泳げなかったシャワーズ
泳げなかったシャワーズ
これは、ほんの少し昔のお話。
もう誰も覚えていない、一匹のシャワーズのお話。
このお話は、決してハッピーエンドではありません。
少なくとも、私にとってはそうでした。
彼にとっては、あれこそがハッピーエンドだったのかもしれないけれど。
私にとっては、後悔ばかり溢れるお話です。
それでも、私は彼を忘れることができませんでした。彼を記憶の奥にしまいこむことはできませんでした。
私にとって、彼のことはとてもとても苦い思い出で、
けれども、同じくらいに大切な想い出なのです。
どうか、聞いてやってください。
これは、泳げなかったシャワーズのお話。
彼と、私のお話。
◆
それは、とある小さな島が舞台のお話。
たくさんのポケモンたちが暮らすその島に、一匹のシャワーズが住んでおりました。
――どうして、どうして僕は、シャワーズなんだろう。
シャワーズはとぼとぼと俯いたままに歩きながら、そんなことを考えておりました。
「はぁあ……。進化し直したい」
大きくため息をついたところで、そのため息が彼をイーブイに戻すことはありません。そんなこと、もちろん彼も分かってはいましたが、そうせずにはいられないほどシャワーズの心はユーウツで溢れていました。
何故ならば……。
「あー! 泳げないシャワーズ見っけ!」
……そう、彼は“泳げない”シャワーズだったのです。
「うぅっ……」
嫌な相手に見つかった。そう思ったときには、既に手遅れでした。季節が一巡りする前に生まれた仔イーブイたちに囲まれて、シャワーズはたじろぎました。額に嫌な汗が伝います。
しかし、そんなシャワーズの気持ちなど知らない仔イーブイたちは、逃げ場を与えないとでも言わんばかりにシャワーズをしっかりと囲んで彼を囃し立て始めました。
「やーいやーい。泳げないシャワーズ。かっこわるーい!」
「かっこわるーい!」
返す言葉もありません。それは、誰よりもシャワーズ自身が思っていることです。自分で認めてしまっている以上、反論の言葉がシャワーズの頭に浮かぶことはありません。
「しょ、しょうがないだろ……。水、怖いんだもん」
何とか絞り出したのは、そんな弱音でした。まだイーブイだった頃に川で溺れて以来、その拍子に水底に沈んでいた“水の石”に触れてシャワーズになったときから、彼は水が大の苦手でした。
また、溺れるのが怖い。どれだけもがいても水面に辿り着かなかったときのあの恐怖を、今でも鮮明に思い出すのです。
進化してから何度か水に触れてはみましたが、すぐに恐怖が先んじてしまい、シャワーズは泳ぐことを諦めていました。
――きっと、また溺れちゃう。
そんな気持ちが表に出てくると、シャワーズはすぐに水辺から離れたくなるのです。あんなに苦しい思いは、二度と味わいたくなかったのです。
だから仔イーブイたちにからかわれても、彼には「水が怖い」と返すことしかできませんでした。
が、そんな理由だけで納得するほど、仔イーブイたちはまだ聞き分けが良くありませんでした。
「シャワーズのくせに水が怖いの〜?」
「なんでなんで〜?」
「ねえ、なんでなんで〜?」
「教えてよ〜」
「教えて教えて〜」
「うぐぅ……」
素晴らしい連係プレイです。ぐうの音も出ません。こうなると、仔イーブイたちは飽きるまでシャワーズに食ってかかるのです。
さて、今日も今日とて俯いたまま黙りこんで仔イーブイたちが飽きるのを待つか。
そんな風にシャワーズが思考を巡らせたときでした。
「こらー! 弱い者いじめしちゃダメっていつも言っているでしょう!」
凛とした声が、辺りに響き渡りました。その声にそれまでシャワーズに「なんでなんで」攻撃を繰り返していた仔イーブイたちが、一斉に振り返ります。
「リーフィアお姉ちゃん!」
「リーフィア姉ちゃんだー!」
仔イーブイたちが瞳をキラキラと輝かせて見つめる先の一点に、一匹の雌リーフィアがいました。青々と輝く植物によく似た体毛を靡かせて、リーフィアは仔イーブイたちと彼らに囲まれたシャワーズへと歩み寄ります。
