3 溢れる心
オス用の服は、ただ袖を通せば着られるジャケットタイプ。フローガの服もそうだったな、と今になって思い返した。それを知っていてなのか、クゥヤの振り回される行動には溜め息が出る。
考え事をしたら周りがあまり見えなくなるこの癖を直さなければ、次はいつクゥヤに利用されるかたまったものじゃない。そう思うだけで背中が重くなる気がした。
クゥヤはこの屋敷のメイド長に呼ばれそちらに行った。早速仕事にとりかかるのだろう。下手な騒ぎを起こしていつ自分にとばっちりが来ないよう、ただ祈りを込めているしかない。
アルアは特に指示は出されていないので、屋敷の広間で柱にもたれながら寄り添っていた。借り物の使用の服も、とても軽く着ている感じがしない。黒いししゅうで施された、紺色のジャケット。恐らく何かの鳥ポケモンの羽根で縫ってあるのだろう。この今にも羽ばたけそうな着心地はそうに違いない。
となれば、むし、かくとうといったひこうタイプに強い技を吸収してくれる役割がありそうだ。動きも邪魔しない素材なため、戦いにも役立ててくれそうな使用の服だ。
しかしこの屋敷は広い。この広間から見渡しても、相当な大きさを誇っている。軽くホエルオーもビックリな立派な屋敷だ。
しかしこれほど大きな屋敷なら、前の村ではいい噂にはなっているはず。だがそんな話はレイガからは一言も聞かなかった。
それにこの寂しい荒野の中での華やかさ。それどころか、付近で立ち入ってはならない地のことすら耳にしなかった。
メックファイに向かうなら、ここに立ち入ってはならない、それなりの注意はあるはず。確かに迷いこんだ自分たちも自分たちだが、あまりのも不自然なこの建物にアルアは大きな疑問を抱えていた。
警告どころか一言も耳にしなかったこの屋敷と土地……
これは何か重大な謎があるなと、頭の中で疑惑の問いを導き出した。
「おや?アルアさん。また考え事ですか?」
「ん?まぁな……」
これまた不自然なタイミング。軽い足取りのバクフーンがアルアに近づいた。
「メイド長がアルアさんをお呼びです。お仕事ができたらしいですよ」
「あ、あぁ……そうか」
気は進まないが、従わねばならない。そうせざるを追えない立場なのは理解している。
立ち上がり、アルアはフローガの後を付いて行く。同じような執事の服を羽織っているのに、こうもフローガは風格がある。やはり一流の使用は身のこなしも表に出るものなのか。
「……なぁ」
「はい?」
ならその一流のフローガに思い切って訊いてみることにする。周りにはアルアとフローガしかいない。一対一で訊きだすには絶好のチャンスだ。
「この屋敷ってさ、この辺りでは有名なのか?」
キッと目の奥が細くなる。アルアが訊きたい質問とは少し違うが、いきなり直球の質問をしても怪しまれるだけ。とりあえず小さな情報だけでも入手しておきたかった。
「さぁ……私は滅多にこの屋敷からは外出しないので」
「……そっか」
期待外れだった。もしかしたら勘付かれたのかもしれない。なら、
「こんな立派な屋敷なら、この辺りではさぞ有名なんじゃないかってな。それなのに、オレたちがさっき行った村にゃ、何の噂も流れなかった。これってやっぱ可笑しくねえか?」
思い切って自分が訊きたいことを訊く。フローガは顔色一つ変えず、ただアルアを見つめながら口を開く。
「……偶然じゃないですか?」
「偶然にしちゃ……出来すぎてると思うがな……」
「そうですかね?」
涼しい顔で受け流す様はここまでくると憎たらしい。意地でも教えたくないことらしいが、ポーカーフェイスのフローガの心の内を読み取るのは非常に難しい。
柔軟な対応に似合わず、口は思った以上に固いようだ。
「ところで、アルアさん。珍しいものを付けていますね」
珍しくフローガから質問をする。目を付けられたのは、アルアの右腕に着けている銀色に光る毛で作られたブレスレットだ。フローゼル特融の腕のヒレに上手く引っかかるよう、器用に作られた装飾品だ。
