ポケモンの世界へと 〜最悪な冒険の始まり〜
「お次の方、先にお進みください」
「ほら、ジュン。お前の番だぞ」
ぽん、と父親が子供の背中を叩く。
ジュンと呼ばれたのは、赤く縁取られた灰色のパーカーにダークカラーのジーンズの十才くらいの男の子だった。
イベントで動きやすいようにか、足元には使い慣れて少しくたびれが見える白い紐が少し緩みかけた赤いスニーカーを履いている。
目の前にあるのは大きなドーム型のアトラクションの入り口だ。
磨かれたつるつるの表面が、スタジアムのライトの明かりを反射している。
ポケモンの色調に合わせるように、全体的にビビッドカラーで塗装されている。
壁にはぐるっと色んなポケモンのシルエットが刻まれている。
洞窟を模した入り口はやけにリアルに岩で覆われ、蔦がからんでいる。
岩の縁の上には、ヒトカゲ・チコリータ・アチャモ・ミジュマル・ケロマツの5匹の像が並び、それぞれが元気そうな動きのあるポーズをしている。
「あっ……うん」
一人で行くのか少し不安なのか、男の子は父親を見上げた。
「お父さんは外で待ってるから」
父親は安心させるように、そして急かすようにそう言った。
入り口付近に立っている若い男性スタッフの目がこころなし早くしろととがめているように父親には感じられた。
後ろに並んでいる子供連れの母親の視線も痛かった。
理由こそ分からないものの、父親の口調と雰囲気から自分が父を苛つかせていることを察したジュンは、まだ本当は心の準備ができていなかったものの、考えるより慌てて前へと足を進めてしまった。
「中に入りましたら、係員の支持に従ってくださいね」
白いモンスターポールの柄が描かれた濃紺の青いシャツにこげ茶色のズボンという、非日常な格好に身を包んだ精悍な顔立ちの男性スタッフに微笑みかけられる。
ポケットからはトランシーバーのような黒いものが除いている。
親以外の年上の人間に話しかけられることに慣れていないジュンはひるんでしまった。
とまどうようにうなづくと、逃げるようにアトラクションの中へ足を進める。
急に少しひんやりとした空気がジュンをふわりと包んだ。
どこからかゲームをスタートする際のBGMがアレンジされて流れている。
岩壁に覆われた表面には、リオルやピカチュウといった人気なポケモンの像が、くぼんだ壁の中に置かれている。
下からライトで照らされた像は逆光で浮かび上がるように見えて、かっこいいけれど少し不気味だった。
足元はにてんてんと等間隔に小さい四角いガラス越しの照明が置かれており、暖色の光で照らしてくれている。
一応天井の壁にも、小さな照明がときおりついていて、やや暗いが転んでしまうほどではなく、視界ははっきりしている。
ジュンは別世界に迷い込んでしまったようなワクワク感と恐怖の混じった不思議な感覚に、急に心臓がドキドキしてくるのを感じた。
通路を少し進むと、すぐに開けた場所に出た。
前には自分と同じ男の子がいて、キョロキョロと物珍しげにあたりを見回している。
男の子の前には友達同士で来たのか、二人の女の子が小さな声で話している。周りが静かなので大きな声を出せないのだろう。
子供達が並ぶ先には石でできたカウンターがあり、男性職員と女性職員がいて、男性スタッフが男の子になにやら身振り手ぶりで説明をしており、女性スタッフが女の子になにか質問している。
「はーい、そのまま列に並んでくださいねー」
思わぬ場所から声が飛んできて、注意されたのかとビクッとジュンは肩をこわばらせる。
声の方を見ると、カウンターに気を取られて気が付かなかったが、すぐ脇に誘導係の女性スタッフが立っていた。
こくんと頷いて、ジュンは列に並ぶ。
待っている子供達の緊張や期待がジュンにも伝わってきた。
説明が終わったらしい男の子は男性スタッフからなにかを受け取ると、奥へと続く暗がりの道へと歩いていった。
すると先ほど女性スタッフから質問を受けていた女の子が男性スタッフの前に移動し、女性スタッフからカードのを受け取った男性スタッフが、その表を女の子に向けるようにしてなにかを説明し始める。
男性スタッフにカードを渡した女性スタッフは、男の子にすぐ向き直り、なにか質問している。
男の子は女性スタッフを見ずに、自分の手元に視線を落として、なにかを指さして話している。
多分自分のポケモンを決めているんだ、とジュンは思った。
このアトラクションは今回のイベントの中でもとりわけ人気のあるもので、その内容は、今まで発表された最初の三匹の中から好きなポケモンを選び、そのポケモンと擬似的に冒険できるといった内容だった。
