少女の記憶
「……それで、あなたはキルニに帰るのかしら」
グリックがアーサーに引きずられて出ていった部屋で、ハイネスは沈黙を破るかのように言った。
「ううん。帰りたくない……つまんないもん」
「そうよね。あんなところ、私も帰りたくないわ」
彼女の瞳は、恐ろしいほど殺意に燃え上っていた。リリーはおっかなびっくりに彼女とイリーガルを交互に見た。
さっきから、というか朝からハイネスのキルニの領主に対する罵倒が尋常でないことにも気づいていた。あれ、そういえば――――?
リリーはハイネスが別の街から来た流れ者であることまでは知っている。どこから来たかは生憎と忘れてしまっていたが……。
そういえば、彼女がこの街に初めて来たときは悲惨な状態だったそうだ。傷だらけで体毛は汚れ、死んでいるとも生きているともわからなかったらしい。そこを、早朝の散歩がてらに通りかかったアイザックに拾われた、と聞いた。あと一時間も遅ければ死んでいてもおかしくはなかったとも聞いた。リリーにその話をしていたとき、アイザックはこうも言っていた。
『街の西南の外れに橋があるだろ? あの子はそこでくたばっててな……いつもはあんなところ通らないんだけど、その日だけ気分が向いて郊外に出てみようって気になったんだ。そしたらあの子のお出ましだったんだ。びっくりしたかって? そんなもんじゃねえよ。背筋が凍るかと思ったわ。まぁなんか神サマがあの子を助けるように俺に何かしたんだろうな』
本当なら死んでいた。そんな死線を潜り抜けるような街――――噂でしかないが、そんな話はちょくちょく耳にしている。
「もしかして、ハイネスって、キルニの街の出身なの?」
「……そうよ」
表情を一切変えない沈黙は、肯定を示していた。寧ろ今更の話にも思える。
「嘘でしょ」イリーガルがそれを否定した。「お父さん、前に言ってたもん。キルニの街からは出て行っちゃだめって。だから、私の街から移住していった人なんていないんだよ。みんな捕まって、働かされちゃうんだって」
「それはあなたのクソ親父が住民から税金を取り立てるために作った制度よ。馬鹿げてるわ、街から出ていくのに4000ドルも取られるなんて。
だけど、住民税が払えなくなったからここまで逃げてきたの。本当は母さんも父さんも姉さんもいるはずだったんだけど……、ね……皆、死んだわ……」
ハイネスの声は震え、目は殺意に燃え、見るものをすべからく怯えさせるようであった。数年一緒にいたリリーも、ハイネスのこんな姿は見たことがない。
ただ、怯えに支配されるリリーの脳内の中、一つだけ、言葉にできないような疑問が渦巻いていた。なんだろう? わかるようでわかんない。
それよりも今は――――
「……だからハイネスは、この子の両親を……」
リリーに同情の言葉は思いつかなかった。
「グリックさんが言ってたでしょ。不幸や悲劇は力を持つ者がそれを濫用したことから起こるんだって。キルニの街はその良い例よ」
「……ごめんなさい」
イリーガルは、その怨みに気圧されたのかぼそぼそとしか言わなかった。
「あなたは悪くないわ。悪くない。けど……」ハイネスははっきりと否定したかと思いきや言葉をしりすぼみにした。シャルルの部屋の空気がどんどん重くなっていく。
「……あなたが生まれるとき、領主は住民全員に出産祝いを送らせたの。ただでさえ貧しいのに。
だから、あなたのことをキルニの住民はずっと憎んでいるわ。生まれなければよかったとさえ言う人だっていた。薄々気づいていたでしょうけど」
ハイネスは知ってか知らずか、イリーガルにさらに追い打ちをかけていく。リリーはそれを見ながら、止めようとはできなかった。
「あの領主は国から言われない限り領主の地位を動くことはないし、国の視察隊と仲がいいから、国から左遷命令が下ることもない……次の領主は多分あなたでしょうね。十年くらいしたら、あなたの親から言われるんじゃないかしら。そうしてあなたが新しいキルニの領主になったら、私たちに今まで奪ってきたものを返して頂戴。クソ親父の意向なんて無視して、全部。
今はまだ分からないかもしれないけど、そうね……戦えるようになるまで、十年の辛抱よ」
それだけを、彼女は伝えたかったのかもしれない。苦しんでいた街の民だった者として。年端もいかない女の子に。