「これか。オレの幼馴染からもらったものでな。もう何年になるんだろうな……一切脆くならない大切な物だ」
普通装飾品のなどは、使い古せば一年で脆くなるようなものだ。ましてや、アルアのような荒々しい旅をしていては、ダメージが多くかさばりすぐにダメになってしまう。だがこのブレスレットはそのようなことにはならない。不思議なやつだ。
「ふむ……それはまた素敵なものをお持ちで。少し失礼」
そう一礼すると、フローガはアルアのブレスレットは拝見する。まじまじと見たあと、肌触り、感触、生地の特徴を見極め、どのような素材かを見極める。
「これは……私にも見たことのない生地ですね。何か……とても神秘的な雰囲気を放っていますが……。あ、もしかしたら……これは‘ぎんいろのはね’では」
「‘ぎんいろのはね’?」
「伝説のポケモン、ルギアが落としたといわれる羽根です。あなたの幼馴染は、そのようなことを話していましたか?」
ルギアとはまた大きな名前が出たものだ。同じ海のポケモンとしては、名くらいは耳にしたことはある。
「いや……そもそも、オレやその幼馴染は、孤児でな。そこは山と山に挟まれた小さな町で、海とは関係ないし、そのような話は全く聞いていない」
「そうでしたか。それは大変失礼なことを」
アルアに至っては、特殊な生い立ちだ。あまり水と接点が付かない生活をしてきたものだから、水がなくても多少の生活ができる。そのおかげで、この荒野に躊躇なく入ることができたのだが、今回はその耐性が仇となったのだが。
「にしても、それまた不可思議なものですね。本物なら、どんなに偶然なものか」
「まさか。そんな貴重なもんなら、装飾品などにするわけないだろ」
「分かりませんよ。曰く付きのものっていうのは、案外身近なところにあったりするものですから」
自信ありげに話す。まるで何かを悟ったかのように。
「……随分と興味があるんだな、これに」
「昔は、旅をして色々なところを訪ねましたからね。その時の気持ちがまだ残っているのかもしれません」
「へぇ、じゃあフローガの昔話でも聞かせてくれよ。オレも旅のもんだから興味あんだが」
「……それは遠慮願いますよ」
それ以降、フローガは何も答えなかった。自分の都合の悪い話のなると無口になるのは丸分かりだが、問い詰めたところでなにを仕出かすかわからない。ここは大人しくフローガの後を付いて行くことにした。
しかしこのブレスレット。フローガの言う‘ぎんいろのはね’なら、それは価値のあるお宝だ。それをなぜ、自分にくれたのか。そもそもこれをくれたあいつは、ルギアが落とした‘ぎんいろのはね’だとわかっていたのか。
けど今はそのようなことに頭を使っている場合ではない。余計なことを考えている場合ではなかった。
一方、クゥヤは屋敷内の掃除を任されていた。二階の廊下全般。これを掃除素人のキュウコン一匹で。
自慢の体毛が汚れるなど冗談交じりで拒否を申し出たところ、機嫌を損ねたメイド長にペナルティを課せられたのが原因で、この馬鹿広い廊下の掃除を任された。
ただでさえ、使用の数が少ないこの状況化で、廊下のひとり掃除は地獄に等しい。だがそこで反省しないのはクゥヤの悪い癖である。
ちなみにメイド長はすぐ怒る短気なミルタンク。苦手なタイプではないが、立場が立場なうえ面倒な相手だ。
メイド用のカチューシャとリボンがキュウコンとしてのパーソナルらしい。クゥヤ自身もこの身なりは気に入っているらしく、しっかりと着用している。
廊下の掃除は単純に埃取りの作業と床磨き。普段から丁寧に清掃されているのか、目立ったゴミは見かけない。だが、あのメイド長のことだ。埃一つで怒るような方だろう。色々油断はできない。
気は乗らないが、クゥヤは掃除を始める。尻尾で叩きを掴み、器用に家具の気になる部分を叩いていく。細かい作業は好きではないが、もういっそ‘ねっぷう’で綺麗さっぱり終わらせてやろうかと頭に過る。
