ってごくまれにあるみたいだよ……」
「ちょっと待て、お前フェアリータイプってどういうことだ?」
二人の会話に、斜め前にいたアイザックが挟まった。
「どういうことだって、そのままよ。リリーはフェアリータイプなの」
「イーブイなのにか?」
二人はうなづいた。
「聞いたことはあるな。鉱物を多く摂取していたゴローニャから生まれたイシツブテが鋼タイプだった事例もある。まぁ、体内の金属原子が多すぎたせいで細胞の結晶構造が崩れて、逆に防御力は落ちていたそうだが」
と例をあげたのはヴェルダンだった。海外の大学で化学を専攻していた彼の話は誰一人として理解しなかったが、とにかく少なからず存在は示されていた。
「? ま、まぁとりあえず、私はフェアリータイプなんだよ」
「そうか……見た目からじゃ何もわからないな。でつまり、リリーが特別な存在で、なんかその能力のおかげでフェアリータイプになってる……と?」
「あ、ううん、私がフェアリータイプなのとその特別な存在っていうのは……多分関係ないと思う」
「どうしてそう言い切れるのよ。むしろ本来と違うタイプのポケモンだなんて、十分怪しいじゃない」
ハイネスは怪訝な目つきだったが、彼女の発言は的を射ていた。リリーの体や、覚える技を見ても、それが魔女裁判だとは言い難い。
「違うよ。イリーガルが言ってたの。その“特別な存在”のポケモンは強い力を持っていて、誰も敵うことがないって」
「そういうアンタは、覚える技が全部術式変換されているんでしょう」
「覚える技がそうなっているだけで、強いとは限らないよ。それにイリーガルはちゃんと言ってた。技だけじゃなくて、そのポケモン自体も強いんだって」
「ふぅん……」
リリーがそう返すと、ハイネスはそれ以上言及してはこなかった。アイザックも興味は残しつつ、さっさとトレイを片付けて自室に戻っていった。そのうち、二人も夕飯を食べ終えた。彼女らはシャルルが食べ終わるのを待ち、連れだって戻っていった。
日付が変わるころだっただろうか。リリーはふと目を覚まし、寝室の窓の外から光が差し込んでいるのに気付いた。確か、昨日は三日月だったから今日は新月のはず。それに光の色はどす黒い紫で、月の光とは似ても似つかない。
「(……何?)」
リリーはいそいそとベッドから這い出ると、ハイネスを起こさないように窓際に歩いて行って、そっと外を覗いた。
紫色の光は、屋敷の門の方から出ているようだった。彼女の寝室は門から遠いところにあり、窓からは見えない。今から部屋を出て見に行こうとも思ったが、眠気に襲われて彼女の体はベッドに引き戻されていった。そのまま横たわり、意識を手放した。
そして数時間後。また窓から光が差し込んでいたが、それは紫色ではなく、明るい太陽の色だった。それに射られたハイネスが今度は目を覚ました。
「ふぁ……ん?」
起き上がろうとしたが、体が動かない。それもそのはず、リリーの前足が彼女の胴体に絡みついていたからだ。
「……リリー、起きなさい」
「んー?」なんとか離そうともがく彼女の耳には、力のない声が入ってきた。
「起きなさい。ていうか引っ付くな暑苦しい! ちょっと、くすぐらないでうひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ!!」
寝ぼけたリリーに悩まされるハイネス。くすぐられながらも、なんとか彼女の前足から抜け出すと、リリーの耳に噛みついた。ついでに、少しばかり炎もかけておいた。
「ぎゃんっ!?」
何しろ女の子が悲鳴をあげている部屋だ。誰かが通りかかっていたら気になって部屋のドアを開けていたかもしれないが、実態はただ二人が乳ぐりあっていただけである。
だが、部屋のドアを開けたものはいなかったが、部屋に侵入しているものが、今この場にいた。
「いや〜二人とも朝から盛ってますなぁ」
「は?」
聞こえてきたのは、リリーでもハイネスでもない他の誰かの声だった。いわゆる関西弁と言われるイントネーションで、これから漫才でもはじめそうな雰囲気である。
「もうちょい見せてくださいな。可愛い女の子がじゃれあってるの見るんは目の保養になります〜」
リリーとハイネスが声のする方に目を向ける。床に謎の影が伸びていた。影を作りそうなものは部屋の中にはない。二人が影を見たまま硬直していると、そこから何かが躍り出てきた。
紫に燃え盛る髪を抱く頭。体は小さい球体が一つで、首にネックレスをかけている。
ムウマというポケモンである。
「ぎゃあああああああ!?」
リリーとハイネスの悲鳴がぴったり重なった。
「すいませんなぁ、驚かせてしもて。それよりお二人さん、ここの住人なんですか?」
「あんた誰よ! どこから入ってきたのか、あと素性も答えなさい! それから私らは盛ってない!」
ハイネスが全身の毛を逆立てる。最後の一言は蛇足だった気はするが、リリーにもハイネスにもそんなことを考える余裕はない。
すると、相手のムウマは警戒されているにも拘わらずくすくす笑った。
「あっ、すんません。せやねぇ。私の方から挨拶せなあきませんなぁ。
私ツァーリ=J=クリームヒルトと言いますー。以後お見知り置きを」
ツァーリの比較的穏やかな物腰に、リリーは少し警戒心を解いた。だが、口調は固い。
「なんでここにいるの? 浮遊霊だからここに入ってこれたのはいいとして、何か目的でもあるの?」
「探し物がありますんでー。探し物ちゅーか尋ね人やけどなー」
と言って、ツァーリは顎元の宝石をギラリと煌めかせた。紫色の閃光が迸る。
「あ」
ひょっとして、夜の紫色の光は……?
リリーがツァーリの目を見ていると、彼女はゆったりとほほ笑んだ。