逃走劇
「んん……」
地面に落ちたシャルルはかすかなうめき声をあげると、頭を振りながら起き上がった。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
そこにハイネスが駆け寄った。麻痺は随分ととれて、もう問題なく動けるようである。
「え……う、うん」
シャルルはわずかにうなずくと周囲を見渡し、倒れているメタング、そしてワンリキー――――ロジャーと、ポチエナ――――ジャンに目を向けた。
「迂闊だったわ……卿から誘拐事件のことは聞かされてたはずなのに」
深くため息をつきながら、ハイネスはそう言った。
「そんなこと言わないで。私だってこの人がいなかったら危なかったんだから」リリーは彼女をフォローしながら、件のこの人、バシャーモを見上げた。「ごめんなさい、わざわざ助けてもらって……」
「なに、構わねえよ。サルジャーニ先生のお子さんだしな」
バシャーモはそう言うと、ロジャーとジャンのところに歩いていき、彼らを拾い上げた。その台詞に、リリーもハイネスも目を丸くした。
「卿と面識があるんですか?」
とリリー。
「まあな。後でこいつらを警察に送り届けたら話してやるよ。それまでこれでも食ってな」
と、バシャーモは木の実を放り投げた。ハイネスにはクラボの実、リリーにはオレンの実。
「あ、ありがとうございます……」
二人は礼を言って、その木の実を平らげた。その様子を見ていたシャルルは、バシャーモに詰め寄った。
「ねえねえ。私もお腹減ったー」
「ちょっ、お嬢様!」
「おう、遠慮すんな」
シャルルを制止するハイネスには目もくれず、バシャーモは桃色のポフィンを渡した。そして、彼はメタングのところに歩いて行った。
「それで君たち……アーサー卿の従者かい?」
「あ……はいっ」
ポチエナとワンリキーを肩に抱える彼は、そのままメタングを拾い上げようとした。
「そりゃあ丁度よかった。卿の家を訪れる途中なんだがね、迷ってはないんだが……一人で手持ち無沙汰だったんだ。道案内でもしてもらえるかな」
「は、はあ……?」
「(知り合いかしら?)」
と言われても、リアクションに困ってしまう。助けに入ってくれたのは良いが、それがいきなりすぎて、どうにもうさん臭さがぬぐえないのである。
「フェイル大学の卒業なんだがね、アーサー卿は大学に入るまでに世話になった恩師なんだ。……ああ、俺はグリック。グリック=ランドルト。気軽にドクター・ランドルトとでも呼びたまえ……あん?」
言っている途中で、いきなりグリックの肩に乗っていた二人が暴れだした。彼が二人を放り投げると起き上がった。同時にメタングも起き上がる。
「チッ、そこそこ火力のある技を打ち込んだつもりなんだがな……」
グリックは拳に炎を纏い相手に対峙した。リリーとハイネスも、シャルルの前に立って体を低く構えた。
が、グリックは拳の炎を消すと、一歩下がった。
「いや、お前たち……これは逃げた方がいいぞ。というか逃げろ。後ろに下がれ!」
「え?」と固まるハイネス。リリーはハイネスのしっぽを咥えると、シャルルの手を取って後ろに下がった。
「ちょっ……」
間一髪、彼女らのいたところに、拳が生えた。緑色の岩のような拳は、穴を掘るという技を外したらしくすぐに飛び出てきた。腕と同じく緑の体に、平たい棘をいくつも背中に生やしたポケモン。バンギラスという種族の彼は、ストーンエッジを彼らに向けた。
「まずい……逃げな!」
有無を言わずに駆け出すリリーたち。それを見届けてから、ドクター・ランドルトも同じ方向に走り出す。
「お嬢様、走れますか!?」
「うん!」
リリーの問いに、シャルルは念力で自分を浮かせることによって答えた。こうした方が早く移動できるという無言の答えでもある。
「追え!」
バンギラスの叫びを後方に聞きながら、彼らは走って行った。
「おい、市街地に入るぞ!」
「はい!」