だがまた変なことをやらかせばミルタンクだけでなく、アルアにまで怒られてしまうだろう。そんなことすれば、次は何のお仕置きが待っているからと、せっせと埃を掃っているときだった。
「きゃっ!」
廊下のすれ違いで様に、クゥヤは誰かとぶつかった。相手がなかなかの体重だったため、大きく飛ばされ尻尾から転倒する。
「あ、ご、ごめんなさい!ごめんなさい!わたしがよそ見をしていたから……!」
「あ、はは。いいよ、気にしないで」
笑みを浮かべ、クゥヤは宥める。相手はクゥヤと同じカチューシャをしたジュゴンだ。なるほど、体重が百キロを越えるジュゴンとぶつかれば、そりゃ大きく飛ばされるわけだ。倒れこんだときに強くお尻を打ってしまったにも納得だった。
「で、でも……」
「いいのよ。アタシも上の空だったから……あら?」
ジュゴンの違和感にクゥヤは気付く。ジュゴンの特徴であるヒレに目を向けた。彼女の右ヒレが左ヒレより艶がないからだ。
「ねぇちょっと、あなた怪我していんじゃない?」
「えっ……?」
クゥヤの言葉に、ジュゴンは後退する。サッと右ヒレを左ヒレで隠す辺り、これは間違いないなと確信した。
「図星って顔してんじゃない。ほら、見せて見せて」
クゥヤは強引にジュゴンの右ヒレを引き寄せ、ヒレの状態を確認する。一見は綺麗で白く輝く美しいヒレだが、案の定ヒレには何か技をくらったような傷が刻まれていた。
「やっぱり。自分の怪我の管理も務まなきゃ、使用なんてやってられないでしょ?」
「は、はい……ごめんなさい……」
うなだれるジュゴン。そこまでキツイことを言ったわけでもないのに、この凹みようとは。声ももじもじとはっきりしない様子から、内気な性格なのだろうか。
「ほら、アタシが手当てしてあげるから。……って、そうだ、何も持ってないや」
今自分が持っているのは掃除用具一式のみ。荷物は先の更衣室に置きっぱなしにしたままなので手ぶらとも言うべきか。
「えと、救急の道具なら使用の部屋にあるかと……」
「そっか。ならすぐにそこへ行こう!」
「え?でもわたし……それにあなたの仕事が……」
「廊下の掃除よりあなたの手当て!比べる理由なんてある?」
ズイッと近寄り、クゥヤはジュゴンを見つめる。目を皿のようにして、ジュゴンは静かに首を横に振った。
そうと決まれば、とクゥヤはジュゴンを引っ張り使用の部屋へ走った。部屋の場所は説明を聞いた時から知っている。目的地に一直線だった。
「ここね。休憩室は」
使用の休憩室も、屋敷の規模からそうとう立派なものだ。ゆったりとリラックスできる空間に、今はクゥヤとジュゴンの二匹だけ。他の使用たちは、皆仕事中なので、仕事からこっそり抜け出したことは知らされずに済みそうなので、一つの不安は取り除けた。
「救急箱って、どこにあるの?」
「えと……確か左の棚の中だったかと……」
「左の棚……あったあった、これね」
ジュゴンに言われた通りにその場所を漁り、クゥヤは傷薬の入った用具を見つける。備品は充分に蓄えられているため、これならジュゴンを治すことが容易だ。
「えーっと、じゃ、ちょっと沁みるからね」
ここでも器用に九本の尻尾を操り、軽くジュゴンの傷口にガーゼを当てる。傷口に染みたのか、少しピクリとけいれんするジュゴン。傷はそこまで深くはないのだが、ジュゴンのヒレというのはなかなか敏感にできているようだ。ガーゼだけでなく傷薬も掛けないといけないため、ここからはあまり刺激をしないよう、クゥヤは丁寧にジュゴンの傷の手当てに専念した。
「あとは、包帯を巻いて――よし、これでいいかな」
ぐるぐるに巻いた包帯が不格好だが、応急処置には充分だろう。体毛の白いジュゴンに白い包帯はそこまで目立つようなものではない。品の良さそうな彼女なら、乱暴にすることもないだろうから、多少雑でも大丈夫だろう。
