クロノス・コンダクト
出会いは唐突に訪れを告げた。木々が生い茂る森の小さな空から現れたソレは、豪雪を撒き散らす体の欠けた龍だった。突如として現れた氷の龍はまるで何かに削られたように歪な姿をしており、羽根があったであろう場所からは壊死したように氷が張りつき、冷気が漏れていた。それでもその龍は空を飛びゆっくりと着陸を開始する。その風は吹雪の様に冷たく、一瞬で周辺の地面や木々を凍らせていた。偶然このウバメの森を訪れていたヒビキは吹き飛ばされそうになった帽子を強く抑えた。素肌がでている腕が冷気で震える。少しずつ、ヒビキは龍から距離を取った。あまりの冷気の強さに黒い帽子のつばには霜が浮いている。ざわざわと森たちがざわめく様子と明らかにただのポケモンとは思えない気迫を放つ龍を前に、ヒビキはモンスターボールを構えた。
「待って! この子悪い子じゃないの! 確かに見た目はちょっとばかしいかついけどさ」
「…喋った!?」
ポケモンが喋るという初めての経験にヒビキはうろたえた様にモンスターボールを地面に落とした。ボールが転がる音とともにようやく下を見てあわててモンスターボールを拾う。拾う直前まで、手は完全にないボールを掴んだままの形だった。
冷気が森を侵食し始めた。すると、龍の背から人の手が這い出してきた。徐々に体制を整わせるその人間は、ヒビキとさほど年のかわらないであろう少女だった。
「ごめんごめん、この子じゃなくて私が喋ってたの」
申し訳なさそうに両手を顔の前で合わせて謝ってきた。どうやらこのポケモンが野生ではない事にほっと胸をなでおろす。しかし、今まで多くの伝説、と対峙してきたヒビキでもこの龍は見たことが無かった。氷を全身に纏い、触れるすべてを凍らせるそんな冷気を常に放っている。だが、その龍の背にまたがった少女とはいうと黒いタンクトップに、ショートパンツと実に夏らしい服装だった。寒くは無いのだろうかと問いかけたが、彼女もそのくらいの事は承知のうえだろうと喉に押し込めて別の話題を振る。
「えっと、ここであったのも何かの縁だし、名乗らせてもらうよ。僕の名前はヒビキだ。君の名前も聞いていいかな?」
「ん、ヒビキ君ね、よろしく。私はトウコよ。で、この子がキュレム」
「キュレム…?」
聞いたことのない名前に思わず首を傾げるヒビキ。その様子にトウコも苦笑した。
「知らなくても当然よ。だってこの地方のポケモンじゃないんだもの」
「この地方……ってジョウトやカント―以外ってこと? じゃあ、君はどこの地方から来たんだい?」
「イッシュ地方からよ」
「イッシュ!? また遠い所からよくきたもんだね…」
イッシュ、と言えばこのウバメの森のあるジョウト、それに隣接するカント―、南に少し行ったホウエン、北にシンオウのあるこの世界で、イッシュはさらに遠く離れたところにある地方だった。こちらではまず見かけられない未知のポケモンが多く生息しているとヒビキは耳にしていた。このキュレムというポケモンもその見たことのないポケモンの一匹なのだろう。それも、この異様な冷気はおそらくただのポケモンではないのだろう。スイクン、エンテイ、ライコウらに匹敵するか、それ以上か。
考えているうちにキュレムを見つめていたことに気づいた。興味本位でキュレムを凝視するとそれに気づいたのか金色に輝く三白眼をヒビキに向ける。
トウコはその様子を見るやいなや慌てて立ち上がり、地面に着地する。
「この子人見知りだからその行動は危ない……あれ?」
トウコが伸ばした手を止めたのは、キュレムのヒビキに対する行動だった。硬質なキュレムの頭を撫でるヒビキに自分から頭を差し出していたのだ。キュレムは少々異常な生い立ちと環境に育った故、気難しい性格をしているものだと思われていた。実際、今の今までトウコ以外の人間には触れることすら許さなかったのだ。そのキュレムが自分から他人に寄り添うところを見たことがなかった。
驚いた顔を見せたトウコだったが、優しげな表情でキュレムに接するヒビキをみて笑みを零す。
「うん、君になら話していい……かな」
「僕で良ければなんでもどうぞ」
その言葉を聞いたトウコは一瞬だけ間を開けて息を吐くように自然に言葉を放った。冷気以外の何かが放たれたような気配がしたが、ヒビキは笑顔のままトウコを見る。
「あのね、ヒビキ君。私今、人探しをしてるの」
「へぇ。どんな人なの」
「一人は、黒い竜を連れた私と同い年くらいの男の子」
「うん」
「もう一人は、白い竜を連れた私より背の高い緑髪の男の人」
「うん」
「ヒビキ君が知ってることがあったら教えてほしい」
「いいよ」
「って言ってもヒビキ君が知ってるわけないよね……え?」
「知ってるよ。ボクはNって人を、知ってる」
冷気が巻き上げられるような、そんな風が吹いた気がした。トウコとヒビキのわずかな距離を通る風に妙な緊張感が走る。トウコの顔は驚きに染まり、ヒビキの顔からはいつの間にか笑顔が消え、冷淡な雰囲気を醸し出す。ヒビキの頭のゴーグルが森から洩れる太陽光に反射する。
唐突に切り出された話に脳の処理が追いつかず、ただヒビキに少しずつ踏みよって水晶石に青を落としたような眼でただ見つめた。それを黄金色のヒビキのめが捉えて離さない。
「でも、ボクが知ってるのは事実じゃなくて記憶。君が、君とこの子が知りたい子のことなら、彼女に聞くといいさ」