冒険できるといっても、カードを配られ、そのカードを読み込ませることによって、画面で戦闘が行われるに過ぎない。
それにくわえてアトラクション内の雰囲気が生みだす空気といった、なんちゃってアトラクションなのだが、大人にとっては作り物同然であっても、子供達にとっては立派な未知の世界への冒険であった。
子供が一人また一人へと奥へと消えていき、そのたびに新しい子供が入ってきてジュンの後ろへと並ぶ。
そうするうちに、すぐにジュンの番がやってきた。
「次の方、こちらへどうぞー!」
明るい女性スタッフの声がジュンを招く。
ジュンが前にやってくると、女性スタッフは微笑んだまま言った。
「こんにちは! このアトラクションでは、今までのシリーズの最初の三匹から好きなポケモンを一匹! 一匹だけ選んで冒険することができます」
一匹と言う時、女性スタッフは強調するように一本指を立てた。
きっと何匹か選ぼうとする子がいるのだろう。
「はい! では……このイラストの中から好きなポケモンを選んでください!」
そう言って、カウンターに貼られたイラストを手でしめす。
そこにはそれぞれのシリーズごとに色枠で分類された、攻略本などでよく見ると三匹の公式イラストがあった。
ジュンはなんのポケモンを選ぶか、もう決めていた。
「……ヒトカゲにします」
「赤緑・ファイヤレッド・リーフグリーングループの炎ポケモン、ヒトカゲですね」
確認するようにそう言うと、女性スタッフは少しかがみ、カウンターの下からカードを取り出した。
「では、少しだけお待ちくださいねー」
隣の説明が終わるまでは待機らしい。
しかしそんなに時間がかかる説明でないらしいのは待っているときになんとなく見ていて分かっていたため、ジュンはそんなに不満には思わなかった。
「はい、次の方こちらへどうぞ!」
前に並んでいた男の子がカウンターを慣れると、男性スタッフに呼びかけられる。
横にずれると、女性スタッフが男性スタッフにカードを渡した。
それを受け取った男性スタッフは、ジュンへと向き直る。
「こんにちは! では次はゲームの説明をします。まず、このカードをよおく見てくださいね……」
そう言って、ヒトカゲの公式イラストがついた表をこちらに向けてくる。
「カードのポケモンが見える方を、こうやって機械にタッチします。見ててくださいねー」
そう言いながら、ジュンが見ていることを横目で確認しつつ、カードをカウンターの上にある機材にタッチさせる。
そうすると、隣にある小型のモニターに、ゲームと同じ、立体化したヒトカゲの姿が現れた。
「はい、ヒトカゲが現れましたね! この状態で技の名前を言うと、ヒトカゲがその技を繰り出します」
そう言うと、男性スタッフはカードを機械の上から取り、指さす。
「一度画面にヒトカゲが出てしまえば、カードは機械から離しても大丈夫です。次に技ですが、カードの下をよく見てください」
カードを差し出され、下の方を見ると、太字で技が4つかかれていた。
「ゲームと同じように、4つまで技を使うことができます。ヒトカゲが使える技はひっかく・ひのこ・メタルクロー・ドラゴンクローです。バトルの時には使いたいときは画面に向かって技名を言ってください。こんな感じです……ひのこ!」
男性スタッフがモニターの顔を近づけて呼びかけると、ヒトカゲがひのこのモーションを取り、ゲームと同じようにひのこを吐いた。
「こんな感じで……モニターの側で大きな声ではっきり言ってください。ヒトカゲに聞こえていない時は、もっと大きな声で言ってあげてくださいね!」
こくこくとジュンは頷く。
本音をいえば、早く奥に行ってみたかった。
しかし説明を聞いておかないと、あとで困ったことになってしまうのではやる気持ちを抑えていた。
「ゲームと同じように、技の効果は、いまひとつ・普通・ばつぐんがあります。たくさんばつぐんを当てれば早く敵を倒せます。
そして……アトラクションについてですが、先にバトルしている方が終わるまでは先に進めません。
なので中にいるお兄さん・お姉さんの支持に従って動いてくださいねー。
では以上で説明を終わります! なにか分からないところはありましたか?」
ジュンが首をふると、男性スタッフは持っていたカードをジュンに差し出した。
「ではこのカードをどうぞ。アトラクションの最中に落とさないように気をつけてくださいね。分からないことがあれば、なんでも近くの職員に聞いてください。それではあちらの奥へどうぞ! 冒険のはじまりです!」