シャワーズたちの目と鼻の先の距離までやって来て、リーフィアは困ったように苦笑いを浮かべました。
「シャワーズにだって、答えたくないこともあるのよ。せっついたりしたら駄目よ」
美味しい木の実を取って来たから、皆で仲良く分けなさい。とリーフィアが前足で後ろの方を示すと、それまでシャワーズにぴったりとくっついて離れなかった仔イーブイたちはあっさりと彼の周りから離れ、リーフィアが指し示した方向へと一目散に駆けていきました。
少しして、シャワーズは申し訳なさそうに口を開きました。
「ごめん。リーフィア」
「そう言うときは、『ごめん』じゃなくて『ありがとう』でしょう」
幼なじみのリーフィアに窘められて、シャワーズはしゅんと小さく項垂れました。
「う、うん……」
小さく呟くように頷きを返すシャワーズに、リーフィアは大きなため息をつきました。
「まったく、アンタもアンタよ。シャワーズは泳ぎが得意なポケモンのはずなのに、イーブイの頃の記憶に引っ張られ続けて。あの子たちの言う通り、ちょっとカッコ悪いわよ」
「う、うん……」
やはり、返す言葉もありませんでした。
彼女の言う通り、シャワーズは泳ぎが得意なポケモンです。そういう身体の造りをしているポケモンなのです。だから、イーブイの頃に泳げなかった彼でも泳げるはず。というのは確かに筋の通った話ではありました。
しかし、
「それでも、僕、やっぱり怖いよ……」
シャワーズの心に刺さったままのトラウマは、なかなか抜け落ちてはくれませんでした。
そうしてしょんぼりと項垂れるシャワーズに、リーフィアは再び大きなため息を一つつきました。
「そんなんじゃ、いつまで経ってもアンタは弱虫で臆病で情けないままよ。少しは勇気ってもんを持ちなさい!」
「そ、そうだけど……」
先ほどは仔イーブイたちを窘めていたリーフィアですが、幾度も季節が廻っても変わらないシャワーズに苛々が募っていたのか、責めるような口調でシャワーズに捲し立て始めました。
「私だって、アンタの面倒をずっと見ていられるわけじゃないのよ! そこんとこ、分かっているの!?」
「わ、分かってる。分かってるよ。けど……」
「けど? けど何よ! アンタっていっつもそう! 勝手に自分の限界を決めつけて、泳げない、駄目なシャワーズだって自分を決めつけて、本当にカッコ悪い!」
「…………」
「何とか言いなさいよ! 少しは言い返してみなさいよ!」
それは、リーフィアなりの叱咤でもありました。それは、シャワーズにも分かっていました。
けれども、
「しょ、しょうがないじゃないか。怖いものは、怖いんだ……」
シャワーズに言えたのは、やっぱりそんな後ろ向きの言葉だけでした。
「もう、僕、一生情けない弱虫で臆病で泳げないシャワーズでもいいよ……」
そんな投げやりなシャワーズの言葉が、ついにリーフィアの堪忍袋の緒に触れました。それまでとは打って変わって険しい表情で、リーフィアはシャワーズを睨みつけました。
「そう。アンタはそれで、それで良いって言うのね! 私、もうアンタのことなんて、知らない!」
「…………」
厳しい言葉を浴びせても、もう俯いた顔を上げようとすらしないシャワーズに、リーフィアは顔を背けました。
「絶交よ! 金輪際、私に話しかけないで!」
きっぱりと言い切って、リーフィアはそのままシャワーズの元を立ち去りました。
リーフィアは決して振り向かず、シャワーズも顔を上げようとしませんでした。
◆
リーフィアとケンカしてしまった……。
後悔の念を抱いて、シャワーズは住処の近くにある湖の畔へとやって来ていました。
バカなことをした。そう、シャワーズは後悔していました。
リーフィアの言うことは尤もで、シャワーズもそれを分かってはいました。けれども、身体がついていかないのも、また事実。
「はぁあ……。何て言って謝ろう……」