すっと伸ばされた左手。その先には、キュレムの傍にありながら一切冷気に触れていないように、青々とした木々が茂った空間が存在していた。中心には、苔がところどころにつき、壁や屋根にべったりと青苔がへばりついた古びた祠。
前にはまんじゅうや小さな花などが祀られ、大切にされているのが分かる。祠を中心に円を描くように冷気が逃げている様は本当に神様が居るような錯覚を引き起こす。
祠の後ろに、緑色の妖精のような何かが飛び回っていた。トウコが何度も目をこすったところでそれは消えることがなく、そんなことをしている間にその妖精はトウコの目の前に姿を現した。新緑と薄い草色の体色に、本当に童話にでてくるような妖精の羽根を持った存在を確認するように近寄る。キュレムも存在を確認すると静かに嘶いた。
「彼女の名前はセレビィ。別名、ときわたりポケモン」
「セレビィ……」
「ほら、君は彼の事を知りたいんだろ? だったら、見せてもらうんだ。君に何か得ることがあることを祈ってるよ」
軽くヒビキに背を押されると、セレビィが目前にまで迫る。トウコは初めて見るセレビィをどこかの地下に閉じ込められていたポケモンに被せた。見つめているとどことなく似ている気がしてくる。一方、セレビィの方は羽根をハチドリの様に細かくはばたかせ、トウコの様子をうかがっていた。そして右手の前で止まると、静かに手の甲に触れる。淡く光を放ち始めるセレビィの体。わけがわからず助けを求めるようにヒビキを見つめた。
「な、なに? ねぇ、ヒビキ君これは……」
「大丈夫。大丈夫だから彼女を信じて」
ヒビキの声を最後に、手を誰かに引きずられるような感覚とともにトウコは自分の体が宙に浮いた気がした。どこまでも浮いていくような気がしたが、気づけばさきほどと何も変わらない、ウバメの森の風景が連なっていた。
ただ、キュレムとヒビキの姿がない事を除けば。
そして、祠の横に座り込む緑髪の青年を見るまでは。
こみ上げる叫びを堪え、傍に駆け寄った。
トウコの心配を余所にその青年はすやすやと穏やかそうに眠っていた。四肢を投げ出し、本当にリラックスしているようだ。息苦しいのかだらしなく開いている口に触れようと手を伸ばすと、すっと体がすり抜ける。そこでようやくトウコは自分の体が透けてているという事に気づく。いつのまにか横に居たセレビィの体も透けている。
混乱しているとさらに追い打ちをかけるがごとくその透けているセレビィの横にはっきりと色を持ったセレビィが現れ、青年の、Nの髪をひっぱって遊びだした。止めようとしてトウコが割り入ろうとしても透けて居てはなにもできない。されるがままのNはうめき声を出してからしばらくすると、目をうっすらとあけた。
「やぁ、おはよう。今日かい? うん、ボクは元気だよ。君も元気そうだね」
「N……」
小さな呟き。しかしその続きは言うまいとトウコは口を噤む。トウコも、このNが本物ではない事を察していた。なら、言いたいことは今言うべきではないと。
これはセレビィのときわたりによる記憶の中のNだった。その中のNはセレビィと語り合い、楽しそうに、無邪気に笑っていた。トウコやトウヤ、人には決して見せることのなかったような笑顔だ。
しかし、しばらくすると膝を抱えて顔を隠すようにうずくまってしまった。先ほどまで楽しそうだったセレビィも心配そうに見つめている。
「ちょっとだけ、この愚かな人間の話をきいてくれるかな」
どくっと心臓が強く脈打つ音が聞こえる。
トウコはぎゅっとパンツの裾をもち、唇を噛んで何かを言いたげに堪えた。
「ボクはね、愚かな人間だった。それを知っていながらボクは君たちを救うなどとのたうちまわった。その結果、人も、君たちも、悲しませる結果をボクは産もうとした。初めて責任、ってものを痛感したんじゃないかな。それと同時に、酷く辛くて、悲しくなった」
紡がれる言葉の一つ一つがトウコの心に重みをもってのしかかる。
「けれど、それを否定した人間が居たんだ。名前を、トウヤとトウコ。二人は、必死にボクを繋ぎとめようとしてくれた。胸がね、ぎゅっとしてね、熱くて、眼から涙が零れてた。何をその時ボクが求めていたのか、今ならぼんやりと分かるよ。けど、まだボクは彼らには会えない。会っちゃいけない。ボクはまだ、謝る前に、やらなきゃいけないことがある。行動しなければいけないことがある。だって彼らみたいに」
「前を向けていないから」
その言葉を最後に空間が圧縮されたように縮み、Nと色の濃いセレビィが遠ざかる。トウコの周りを先ほどと同じように透けていたセレビィが飛び回っていた。
そして気づけば元通りの場所に戻り、キュレムの横でヒビキがおかえりと言う。
振り向いたトウコの顔は今にも泣きそうで、ヒビキはあわてた様にポケットからハンカチを取り出して手渡した。少し頭を下げてから優しくハンカチを受け取ったトウコは足から力が抜けたのかがくっと地面に座り込み、感情が爆発したように泣きはじめる。
キュレムとヒビキはトウコに寄り添うように座り込む。
「ばか……ばか……過去ばかりみてないで、今のわたしたちを見てよばかぁっ!」
セレビィは時々顔に近づいては、トウコの瞳から溢れだす涙をすくっていた。しばらくトウコから離れることなく、常に三人が寄り添って、彼女が泣きやむまで囲んでいた。