「……返せばいいの?」
「そうよ。あなたにその権利が渡ってきたときにね。約束してくれる?」
ハイネスの言葉の中には誠実さがあった。イリーガルに求めているのと、同じくらいに。
「……わかんないよ。お父さん、怖いもん。それにおうちにも帰りたくない……でも、できるだけやってみる」
イリーガルは最後のできるだけやってみる、という言葉だけはハイネスの目を見て言った。幼くても、約束する、というその重みだけは知っているかのようだった。
そのとき、誰かがドアをノックした。
「シャルル? 入るぞー」
その声はアーサーのもので、彼は返事を待たずに入ってきた。もしもシャルルがあと五年早く生まれていたら激怒していただろうが、彼女は疲れたのかベッドでぐっすり眠っていた。
「ご、ご主人様?」
「おう、二人とも災難だったな」
誘拐事件に巻き込まれかけたリリーとハイネスを、しかしその落ち度を叱ろうとはせずアーサーは二人の頭を撫でて、そしてイリーガルに目を向けた。
「で、君は……ダンテセン侯爵の娘さんという話を伺っているんだが……」
その言葉にハイネスは顔をしかめ、イリーガル=ダンテセンはこくりとうなずいた。
「そうだね、イリーガルさんか。さっきお父さんに手紙を出しておいたから、明日か明後日にでも迎えがくると思うんだ。それまでうちに泊まっていくといいよ」
と笑いながら頭をぽんぽんとするアーサーに、イリーガルは見た目素直にもう一回うなずいた。
「はは、聞き分けがいいね。うちのシャルルとは大違いだ」
サルジャーニ卿は、さっきのハイネスとイリーガルの約束を知らない。
翌日の昼下がり。ダンテセン侯爵の使いであるというボスゴドラが屋敷を訪れた。彼は屋敷の正門の前に現れ、アーサー卿がダンテセン侯爵に宛てた手紙を見せた。文の〆にはアーサーの調印があり、手紙はヴェルダンがしっかりキルニの街まで届けている。アーサーは安心して、イリーガルを彼に引き合わせたボスゴドラはイリーガルに顔を覚えられているようで、彼女も疑うことなくボスゴドラのもとに駆け寄った。そこにいたのは、リリーとハイネスとシャルル。そして明日この街を発つというグリックだった。その中でただ一人、ハイネスだけが顔を強張らせていた。
「お嬢様、お怪我などは」
「……心配ない」
やはり故郷へ帰るのは不満が残るのか、イリーガルは少しブスッとして答えた。
「そうですか、では早々に帰りましょう。旦那様も奥方様もお待ちでございます。では、サルジャーニー殿、今回はお世話になりました」
そう言ったあと、ボスゴドラはアーサー卿の横にいる家臣たちを一人ずつ見て――――ハイネスを見たときだけ、数秒間目を合わせて、後ろを向いた。後方に控えている、ギャロップたちが運転する馬車まで、イリーガルの手を引いていく。
その姿を見るや否や、ハイネスはすぐさま屋敷の中に引っ込んでいった。そのあとを、リリーが追った。
「ハイネス、待ってよ」
屋敷の門をくぐるところで、ようやくリリーが追いついた。彼女は並んで歩きながら、時々横目でハイネスの様子をうかがう。ハイネスは無表情だったが、明るい顔ではない、というのだけは理解できた。
「……ごめんね、リリー」
「え?」唐突に漏らしたハイネスの一言に、リリーの思考は停止した。「どうして謝るの?」
「だって……怖がらせちゃったじゃない。それに、キルニの街の領主のこと、悪く言ってばっかりで、みんな嫌そうにしてたでしょ」
見てたのよ、とでも言いたげにハイネスは言葉を差し向ける。
「そうだね、そうだけど……でも」
「何よ」
「……えっとね、私ハイネスがあんなに怖い顔をするところなんて見たことないし、あなたがどこから来たかもあんまり考えたことないの。それに、時間旅行”が何かとか、なんでハイネスがそんなのを召喚できるのかもまだ知らないでしょ。
私たちいつも一緒にいるけど私はハイネスのこと知らないな、って。少なくとも、私はそれしか考えてなかったよ。だから……あんまり、気にしないで」
リリーはそう言ってほほ笑んだ。ハイネスの方を見たけれど、彼女はこちらを見なかった。
「何それ、変なの」
ただ、その直後に浮かべたしかめっ面はいつもリリーが見ているものと同じだった。