水面に映る自分の顔を眺めながら、シャワーズは思案を巡らせていました。
リーフィアとはイーブイの頃からの幼なじみで、二匹はよく一緒に遊んでいた仲でした。
別々に進化してからは、すっかり気弱になったシャワーズを、リーフィアがいつもフォローをしてくれていました。
もしかしたら、僕はリーフィアに甘えていたのかもしれない。
そんな考えが、彼の心に生まれました。
「本当。こんなんじゃ、駄目だよね……」
水面に映った情けない自分の顔を見つめて、シャワーズは口に出して言いました。
「僕は、変わらなきゃいけないんだ……」
けれども、やっぱり水は怖いです。ほんの少しだけ前足を水に浸しただけで、溺れたときの記憶が鮮明に思い出されます。
震える前足を何とか水面に付けたまま、シャワーズは思いました。
――せめて、泳げなくても水になれちゃえば、こんなこと気にしなくていいのに……。
“変化”は、そのとき訪れました。
「……!?」
自分に起こった異変に、シャワーズは驚いて水面につけていた前足を引っ込めました。
「い、今……」
しげしげと前足を見下ろして、シャワーズはあることに気付きました。
これなら、大丈夫かもしれない。
そう考えたシャワーズの顔には、それまでとは打って変わって希望に満ちた笑顔が浮かんでいました。
◆
一方、リーフィアもまた、後悔の渦の中におりました。
「言い過ぎちゃった……」
シャワーズが溺れたときのことを本当に怖がっていることを、リーフィアは誰よりも知っていました。それでも、シャワーズとなった以上、水を恐れたまま生きることは難しいことも、リーフィアはよく知っていました。
イーブイの進化形は、進化すると自分の身体に適した土地を探して旅立つものがほとんどでした。友達も、兄弟のほとんども、進化してからは自分の身体に適した土地を求めて旅に出ていました。リーフィアが進化してもまだ群れに残っているのは、残されている子供たちのことが心配だったこと、そして、今いる場所がリーフィアにとって適した土地であったことがありました。
けれども、彼は違います。彼は――シャワーズは、泳ぐことができなくて、水の中に入ることができなくて、旅に出ることができないのです。
きっと、彼にも彼に一番適した土地がある。そう思い、リーフィアは彼にどうにか泳いでほしいと思っていました。泳げるようになれば、彼の世界はきっと広がるはずです。
けれども、シャワーズはいつまで経っても渋ったままでした。溺れたときの記憶が、未だに彼を悩ませていることは明白でした。
その引き摺り様に苛々が募って、つい、あんなことを口走ってしまいました。あんなことを言った手前、強気なリーフィアに自分から頭を下げに行くことはできませんでした。
「はぁ……」
柄にもなく、俯いた想いでため息をついていました。仲直りがしたいけれど、きっかけがつかめない。どうすればいいのだろう。
いくら考えても良い案は浮かんできません。
怪しい色をした雲が迫る空を見上げながら、リーフィアはまた一つため息をついたのでした。
◆
それから、酷い嵐が島に降り立ちました。
風は唸り、雨はまるで礫のように大地に降り注ぐ、激しい嵐でした。
「うわー。すごいすごい! 姉ちゃん、風がごうごう言っているよ!」
「雨もザーザーじゃなくてバタバタ言ってる! かっこいー!」
仔イーブイたちにとっては、はじめての嵐が驚きの連続なのでしょう。怖がることはなく、むしろ楽しそうに跳ねています。
「だ、駄目よ、跳ねたりしたら。姉ちゃんにしっかり掴まって、ゆっくり歩いて」
今にも集団から飛び出してしまいそうな勢いの仔イーブイたちを宥めながら、リーフィアは子供たちと一緒に避難できる場所を探していました。そしてふと、今ここにはいないシャワーズのことを思い出します。
(シャワーズ、大丈夫かしら……)
結局、シャワーズと仲直りすることはまだできていませんでした。あれからシャワーズが群れに近づくこともなく、リーフィアもまた、彼の住処には近づいていませんでした。