ジュンはカードを受け取ると、期待に胸を踊らせつつ、一人で行動する緊張感に包まれながら、アトラクションの始まりである、暗がりの中へと足を踏み入れた。
先ほどとは違い、証明は控えめで、洞窟らしさを強調されている。
奥のほうから仄暗いやや不気味なBGMが流れてくる。
少し怖さが強くなってきて、ジュンはごくりと喉を鳴らした。
しかし、すぐに男性スタッフの姿が見えてほっとする。同時に現実に引き戻されたような残念な気持ちにもなる。
スタッフがいる場所は少し広く丸く空間がとられており、岸壁には巨大な薄型モニターが設置されている。
奥の方には扉らしきものがあるが、今は閉じられているようだ。
ジュンが歩いていくと、スタッフが話しかけてきた。
「洞窟に入る前に、トレーナーの貴方に博士から届いているビデオをご覧になって頂きます! それでは……」
スタッフが手元にあるスイッチらしきものを押す。
すると、ブン、と電子音がして、モニターが明るくなった。
『こんにちは、私はアリウム博士だ。ポケモンの研究をしている。今回は君に少し協力してもらいたいことがあってね』
映し出されたのは、アトラクションのために作られたオリジナルキャラクター、アリウム博士。
白衣を身にまとい、茶色のくせっ髪に優しそうな聡い青い目をした、メガネをかけた二十代後半らしき外国人風の博士だ。
白衣の下にはスモーキーカラーのシャツに紫色のセーターに黒いネクタイをしめ、土色のスラックスをはいている。
このアトラクションの売りはこういったオリジナル要素でもあった。
プチストーリーが用意されており、アリウム博士を始め、ジムリーダー、敵など、数人のキャラクターがこの日のためにデザインされていた。
映像はアニメであり、画面の向こうの博士はジュンを見すえて手を広げた。
『最近、各地で異常が起きていてね。ポケモンの分布が乱れてきているんだ。だから、君にはまず"はばたきの洞窟"にどんなポケモンが生息しているかを確認してきてもらたいんだ』
子供だましが分からない年ではなかったが、あたりに流れるBGMや岩肌などの雰囲気に飲まれて、やけにリアルに感じてしまう。
『まずはこの……駆け出しのトレーナーの君にはきついかもしれないけど、今は手いっぱいで君にしか頼めなくてね……悪いけどひとつよろしく頼むよ』
そして映像が終わった。
「それでは冒険の始まりです。野生ポケモンにはくれぐれも気をつけてくださいね!」
スタッフが手元の機械を操作すると、ゴゴゴ…と重量感のある音を立てて、扉が左右に開いていく。
その向こうに待ち受けるのは……大きく開けた岩場だった。
下からの青白い証明が岩壁をぼうっと浮かび上がらせている。
あちこちにズバットやコロモリの像が置かれており、こうもりポケモン達の鳴き声がかすかに木霊している。
作り物だと分かっているのに、どこか真に迫るような心地になるジュンだった。
ムービーを見せられ、完全に世界観に囚われてしまったせいだろうか。
あるいは、一人で行動しなくてはならないという、不慣れさが怖さを助長させているのかもしれない。
ジュンはきゅっとカードを握りしめた。
大丈夫、一人ではない。ヒトカゲがいれば戦えるし、スタッフだっている。
それにもちろん怖いばかりではない。
大好きなポケモンの世界が今目の前に体現されているのだ。
抑えきれない好奇心に心をくすぐられる。
ジュンは気持ちを固めると、入り口をくぐった。
すぐに低い音をたてて扉がしまる。
独特の超音波のような鳴き声が、あちらこちらから聞こえてくる。
そんなことが起きるわけがないと分かっているのに、不意に襲いかかってきそうな不安感に襲われる。
少し先に進むと、さっき見たものよりも巨大なモニターが岸壁に設置されていた。
そしてその前をたどり着いた瞬間、モニターがぱっと明るくなった。
ジュンが不意をつかれてビクッと身体を固まらせると、同時に流れていたBGMが、切迫感のある野生ポケモン遭遇のものに切り替わる。
「ギイィィッ」
鳴き声がモニターから響き、ズバットがゲーム風にアレンジされた洞窟を背後にパタパタと羽を動かしている。
右上にはレベルと体力ゲージが表示されている。レベルは6だ。
すこし細部は異なるが、ゲームでのエンカウントとだいたいは同じ光景だ。
そしてモニターの真下には、明るく光っているカードを置く読み取り機と小さなモニターが置かれている。
小さなモニターには「君のポケモンを繰りだそう!」と表示されている。
意図を理解したジュンは恐る恐る、カードをその機械の上に乗せた。
「クアアァァウ!」