グリックは彼女らの速度を見ながら、町の中の通路に入って行った。商店街の中を走る彼らに、街中のポケモンたちが注目する。グリックが後ろを向くと、あまり遠くないところにバンギラスたちの姿が見えた。
「まずいな……二手に分かれるぞ!」
「無駄ですよ! あいつらの目的は最初からお嬢様みたいです!」
「ちっ……」
「あのっ」
せっかくの案をつぶされたグリックに、ハイネスが話しかけた。
「卿のお屋敷ってわかりますか?」
「おう、この街の北の方だっけ」
「そこに行って、ヴェルダンとアイザックという人たちを呼んできてくれませんか?」
「バカか? 嬢ちゃんの護衛を減らしてどうするんだ。大の大人が子ども一人を見捨てるなんて面子が立たねえだろ」
「私たちなら大丈夫です!」
リリーはそう言って、証明するかのように目覚めるパワーを構築し、宙返りで後ろに放つ。寸分違わずに、追手の一人に命中した。走りながらの確認で、一瞬しか見えなかったがグリックにも確かに認められた。
「ふん……卿に召し抱えられるだけのことはあるなぁ。捕まんなよ」
瞬間、彼は地面を蹴ると、そばにあった商店の屋根に飛び乗った。
「気を付けろよ!」
そう叫びながら、彼は北の方へ消えていった。
「あの二人が来てくれるなら、安心かな……?」
「油断してんじゃないわよ! ……ん」
そのまま、走っていく彼らの目の前に一人のクチートが立っていた。
「ちょ、ちょっとどいてくれない……きゃっ!?」
クチートは顎を大きく開くとシャルルに噛みつこうと顎を彼女らの方に向けた。ハイネスとシャルルが勢いを殺しながら止まった。
「こいつも敵だよっ!」
リリーはすかさず、電光石火でクチートを薙ぎ飛ばした。だが、そこまでダメージを負っている様子もなくすぐに立ち上がった。後ろからはバンギラスたちの集団が迫ってくる。
「ど、どうするの……! 捕まっちゃう」
「ハイネス、お嬢様を連れてそっちに逃げて!」
「えっ」
「すぐに追いつくよ!」
リリーはうろたえるハイネスとシャルルを、商店街から伸びている大通りの方に進むよううながした。今来た方向からだと、ちょうど右折になる。
「無茶しないでね。じゃあ、お嬢様」
「うんっ」
ハイネスとシャルルは瞬く間に大通りの方に消えていった。それを確認する間もなく、リリーは体勢も整えずに、追ってきたバンギラスたちにハイパーボイスを放った。轟音が商店街を劈いていく。町を歩く数多のポケモンたちが耳を塞いでうずくまった。
「ううっ!?」
リリーは商店街に被害を出さないように、声量を絞った。そして、すぐ後ろに迫ってきていたクチートに、もう一回電光石火を当てるとそのままの勢いでハイネスたちを追った。
「ハイネス!」
瞬足でかける彼女に、大通りを歩くほとんどのポケモンの注目が集まる。
「リリー、大丈夫!?」
「私は大丈夫。それより……」リリーは心配げに、シャルルの方を見た。
「どうしたの?」
実は気丈なシャルルは強がって何でもない風に振る舞っているが、疲労とともに念力の威力が下がってきているようで、青い光が薄くなり、速度も徐々に落ちていっている。ハイネスもそれを感知しているようだった。
「ねえ、路地の方に逃げましょう」彼女は、大通りから何本も伸びる路地に入りこもうとしては何回もリリーに止められた。
「ううん、それはまずいよ。相手は多分路地の中にも罠を張ってる。さっきのクチート、見たでしょ」
「でも、こんな人目につくような場所より見つかりにくいはずでしょ! 二人とも、次の角を右に曲がるわよ!」
「で、でも……」
「早くっ!」
ハイネスは颯爽と右に曲がった。
「ああも……ん」
彼女について路地に入りこんだシャルルを引き戻そうとして、リリーは前方三十メートルほど先にズルッグがいるのに気付いた。
「……し、かたないなぁっ!」
あのズルッグもクチートと同じく待ち伏せだ、と本能に告げられたリリーは路地に入り込んだ。