なんて言葉をかけるべきなのか分からず、謝ることを延ばし延ばしにしてしまっていました。
嵐に脅えてはいないだろうか、住処の近くにある湖の水が、彼の住処を水でいっぱいにしていないだろうか。
そんな心配を巡らせながらも、仔イーブイたちから目を離すわけにもいかず、リーフィアはほら穴でも無いものかと辺りを見回します。しかし、そんなものはどこにも見当たりません。
どうしよう。そう思った時でした。
「きゃあああ! 姉ちゃん! お水が、お水が!」
「っ!」
振り返ったときには、既に鉄砲水がリーフィアたちに迫って来ていました。川から溢れたのでしょうか。その勢いは凄まじく、風よけにしていた木々をも呑み込んでリーフィアたちに迫ってきます。
「み、みんな、私にしっかり掴まって!」
そう叫んで、リーフィアは自分と仔イーブイたちの周りを“リフレクター”で覆いました。次の瞬間、リーフィアたちも鉄砲水に呑み込まれました。
(シャワーズ……!)
襲いくる鉄砲水とそれに飲まれた木々からの衝撃に耐えながら、リーフィアは幼なじみの名前を心の中で叫んでいました。
◆
なんてことだ。どうしよう、どうしよう。
嵐がやって来て、しばらくは住処にしているほら穴に隠れていたシャワーズでしたが、リーフィアと仔イーブイたちのことが心配になって外に飛び出していました。何となく嫌な予感が頭を過ぎっていて、それを振り払うようにシャワーズはリーフィアたちを探しました。
嫌な予感は、的中していました。
激しく唸る川の中州でぐったりとしているリーフィアと仔イーブイたちの姿を、彼は見つけたのです。
中州は、少しずつ唸りを上げる水流に呑まれていました。このままでは、みんな水に流されてしまいます。
「ぼ、僕が、助けなきゃ……!」
すぐさま、シャワーズは川の水に前足を浸しました。それから、今日まで練習してきたことを思い出します。
(大丈夫、できる。だって、いっぱい練習したんだから……!)
リーフィアと仔イーブイたちを助けるためにも、失敗はできません。シャワーズは心を静かにして、ただ一つのことを考えました。
――僕は、シャワーズ。僕は、“水”……。
その瞬間、シャワーズの身体が溶けて無くなりました。
いえ、シャワーズの身体は水になっていたのです。
(で、できた!)
シャワーズの身体は水と非常に近い造りをしています。シャワーズはそれを使って水と一体になり、水を自分の身体のように動かすことができるポケモンなのです。
シャワーズは“それ”が成功したことに胸を躍らせました。けれどもそれも一瞬のことで、すぐに思考をリーフィアたちの方に切り替えます。
(助けなきゃ……!)
すぐに、シャワーズは荒れ狂う水と一体になってそれを落ち着かせました。範囲はまだまだ狭いですが、それでもリーフィアと仔イーブイたちに迫る濁流を止めることは出来ました。
(よし!)
続けて、水になった体でリーフィアと仔イーブイたちを包み込みます。
チャンスは一度きり。失敗はできません。
大丈夫。僕が、皆を助けるよ。そう念じてシャワーズは岸の方に視線を移しました。
「えぇえいっ!」
“みずのはどう”を打つ要領でリーフィアたちを水球に閉じ込めて、シャワーズはそれを岸へと投げました。川から少し離れたところで弾けた水球から、リーフィアが姿を現わします。仔イーブイもみな、全員無事でした。
良かった。そう胸をなで下ろしてシャワーズは元の姿に戻り、リーフィアたちのいる岸辺に前足を乗せました。
川の上流から濁流が凄まじい勢いで流れてきたのは、ちょうどそのすぐ後でした。
身体の半分がまだ水に浸かっていたシャワーズは、あっけなく濁流に呑み込まれました。
濁流に飲み込まれる瞬間にシャワーズが目にしたのは、リーフィアたちに濁流が襲いかかる光景でした。
きれいなリーフィアの身体に、汚い濁流が迫っていく光景でした。
――僕が、守るんだ……!
