誘拐事件は突然に
ある日の朝だった
「ふぅん……誘拐事件があったのか」
アーサー=サルジャーニ卿は新聞を読みながら朝食の席でぼやいた。リース国の東西南北に名を轟かせ、無論このエルセンの街でも売り上げトップを誇る新聞紙、フェイル・タイムズである。週に一度しか発行されないため情報の鮮度は他社に劣るが、その正確性は群を抜いて高いと名高い。その新聞に載っている情報であれば、まず間違いはないだろう。
だが、そんなアーサーのぼやきを聞いても彼の家の使いたちはあまり反応しなかった。
サルジャーニ家では朝食、夕食がそれぞれ朝と夜の七時に出る。そのときに家のポケモンたちは見張り番の担当以外を除いて食堂に集まり食事をとる手筈になっている。テーブルについているのはアーサーと娘のシャルルを含め七人。リリーだけが耳をピクッと動かしたが、それ以外誰も何も言わない。アーサーは少し気まずさを覚え、苦笑いを浮かべた。
それに見かねたのだろうアイザックが、とうとう口を出した。
「……どこですか?」
「ん」情けをかけられたのはわかっているが、それでもアーサーは嬉しそうに口許を綻ばせた。「キルニの街の領主の娘だよ。数日前に行方不明になって、誘拐された目撃証言だけが手がかりだと」
「キルニ……?」そのとき、パンを頬張っていたハイネスが顔をあげた。「キルニの領主って、無能なくせに威張ってて領民から嫌われてるって話じゃない」
「こらこら、そんなこと言うんじゃない」
アーサーは新聞をめくりながらそう返した。エルレイドである彼は、肘の刀をしまい頬杖をついている。
「事実よ。そのうち、領主さんのところに脅迫状が届くんじゃないかしら。娘を返してほしければ領地と伯爵の地位を破棄しろ、とか」
ハイネスはそう言いながら目の前のリリーを見た。彼女はいつもの通り間抜けた顔で首をかしげるかと思ったが、今回はそうではなかった。
「……いや、違うと思うよ」
彼女はそわそわと、何かを心配している風だった。
「そう……まあ、そうよね」
「うーん、私は……そうだなぁ、やっぱり身代金を要求されるんだと思う……
それにキルニだけじゃなくてこの街でも誘拐事件は起きると思うんだよ」
「シャルル様が誘拐されるって言いたいのか?」
唐突にアイザックがそう言い放った。ばかばかしいと思っているようで、彼も疑っているようだった。
朝食の席にいるファイアローのヴェルダンとキレイハナのテルルもリリーの方を見た。
「えっ……いや、その……ただ私は、気を付けたほうがいいんじゃないかって……」
その場にいる全員の視線を浴びたリリーは委縮して、言葉もしりすぼみになっていった。
「まぁそうだな。気を付けておくことに越したことはない。シャルル、外に出るときはくれぐれも一人にならないように」
アーサー卿がリリーを救うように言うと、シャルルは何も言わず、首だけをたてにこくこくと振った。
「みんなも、シャルルのことを頼むぞ。ただし、自分の身は大切にするように」
そう言って、アーサーはトレーを片付けにいった。アイザックが彼に続く。
「ははは、荷が重いな」
アイザックはリリーの頭を撫でてトレーを持って去って行った。
「ん……」
リリーは撫でられた頭をフルフルと振った。
「お嬢様、朝食は食べ終わりました?」
そう言いつつ、ハイネスはトレー代わりのハンカチを口に咥えた。(フォッコである彼女はトレーを持っていくのが難しいからである)
「うんっ。遊びにいこっ」
シャルルは軽快に、しかしゆったりとした口調で言った。ほんわかという擬音語が似合いそうな彼女であれば、誘拐するのにそこまで手間がかからなさそうなのがリリーの恐れているところである。リリーはハンカチを咥えて、先に行ったハイネスとシャルルを追った。
「ねぇ、今日はどこにいくの?」
ほぼ毎日、シャルルはその日の行き先をリリーとハイネスに委ねている。エルセンの街は石畳とレンガの街で、遊びどころは掃いて捨てるほどあるが、二人ともその全てを知っているわけでもないので、その問いに答えるのに四苦八苦するのだった。
とりわけ、さっきのような誘拐事件が朝食の席で話題になったとなれば、彼女らの行動範囲はさらに狭まっていくのもやむない。路地裏や地下道は暗く人目にもつきにくいので女子供を拉致するにはうってつけの場所だ。