「あ、ありがとう……ございます」
「え?なになに〜?声が小さくて聞こえないよ?」
技とらしくクゥヤは耳を立てる。意地悪な対応に、頬を赤く染めるジュゴン。だがクゥヤなりの気遣いだろう。ここはしっかりお礼を言わなければならないことは分かっていたので、ジュゴンは精一杯の声を出す。
「あ、ありがとうございます!」
「そうそう。お礼はきちんとね。あと、もうちょっと笑顔とかあったらねぇ……」
「え、笑顔ですか……」
だが逆に脅えてしまった。これはいけないと、クゥヤは慌てて謝る。
「ご、ごめんね。別に、無理して作ることないのよ」
どうもこのジュゴンは他の使用と違って感情が極端だ。他者の心を開くことに慣れておらず、他者とどう接したらいいのか困惑する様が伺える。
ここは自分が少しでもこの子を勇気付けるのだ、とクゥヤは妙にジュゴンに興味を持ち始めていた。
「けど、どの傷……どう見ても技のダメージだったけど、バトルなら体力の消費もあるはず……。何かあったの?」
「あ、まぁ……ちょっとしたアクシデントで、わたしがドジを踏んだけですよ……」
何か誤魔化そうな慌てふためき。パタパタとヒレを上下させる可愛い仕草だが、クゥヤは見逃さない。
その合間に勘付かれたのか、ジュゴンの方から口を開いた。
「そ、そういえばあなた……見かけないポケモンだけど、新入りさん?」
「ま、半ば強引のね。アタシのことは……クゥヤと呼んで。あなたは?」
「わ、わたしはグラキエスと言います。はい……」
グラキエスと名乗るジュゴンは深々と頭を下げる。使用らしく丁寧で上品な言葉使いに、クゥヤはグラキエスに笑顔で返した。
「クゥヤさん……あ、もしかして無断侵入したふたり組って……」
「あはは……全くそのつもりはなかったんだけどね。何かややこしいことに巻き込まれた感じでそうなっていてね」
もう屋敷中の話題になっているのかと、クゥヤは渋々思う。あまり嬉しくないことだ。
「そうですか……。すみません、失礼なこと訊いて」
「いやいや、そんなのぜーんぜん気にしてないから。寧ろ、今はほんのちょっと楽しいかな〜って思っているところ」
軽く目を見開き、グラキエスはきびすを返す。
「普段あんまりやらないことをさ、こうしてやっている訳だから、せっかくだから楽しんだほうがいいかなーって。使用の仕事なんて、そう易々とできるようなことじゃないからさ。もちろん、ずっとこんな所にいるつもりはないよ。でも、足掻いても仕方ないんだからさ、だったら逆に楽しんでやろうって。そんな馬鹿なことしか考えられないから、アルにどやされるんだけどね」
クゥヤの純粋な笑みが、グラキエスの心に強く残る。何か温かいものが体の中でうずめいたような。
望んでもいないこと、辛いことを、こうして楽しいことに変えられるなんて……何て心の強い方なんだろうと。
「……不思議な方ですね……クゥヤさんって」
「そうかな?いつも能天気だなんて言われるんだけどね。まぁ、それがアタシの個性だと思っているから。これからもこんな適当な生き方をするかもなんだけどね」
てへへと舌を出して笑う。アルアに見られたらまたちょっかいを出されそうな仕草だ。
グラキエスはクゥヤの言葉を、一言一言胸に刻むように真面目に聞いていた。そしてそこから強く感じる自分にはない何かを感じていた。
「羨ましいです……わたしにも、そのような強さがあれば……」
「強さってほどでもないよ。それに、今からでも充分できるよ、『ラキ』なら」
「え?ラキ……?」
最初は意味が分からなかった。頭にハテナのマークを浮かべ傾げる。
「そ。グラキエスだから『ラキ』。アタシ誰かにニックネームを付けるのが好きでねー。……気に入らない?」
「そ、そんなこと!とっても嬉しいです。そのように呼ばれたことなんて……今までなかったから」
頬を赤く染め、グラキエスは笑った。口角が緩やかに上がり、ゆっくりと微笑む様はとても可愛らしい。