次の瞬間、シャワーズは自分が何をしたのかを思い出せませんでした。
濁流はシャワーズの全身を呑みこんで、下流へと流れていきました。
◆
寒い。今はまだ春のはずなのに、どうしてこんなに寒いのだろう。
「うぅっ……」
目覚めると、そこは川の岸辺でした。
「あ、あれ……?」
確か、私は森で鉄砲水に呑まれたんじゃ……。そう思い返しながらリーフィアが首を起こすと、視界に泣き腫らした瞳の仔イーブイたちが現れました。
「ね、ねえぢゃん〜!」
「よがっだ〜。よがっだよ〜!」
リーフィアが目を覚ましたことに心底安心したのか、仔イーブイたちはすぐに瞳を涙でいっぱいにしました。わんわんと泣き叫ぶものの、怪我もほとんどしていない仔イーブイたちの様子にリーフィアはホッと胸を撫で下ろしました。
けれども、すぐにまた別の疑問が浮かびました。仔イーブイたちを宥めながらリーフィアはゆっくりと起き上りました。
「みんな、ここは……? それにどうしてこんなに寒いの……?」
リーフィアがようやく落ち着き始めた仔イーブイたちに訊ねると、一匹の仔イーブイがリーフィアの後ろを指差しました。
「え、えっと、ここにいるのは分かんないけど、でも、きっと寒いのはあれのせいだよ!」
仔イーブイの言葉と前足の先を辿ってリーフィアは後ろを振り返り、そして息を呑みました。
リーフィアの背後にあったのは、大きな氷でした。
陽の光を受けて七色に輝く氷は、まるでリーフィアたちを守るように川とリーフィアたちを区切り、彼らを囲っていました。
「こ、これって……」
驚きで言葉を失っているリーフィアの後ろで、今度は別の仔イーブイが声を上げました。
「姉ちゃん。ボクね、シャワーズの声を聞いたよ!」
「え!?」
それは意外な言葉でした。慌てて振り向くと、一番小さな仔イーブイが思い出すように視線を宙に泳がせながら言葉を続けます。
「ボクもね、ちゃんと見てないから上手く思い出せないの。でもね、力が入らなくってぐったりなっちゃってて、でも何だかすっごく怖かったときに、シャワーズの声が聞こえたの。『大丈夫。僕が、皆を助けるよ』って。すぐに聞こえなくなっちゃったけど、でも、その後で怖い気持ちが消えたんだ」
とってもとっても不思議だったよ。そう話を終えた仔イーブイに向けていた視線を、リーフィアは再び背後の氷に移しました。
自分たちを守るように聳える氷。
仔イーブイが聞いた、シャワーズの声。
その二つが繋がって、リーフィアは目を剥きました。
――そんな、まさか、シャワーズ……!