だが、その判断すら間違っていたようだった。先に行ったシャルルとハイネスを追ったリリーは、彼女らに追いついたときにそれに気づいた。三人がたどり着いたのは、行き止まりの場所で、三方向を家々におおわれている。そして、彼女らが来た方向。すなわち家がない場所には追っ手のバンギラスたちが早々に肩を上下させていた。バンギラスの横にはメタング。その両腕には、先ほどのリリーのハイパーボイスでくたばったと見えるロジャーとジャン。バンギラスの後ろには、クチートとズルッグが控えていた。
「さっきからちょこまかと逃げやがって……やっと追い詰めたぜ。大人しくシャルル=サルジャーニ嬢の身柄をよこせ。よこせば俺たちは何もしない」
バンギラスの巨体から放たれる声は低くおぞましく、リリーは少し身震いした。が、一応彼女はシャルルの遊び相手であり、護衛である。そんな意識が働いたのか、一歩歩み出てこう言った。
「……や、無理ですね。一応お嬢様を守ることで私の生活は成り立っているんで、簡単には渡せないです」
「ふん、よく言うわ。毎日寝てばっかのくせに」
ハイネスはそう嫌味を返したが、彼女の鋭い視線はまっすぐ敵に突き刺さっていた。
「自分の身は大切にした方がいいぞ」
バンギラスはそう言って、拳を開いた。それを見るなり、リリーは前触れもなく雄叫びをあげた。
「っ!?」
唐突なハイパーボイスが、彼らを襲う。メタングが両腕のポケモンたちを取り落し、ズルッグが吹っ飛んで倒れ、動かなくなった。
「ナイスよリリー!」
ハイネスはそう言って息を吸い込むと、炎を吐き出した。炎は渦の形をとり、うごめいていく。
「てめぇ……おい、やれ」
「了解」
バンギラスが指示を出した瞬間、メタングの応答とともに体が光り、リリーのハイパーボイスがかえってきた。ハイネスの炎の渦は跡形もなく消え去り、轟音が三人を襲う。
「なっ……」
「い、あっ……」
ハイネスとシャルルが声もあげずに倒れる。メタングのミラーコートが体にもろに刺さり、リリーも動けなかった
「これでしばらくは動けんだろう。撤収するぞ」
「サルジャーニの娘以外はいいのか」
「抵抗しなければなんの問題もない」
そう言って、バンギラスはシャルルの元に歩いていき、彼女を拾おうとした。その時、かすかなうめき声が彼の耳に届いた。
「……じゃ、あ、問題大有り……だね」
うめき声はリリーが出していた。彼女はがくがくと痙攣する足で、なんとか立とうとしていた。
「それで、一発でも技を出していたら褒めてやったんだがなぁ」
バンギラスは彼女を鼻で笑い、無情にも最後の抵抗を見せようとするリリーを蹴り飛ばした。そして、シャルルに腕を伸ばした。
「やめ……ろ、連れていくな……!」
リリーはほとんど明滅して消えかけている視界の中に、バンギラスをにらむ。彼はしゃがみこみ、シャルルの様子を見ていた。彼女はやめろ、と叫んでいたつもりだった。だが、それが彼にまで届くことはない。届いていたところで、彼はやめなかっただろうけれども。バンギラスはまだ診療を続けていた。さっきの一撃で重傷を負っていないか。このまま連れていっても問題はないか。本当に大丈夫か。
そして問題ないと判断し、
吹き飛ばされた。
「がっ!?」
「リーダー!?」
今まで無機質な平坦な声を出していたメタングが、初めてうろたえた様子を見せた。バンギラスは後ろに吹き飛ばされ、何が起こったのかわからないまま起き上がった。
リリーはリリーで、何が起こったのかは理解できたが、それがなぜ起こったのか理解できなかった。ぼやけた視界の中、シャルルを護るかのように、青い四足の巨大な生き物が立っている。およそ背丈は家の屋根を超えるほど。その足元に、ハイネスが立っていた。無表情で、瞳が青く光っている。
「嘘だろ……時間旅行だと!?」バンギラスの声が、一オクターブも上がる。「空間遷移が見つかってないんだ、時間神だなんておよびじゃ……」
青い四足の生き物は、長い首の付け根についている宝石をきらめかせるとそこから光線を出した。たった一撃だが、回りを襲う衝撃波が、それで充分であると示していた。
「おい、ランドルト。本当にこっちなのか?」