「お。やっと笑ってくれた!」
「え……」
これまで笑顔をみせなかったグラキエスに、少し心を開いてくれたことにクゥヤは嬉しかった。初めて出会ったからには笑顔で接するのは彼女の信条。ならば相手も笑顔で接すると思っているのだから。
「へへ、可愛いじゃない。笑うと案外」
「あっ……そ、そんな……」
更に頬を赤く染める。どうやらあまりそのような会話には慣れていない様子だ。
一見控えめな性格のグラキエスだが、ちゃんと他者と接したい心が備わっている。心の開き方が分からなかっただけだ。
ならば、あとはゆっくりと扉を開けてやればいい。そのためには他愛ない会話が一番だ。
ついでにこの屋敷の情報も欲しいと思っていたところなので、グラキエスから訊きだしてみようと企みる。もちろん、変に怪しまれないように。
「ラキってさ、ここの屋敷に使えて長いの?」
「そうですね……ここに仕えて、もう半年になりますかね」
「半年かあ。結構長いことやっているのね」
「いえいえ、まだわたしなんてひよっこですよ」
随分と検挙な姿勢だ。実際、クゥヤならあのメイド長に半年も扱き使われたら精神汚染で暴れるに違いない。縛られることが大の苦手なクゥヤにとって、この場所は息苦しいとしか印象がない。
「旦那様を悪く言うひとは結構います。扱いが荒いだとか、無愛想だとか……。でも、わたしはそんなことはないと思います。病気をなされた使用には、あらゆる面でサポートしてあげたり、作ってくれた料理は必ず完食します。旦那様は色々な方を、絶望の淵から救ってくれた恩者ともいえますから」
グラキエスは、主人に仕えるのが苦とは思わないのだろうか。思想なんて誰が思うにそれぞれだが、クゥヤにはいまいち理解できない。
「すごいなぁ、ラキは。アタシはこうして旅をしている身だからさ、そんな一つの場所に留まるなんて考えられないからね」
「旅ですか……。そういえば、前にあなたと同じような旅の者がこの屋敷に捕まったことがありましたね」
「そうなの?初耳だなぁ」
「ええ。その時は、わたしもまだ新入りでしたからね。初めてのハプニングでしたから、とても強く印象に残っていますよ」
というと、今から約半年前の出来事となる。自分たちと同じように、この屋敷に捕まったポケモン……
「何とその方……抵抗するだけでなく旦那様に勝負を挑んできたのですよ。理由はよく分かりませんが、旦那様の何かに腹をたてたらしくて……。もう屋敷中の使用、総出でその方を止めようとしましたが、全滅させられて。旦那様もその方に惜しくも敗れて、その時の悔しさに滲み出た表情は今も忘れられません」
耳がピクリと動いた。この屋敷の使用といっても、今はたまたまいないだけだが相当の数がいるに違いない。その使用だけでなく、主までとは……いったいどんな奴なのだろうか。
「それはすごいわね……。アタシたちが応戦してもふたりの使用に負けたのに。その方は、その後どうなったの?」
「旦那様が屋敷から追い出したらしいですよ。わたしはその時、ただ脅えて戦えなかったので、遠くから見ているだけでしたが……」
「ありゃりゃ。それってマズいんじゃないの?」
「えぇ、その後キツく言われましたね。わたしは泣きじゃくり、もう立ち上がることもままなりませんでした。……つまらないですよね。皆さんが戦っていたのに、わたしはただ脅えて力になれなかった。その時の気持ちが、今になっても湧き上がってくるのです。何もできない、臆病な自分が……」
酷く後悔しているのがひしひしと伝わってくる。グラキエスもグラキエスなりに苦労にているのだろうか。
「強くなりたいのに……でも、わたしなんか所詮雑務を行うのが精一杯で……」
自分に自信が持てない口調。今にもその当時のことを思い出し涙しそうな声に、もうクゥヤは一方的に聞いているのが我慢できなかった。
「ラキはそれでいいの?」