「み、みんなはここにいて! 私、シャワーズを探してくる!」
言うや否や、リーフィアは川の下流を目指して駆けだしました。
シャワーズがいるはずの下流を目指して、ただただ走りました。
◆
シャワーズは、やはり下流にある湖の岸辺にいました。
いいえ、“いた”という方が正しいのかもしれない。そう思ってしまいそうになるほどに彼の身体はぼろぼろでした。
「シャワーズ!」
リーフィアはシャワーズ目掛けて最後の力を振り絞りました。閉じた彼の目に、リーフィアの中で嫌な予感ばかりが廻ります。
「シャワーズ! ねぇ、シャワーズ!」
前足で彼の身体を揺り動かします。お願い、起きて。そう願いながら、彼の身体を揺さぶります。
不意に、それまでふさふさしていたシャワーズの毛並みの感覚がなくなりました。続けて、チャポンと音を立ててリーフィアの前足がシャワーズの身体の中に沈みました。
「……!?」
びっくりして、リーフィアは前足を引っ込めました。その拍子にシャワーズの身体に水の波紋が浮かびあがります。
「え、え……?」
何が起きたのか、リーフィアには理解できませんでした。ただただ戸惑っていると、シャワーズの双眸がゆっくりと開かれました。
「リー、フィア……?」
弱弱しい声がリーフィアの耳を叩きました。目を覚ましてくれたことに対する喜びと、先ほどの“異変”に対する不安がリーフィアの頭の中でぐるぐると回っていきます。
それでも、すぐにリーフィアはシャワーズに声をかけました。
「シャワーズ!」
「リーフィア……。良かった、無事だったんだね……」
「えぇ。貴方だったのね。シャワーズ。貴方が、私たちを濁流から守ってくれたのね」
仔イーブイの話から、リーフィアは自分たちを囲っていた氷がシャワーズの“オーロラビーム”だということに気付いたのです。そして、鉄砲水に呑まれた自分たちを救ってくれたのが他でもないシャワーズであることにも、リーフィアはすぐに理解しました。
「あのね、リーフィア。僕、水になれたんだ……」
虚ろな瞳でリーフィアを見上げながら、シャワーズが弱弱しい、しかしとても嬉しそうな声を上げました。また、シャワーズの身体に水の波紋が浮かびあがります。
「僕ね、泳げないけど、水と一緒になれるんだって、気付けたんだ……」
誇らしそうに言う彼の言葉は、しかし力無く、また今にも消え入りそうなほどに小さいものでした。そんなシャワーズの声とは逆に、彼の身体に浮かんだ水の波紋はどんどんと広がっていきます。
今、彼の身体に起きている“異変”の正体に気付いたリーフィアは、シャワーズの頭の両脇に前足を置いて彼を真上から見下ろしました。
「だ、駄目よ、シャワーズ!」
「今度さ。みんなで水遊びしよう。僕がいれば、水も遊び相手だ。イーブイたち、きっと喜んでくれるよ……」
「シャワーズ!」
もう、シャワーズの意識ははっきりとしていないのでしょう。虚ろな瞳で、それでも笑いながら、シャワーズは言葉を続けました。
「ずっとずっと、みんなで暮らそうよ。僕、なんだかんだであの子たちのこと、好きだし、君のことも、大好きだから……」
「わ、私だって! 私だって、みんなで暮らしたい! あの子たちのことも、貴方のことも、大好きだから!」
まだ謝っていないの。だから、お願い、逝かないで。
両の瞳から大粒の涙を溢れさせながら、リーフィアはただただ訴えるようにシャワーズに声を掛け続けました。
やがて、シャワーズの身体にはいくつもの水の波紋が浮かびあがっていました。
「えへへっ。早く明日がこないかなぁ。みんなと遊ぶの、楽しみ、だなぁ……」
それが、彼の最期の言葉でした。
シャワーズの身体は、波紋と一緒に水になって湖に溶けていきました。
後に残されたリーフィアの慟哭が辺りに静かに響き渡りました。
◆
それから、幾つもの季節が廻りました。
年老いた一匹のリーフィアが、湖に手をつけて何かを呟いています。
「シャワーズ。今日も良い天気よ。太陽がさんさんと輝いていて、今日は何だか気分が良いわ……」
「おばーちゃーん!」
少し離れた所から元気に彼女の名前を呼ぶ声がして、彼女はゆっくりと顔を上げました。
彼女の視線の先で、一匹のシャワーズの男の子が元気に湖を泳ぎ回っています。
孫の元気な姿に、リーフィアは優しく目を細めました。
「シャワーズ、今日も素敵な一日よ」
湖になった幼なじみに届くように。そう祈りながら、リーフィアは笑顔を浮かべてそう言いました。
湖の真ん中で小さく波紋が浮かんで、また湖に溶けていきました。