かといってあまりにも開けすぎた場所だとシャルルはどこまででも行ってしまうのだが、悩んだ挙句二人は昨日も行った川の土手まで行くことにした。
「でも、ここだとアンタ仕事ほっぽって寝るのよね」
「えっへへ、ごめんごめん」
ハイネスの強い口調を、全く反省してないようなリリーの声が覆う。
「ごめんじゃないわよ! アンタ抜きで一人お嬢様に振り回される私の身にもなってみなさいな」
そんな二人のやり取りを、主人であるシャルルは笑いながら聞いている。
と思うと、彼女の角が青く光った。
「えへへ〜。じゃあ、今日はリリーが相手でいいの?」
「へ?」
次の瞬間、リリーの体までが青く光り、彼女は宙に浮いた。
「えいっ!」
「ちょ、ちょっと!? きゃあ!?」
恐らく、年齢的にはリリーの方が上なのだが、体格差も手伝ってかシャルルの念力の前にはそんなもの関係ない。
「お嬢様、くすぐった……ひいいいハイネスっ!」
宙を舞うリリーはハイネスに助けを求めたが、彼女は草の上に座り込んで毛づくろいを始めていた。昨日リリーが寝ていた場所だ。
「やめてぇぇ……」
そのとき、シャルルの念力が解かれた。自由になった彼女は器用に足から着地した。その際に、ワンリキーとポチエナの二人がこちらに向かってくるのが目に入った。
「ねえねえリリー、次はこれ」
「はい?」
さっき悲鳴をあげていたにも拘わらず、リリーは何も警戒せずシャルルの方を向く。シャルルの右手には石ころがあった。
「えへっ、とってこーい!」
彼女はそれを思いっきり投げた。リリーはちょっと笑ってから、その石ころを追いかける。石ころが放物線を描き、彼女がもう少しで追いつくというところで、石ころは急に浮き上がった。
「ふぇえっ!?」
また、シャルルの念力が発動したのだ。石は空中で上下左右前後に自由に動き回り、リリーの口の中に収まることがない。
「ちょ、ちょっともう、お嬢様!」
ぴょんぴょん、とリリーは跳ねた。「お嬢様」という彼女の一言に、目ざとい二人が反応したことには気づかなかった。
ハイネスは毛づくろいを続けていた。しっぽの毛をなめていて、ワンリキーが自分の目の前を通過したのは放っておいた。どうせ近所の誰かが遊びにきたのだろう、くらいにしか考えていなかったからだ。
しかし、そのワンリキーはシャルルの後ろに立って彼女の後頭部を強く殴った。
「痛っ!」
シャルルが悲鳴を上げた瞬間、ハイネスは飛び上がった。視界には、草の上に倒れるシャルルとそのそばにワンリキー。
「……何、してるの?」
リリーは石が唐突に動きを止めたことでこちらの状況に気付いたようだが、距離が離れすぎている。
ハイネスは火の粉を放とうとした。無闇に打っては、シャルルに当たるかもしれないので慎重に、狙いを定めて――――。
「ジャン、そこだ」
ワンリキーがそう言った途端、後ろからジャンと呼ばれたポチエナがハイネスの胴に雷の牙を食い込ませた。
「……ッ!」
電流が走り、ハイネスは麻痺状態に陥った。
「よし、ずらかるぞ」
明滅する彼女の視界で、ワンリキーがシャルルを抱え上げるのが見えた。
「あのイーブイはどうするよ?」
ハイネスの上から、そんな声が聞こえた。
「お前が牽制しておいてくれ。その間に俺はこいつを連れていく」
「合点」
ジャンは、リリーを迎え撃とうと彼女がいた方に走っていく。だが、その場に彼女はいなかった。
「は?」
走り出したワンリキーに向かって、リリーは電光石火で肉薄し背中に追突した。
「げぇっ!?」
ワンリキーはバランスを崩し、シャルルの体が宙を舞う。リリーはシャルルを背中で受け止めてそのまま方向を変え、ハイネスとワンリキーたちの間に位置するところで止まり、シャルルを地面に下ろした。
「お、おいロジャー!」
転んだワンリキーの元までジャンが走っていく。
「っつぁ……何だ、今の……」
電光石火のダメージはそこまで大きくないようで、ロジャーはすぐに立ち上がった。
「嘘だろ、ホエルオー二体分はありそうな距離じゃねえか……どうやったら一瞬で詰められるんだよ」
ロジャーとジャン、彼らは毛を逆立てるリリーに対峙した。
その様子を傍から見ていたバシャーモがいた。
「ふーん……今の電光石火、多分“術式変換”だよなぁ」
彼の眼下では、技や攻撃を打ち交わす三人の姿がある。
「……ん?」
ワンリキーが、イーブイに空手チョップを振り下ろした。それをイーブイは頭で受け止める。