「えっ?」
クゥヤの力強い声に、グラキエスは目を見開く。
「それで自分はいいのって訊いてるの。別にその時あーすればよかったとかじゃないよ。過去のことは変えられないし、消すことも出来ない。でも、ラキはそれで自分を否定したままでいいの?」
「そ、それは……」
クゥヤの言葉に耳が痛くなる。反論をする気もない。いや、する必要がない。
「強くなりたいなら、自分と向き合わなくちゃ話にならないし、誰も相手にしてくれない。踏み出す勇気というのは物凄く恐いことで辛いことだけど、でもやらなきゃいつまで経ってもそのままなんだから。目を背けているだけじゃ何も変わらないんだからさ」
厳しい言葉だった。グラキエスは口を閉じたまま床を終始見つめていた。まさかクゥヤからこのようなキツイ言葉が来るとは微塵にも思っていなかっただろう。
「……とまぁ、ちょっとキツイこと言ったかな」
「いえ、全部クゥヤさんの言う通りです。ずっと逃げているのは本当ですから。頭では分かっていても、心で理解していなければ行動なんてできないですよね」
「……ラキ……」
クゥヤの言葉でより迷ってしまったようだ。目には僅かな涙が浮かんでおり、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまったのだろうか。自分の言ったことに後悔はしていない。けどそれでグラキエスをより迷いの渦に巻き込んでしまったことに、クゥヤはすぐ様フォローしてあげなければと、グラキエスの頭を軽く撫でた。
「……ごめんね、ちょっとまた言いすぎちゃった。そうだね、自分に本気に悩んでいるんだから、こんな言葉かけても駄目だよね。アタシは少しでもラキに元気になってもらいたかったのに……余計に悩ませちゃったね」
そう言ってギュッとグラキエスを尻尾で寄せ付け抱きしめる。クゥヤの大きな九本の尻尾に包まれ一面金色の根毛となったグラキエスは驚きを隠せなかった。
だが不思議と嫌じゃない。むしろ気持ちは落ち着いていた。キュウコン独特の暖かさと心地よさ。掃除をした後にも関わらず、この安心できる柔らかな匂いは何なのだろう。
何てハートフルなキュウコンなのだろうか。
自分の冷たい身体がクゥヤの身体と重ななりほんのりと気持ちいい。そして脈拍を打つ鼓動がよく聞こえる。いきなりこんなことをして恥ずかしがるどころか、自然と甘えたいという気持ちが高ぶってくる。頬は真っ赤に熟れ、グラキエスもギュッとクゥヤを抱きしめた。
「フフ、こんなことしかあなたの気持ちを落ち着かせることが出来ないけど」
「あ……いえ……大丈夫です。何だかとっても気持ちいい……故郷を思い出すなぁ……」
誰かにこうして暖かな心で接しられたのはいつ以来だろうか。しばらくしてグラキエスは自分からクゥヤから離れた。もう気持ちは充分に落ち着き、あれだけ不安だった気持ちはもうすっかり無くなっていた。
「もう大丈夫?」
「ええ……ありがとうございます、クゥヤさん。何だか見苦しい所をお見せしちゃいましたね……」
「いいよ、アタシにも分はあるんだから。こういう時アルなら、いい言葉かけてくれると思うんだけどなぁ」
「アルって……クゥヤさんと一緒に捕まったアルアさんのことですか?」
「そうよ。あの大柄なフローゼル。面倒見はいいんだけどね。けど口は悪いし、変なところで馬鹿かますし、いっつもアタシにツッコんでくるけど……どんな時も最後まで諦めたことはないね。辛い時も挫けたい時も、自分に負けると何も得ないって言って、がむしゃらに自分と闘っていたなぁ。アタシの見る限り、おかしいほど心臓に毛が生えているね、ありゃ」
こんな事聞かれたらアルアはどういう顔をするだろうか。また頭を叩かれツッコまれるのだろう。
「へぇ……クゥヤさんは、アルアさんを信頼しているのですね」
「いんやぁ、そんな大層なもんじゃないよ。たまたま似たような境遇なだけでアタシが勝手にそう思ってるだけ」