グリックはファイアローのヴェルダン=フィンジーマンに飛び乗り、途中で分かれたリリーたちを上空から捜索していた。
「ああ。俺がお前を呼びにいったときはこっちの方に逃げてたよ」
最初は、なぜ彼女らを置いてきた、とヴェルダンはひどく激高したが、その彼女らの判断に委ねたのだ、と説得して、いくらか怒りは収まってくれた。しかし――――
「ふざけるな、どんなに強いにしてもまだ三人とも未熟なんだぞ?」
「それはそうだが、誘拐犯を連れてここに逃げ込むわけにもいかねーだろ。大体、俺の渾身の一発で倒せなかったんだ。助けを呼んだ方がまだマシと判断したのさ。あの中で俺が一番足が速かったのもある」
「だからと言って子どもを見捨てるやつがあるか! そもそも、領主の娘が不審者に追われていれば通報が入るだろう!――――まぁいい、案内しろ」
という会話があったというのはまた別の話である。
「見つからないな……途中で曲がってはないだろうな?」
「俺が途中で別れてから曲がったかもしれんな……おい、ちょっと高度を下げてくれ」
彼らは商店街をまっすぐ行った方向を見下ろして、くまなく彼女らを探していた。
「どうすんだっての……ん?」
そのときに、ヴェルダンは高度を下げながらあることに気付いた。
「なぁあそこ。すごいことになってねえか?」
「うん?」
飛びながらなのでヴェルダンがその場所を指さすことはできないが、グリックもすぐその場所が分かった。その部分だけ、何か被害を受けている。
「そうだな……ちょっとおろしてくれ」
「おう」
そう言うと、ヴェルダンは今度は否応なく地面に向かった。飛び降りても問題ない高度まで下がると、グリックは勢いよく飛び降りる、その様子に、周囲のポケモンたちは少々驚いていた。ヴェルダンは旋回すると、近くの屋根に降り立った。
「あのーすんません」グリックは近くにいた、商店の散らばった箱を元に戻しているモロバレルに話しかけた。
「あ?」
モロバレルは、商品をめちゃくちゃにされていささか不機嫌なようだった。だが、グリックは気に留めなかった。
「この近く、なんかあったんですか? 随分ひどいことになってますけど」
「ふん。なんかも何も、ついさっきその辺で小娘とおっさんが追いかけっこしてたんだわ。それで小娘のうち、イーブイのクソガキが牽制のためかなんだか知んねえけど、ハイパーボイスみてえなもんを打ちやがってよぉ。おかげで店がほれ、ご覧の通りだ」
モロバレルは箱を担ぎ上げ、元に戻す作業を何回と繰り返しながら言った。
「(シャルル嬢、あの子らと合わせて小娘扱いされてんな……通報ははいんねーぞ多分)」
と心の中で突っ込みを入れるグリック。
「それだけならまだしもよぉ、バンギラスのおっさんが図体でかいくせに能無しでよぉ。狭いところも無理に通ろうとするもんだからめちゃくちゃだ。あいつら、今度見かけたらただじゃおかねえ」モロバレルがそう言って指した先には、無残に踏みつぶされたオレンの実が散らばっていた。
「ふーん、なるほどなるほど……そいつらがどこに行ったか見てませんか?」
「ん? なんかあっちの方に曲がったみてえだけど……おめえ、よかったらあいつら連れてきてくんねえか? せめてこの商品だけは弁償させねえと、売り上げに響くんだわ」
とモロバレルが言うと、周囲の別の店のポケモンたちもグリックの方に注目した。
「え、えっ……ま、まぁできればそうしたいっすね……はは」
グリックはその視線から逃げるように、店の屋根に飛び乗った。下からは「おい飛び乗るんじゃねぇ!」という怒り声が聞こえてきたが無視した。今はそんなコメディに興じていい場合ではない。
「何か分かったのか?」
「……ああ、ついさっきリリーたちがそこをまがったらしい。で、あっちにいったから」
と、そう言いながらグリックが指をさした瞬間、その方向から光とともに轟音が聞こえてきた。
「なんだ? おいランドルト、今何か聞こえたな」
「そう遠くない。行くか」
ヴェルダンに乗ることはせず、グリックは店の屋根を伝ってその場所を目指した。