ノーマルタイプなのにダメージは少ないようだ。
「おいおい待て待て……その反応はむしろ効果が半減してるときみたいじゃねえか……」
ポチエナが横に回り込んで、イーブイに何か技を仕掛けようとした。その瞬間にイーブイの姿が消え、高速で動く影がポチエナとワンリキーを打倒した。二人が起き上がる前に、イーブイはワンリキーの方にあくびをかけて、ワンリキーは幾秒も経たずに眠りについたようだった。
「それで術式変換を二つ持っているのは反則じゃねえのか……」
ぼそぼそとそんなことを呟くバシャーモは更に目を見張った。
イーブイは眠ったワンリキーをしり目に、よろよろと起き上がったポチエナにハイパーボイスを打った。
離れたところから見ているバシャーモでさえ思わず耳を塞ぐ轟音だった。
「っ……! なんだよあれ、フェアリースキンでもかかってるんじゃねえのかよ」
ポチエナは数十m吹っ飛ばされて伸びた。
「さすがに、術式変換でもおかしいだろ……アイツ、何なんだ」
ジャンを吹っ飛ばしたリリーは、ロジャーがすぐに起き上がっているのに気付いた。
「あれ、眠りが浅かったみたいだね」
「おかげ様でな。ただよぉ……お前、普通のイーブイじゃねえだろ。どう見ても」
「お生憎様、私実はフェアリータイプなんだ。ついでに特性はフェアリースキン」
「ふーん」
通常、イーブイはノーマルタイプのはずだ。ポケモンのタイプが本来と違う事例も、殆ど耳にしない。だが、今の一連の流れでロジャーは相手がその「通常」ではないことを感づいていた。本来なら相性抜群の空手チョップが通じない上に、ハイパーボイスの威力が尋常じゃなく高い。単なるノーマルタイプの技の威力をあそこまであげるのは、彼はあの特性以外に思い当らなかった。
「……仕方ねー」
ロジャーは地面につばを吐いた。
「ボス、頼みます」
リリーがその言葉の意味を理解する前に、彼女の体に強い衝撃が走った。
「あっ……」
さっきのポチエナのように、吹っ飛ばされて地面を転がった。
「……何、今……の」
その一撃でひどくダメージを負ったようで、体が思うように動かない。それを振り切って目を開けると、彼女がいた場所の丁度後ろにメタングがいた。右手にシャルル、左手にジャンを抱えている。
「アイアンヘッドだ。お前がフェアリータイプなら今のは堪えるだろうな」
メタングは背後から忍び寄っていたらしい。もう、リリーも動けないと見た彼らは背中を向けた。
「やめ……ろ……連れて、いくな……!」
体中の痛みを我慢して、リリーは立ち上がろうと足に力を込める。ゆらゆらと揺れる視界の中で、ハイネスが目覚めて立ち上がろうとしているのが見えた。
「アンタねえ……大事な時に役に立たないんだから……」
どちらもまともに動けない。メタングとロジャーはどんどん遠くに消えていく。
だが、彼女らが絶望しかけた瞬間だった。
二人があゆみを止めた。
「……?」
リリーは目をこらしてその場を見た。ロジャーとメタングの前に、紅いポケモンが立っている。名は確か、バシャーモ。リリーは恐れ半分、希望半分で彼らに近寄っていく。
「……」
「……」
最初は遠くて聞こえなかった会話が、だんだん聞こえるようになっていった。
「なんだ、貴様」
メタングは無機質な声だった。
「何でもないよ。ただ、お前が右手に乗せているそのラルトス、解放してもらいたいと思ってね」
――――味方?
リリーはそう思ったが、あのバシャーモは恐らく、アーサー卿の部下などではない。何者かも彼女は知らない。
「そうかい、残念だがそりゃあ聞けない相談だ」
笑いを含みながら、今度はワンリキーが声を発した。
「だろうな。まあ彼女らを暴力で黙らせてまで連れ去るんだからな……ただ、聞けないなら力づくで聞かせるしかないんだぞ。お前らが暴力をもってその子を連れ去るなら、俺も暴力をもって答えさせてもらおうか」
バシャーモが言った瞬間、彼は炎のパンチをワンリキーに打ち込んだ。熱風がリリーにまで届く。ロジャーは倒れた。
「なっ……」
唐突の出来事で固まっているメタングに、下からブレイズキックが打ちあがった。 メタングが吹っ飛ばされて動かなくなり、ジャンとシャルルが宙を舞い、同時に地面に落ちた。
「お嬢様!」
いつの間にかリリーの近くまで来ていたハイネスが、麻痺を振り切って駆け出した。