お気楽なのかもしれない。だが確かにアルアは自分がちょっと認めてもいいほど精神が常熟している。だが、そこがクゥヤの少し心配する点でもある。固すぎる意志は、簡単に砕け散ってしまうときがあるのだから。
「上手くは言えないんだけど。アタシもアルには色々と世話になっているから、変には裏切れないんだとね。何だかんだで、今のような関係なんだけど……あいつといて退屈ではないからね。だからあいつに恥じないよう、アタシも強く生きなきゃと思って。だから、ラキもすこーしでいいんだから、自分を信じてもう一度頑張ってみなよ」
グラキエスはクゥヤのその笑顔が直視できなかった。まだ出会って数分しか経っていないのに、この方はこんなにも自分を励ましてくれる。疑いをかける余地のない、その笑顔がグラキエスの心に強く照り刺す。
「あ、ありがとうございます。そうですね、もうちょっと……諦めないで……」
「そそ。いざとなったら、この屋敷から抜け出して旅に出たらいいのよ」
「そ、そんなことしたら次こそ命が無いですよ……」
グラキエスの軽いジョークはとても柔らかな感じがした。互いに笑いがこぼれる。
「そういえば、この屋敷の主って今はいないんだね」
「え?ええ……」
「どんな顔なのかな。こんな理不尽な決まりとか作って、本当に急いでいる身にもなってよね」
「それは……管理する方がいないからですよ」
「それって、今使用がいないから?」
「まぁ……そうですね」
「ふーん……管理がお粗末ねぇ。アタシたちのような侵入者がまたいつ現れるか分からないのに」
「あ、もう自分が侵入者と認めてしまうのですか?」
「もうあれこれ言い訳するの疲れたしね」
と、部屋の扉が急に開かれた。この休憩室は、今は使ってはいけない時間。いつまでもここでだらだらしてはいけない。少し緊張が走った。
「お二人方……外まで声がダダ漏れですよ?」
フローガだ。あの小うるさいメイド長でなくて良かったと、クゥヤは溜め息をつく。
「そうだった?ごめんねフローガ。この子の傷を治すために、ちょっと借りていただけだからさ」
クゥヤはグラキエスの頭を優しく撫でた。
「おや、グラキエスじゃないか。確かあなたは――」
「あ、そうなんです、フローガさん……!わたし、急いでメイド長のところに用があるので。クゥヤさん、ケガを治してくれてありがとうございました!わたし、あなたの言葉を信じていますからね」
そそっかしくグラキエスは部屋から出て行った。その仕草も可愛く、そして健気だ。
「珍しいですね、グラキエスがあんなに明るいなんて」
「ま、ちょーっとおまじないの言葉をかけてやっただけよ」
にやにやとクゥヤは笑う。
「……ま、あなた方の懐にまで立ち入る義理はありませんので……。ところでクゥヤさん、廊下の掃除をほったからしにしているでしょ?メイド長が血眼でクゥヤさんを探していましたよ」
「言わないでよ、せっかく忘れていたのに」
「いや、忘れてはだめでしょう。ほら、いつまでもここにいては私がメイド長に報告せざるを得ませんよ」
「むぅ、フローガはアル以上に厳しいなあ」
しぶしぶクゥヤは立ち上がり、与えられた作業に戻った。
だがどこか表情はいつもより明るく、体のリズムも良い。グラキエスと出会い、クゥヤ自身も改めて自分を再確認できたことに、穏やかな心が胸いっぱいに広がっていた。
「……クゥヤさん……」
グラキエスはボソッと呟いた。誰もいない、冷たい部屋の中で。
「……あなたの心は太陽よりも暖かかった……」
水が滴る。いや、氷だろうか。冷たい空気が支配する。
「でも……わたしは……」
上を見上げる。何もない天井が、なぜかいつもより湿っている感じがする。
「……あなたはどうしてそう感じられるのですか……」
心の氷は簡単には溶かせない。どんな灼熱の炎でも、この極寒の氷河には勝てない。 冷たい、冬の風よりも厳しい、この檻は。