ボールを投げるモーションが現れたあと、鳴き声をあげて空中に放られたボールからヒトカゲが現れ、たしっと地面に着地する。
こちらのヒトカゲのレベルは10だ。
ヒトカゲが現れると、モニターの画面が変わり、タイプ別のカラーで描かれた4つの技の選択肢が現れた。
上には「君の声でポケモンに支持を出そう!」とメッセージが出ている。
ジュンは先ほどの男性スタッフを頭に思い浮かべながら、真似をするように大きな声で言った。
「ひのこ!!」
ヒトカゲの口からオレンジ色の火の粉が飛び出し、ズバットがダメージを受けるパン!という軽い音が響く。
効果は普通だが、レベルの差ゆえか七割ほどゲージが減少する。
画面の中のできごとであるはずなのに、自分の声で支持を出しているせいか、臨場感がある。
次のターン、ズバットの攻撃によるきゅうけつがヒトカゲに迫る。
ゴン!というこうかはいまひとつを示す鈍い音が響く。
減ったゲージは一割にも満たない。
倒せる!と確信したジュンは揚々ととどめの一撃を命じた。
「ひのこ!」
もう一度ひのこが放たれ、残っていた三割ほどのズバットのHPを最後まで削りきった。
「ギギィィ…」
ヒトカゲがトーンダウンした鳴き声をあげ、倒れる。
やったぁ!とジュンの胸に達成感と勝利の喜びが湧き上がる。
ゲームで野生ポケモンを一匹倒しても、対してなにか感情を抱くことはなかなかったのに、何故か今はすごく誇らしい。
次はなにが待ってるんだろう。
早くもそんな期待をはやらせた時だった。
「ギギィィ!」
画面にまたズバットが表示された。
あれ?とジュンは画面を見つめる。
てっきり一匹だけだと思っていたが、もしかして敵は二匹だったのだろうか?
まあいいや、と技名を言おうとして、小さいモニターを見てジュンは我が目を疑った。
モニターに………何も映っていない。
小さいモニターは故障したのか、真っ暗になっている。
「えっ……」
思わず驚きの声をもらしたジュンの頭上で、また鳴き声がした。
「ギギィィ!!」
慌てて見上げると、画面の中にいるズバットが二匹に増えている。
いや……増え続けている。
次々に三匹、四匹と表示される数が増えていく。
ジュンは体中の血が一気に凍りつくのを感じた。
スタッフに故障を知らせなくちゃ、とあたりを見回すがスタッフの姿がない。
「誰か……!! 誰か! いませんか……っ!?」
その場から離れ、奥に向かってとにかく走る。
聞こえていないだけかもしれない。
先に誰かいるかもしれない。
そんな刹那の望みにかけて………。
だが、待っていたのは最奥部を示す閉ざされた扉だけだった。
つまり、この場所にスタッフはいないということだ。
絶望と舐めるような恐怖が足元からじわじわと確実に這い上がってくる。
「開けて!! 開けてよ!!!」
扉をドンドンと叩くが、向こう側にいるスタッフは気づかないのか、聞こえていないのか……それともいないのか、全く開く気配ない。
ジュンの目に涙が滲んだ。
そのとき、背後でガラスが割れるような破壊音がして、飛び交うせわしない羽音が響く。
それは最悪の予感をジュンにもたらした。
振り返ったジュンが目にしたものは、ところせましと狭い空間をとびかうズバットの姿だった。
画面越しではない、実態をともなったズバットだ。
それだけでない、置かれていた他のズバットやコロモリの像も、いまや動き始めている。まるで生きているかのような、プログラムではないと示すかのような、繊細で不規則な動きだ。
「いっ……!!」
キーン、と耳鳴りのような甲高い不快な音があちこちから聞こえてきて、ジュンは急に頭が猛烈に痛くなり、ふらついて座り込んだ。
ジュンは気がついていなかったが、それはズバットとコロモリの出している超音波だった。
暗闇で生活するコウモリポケモンは超音波を出し、跳ね返ってくる音で獲物や侵入者の存在を感知するのだ。
そしていままさに、ズバット達は侵入者であり、獲物でもあるジュンの存在を超音波によって認識し始めていた。
ふわりふわりと滑空していたズバット達が徐々にジュンに間合いを詰めてくる。
ジュンもそれは分かっていたが、強烈な耳鳴りと頭痛で立ち上がることができない。
「ギイィィィーーーーッッッ!!!」
甲高いつんざくような鳴き声をあげて迫り来るズバット。
「来る、な…! ……っ! 来るなぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
ジュンが絶叫した時だった。
ヒュンッとオレンジ色の光が飛んできたかと思うと、ズバットが撃ち落とされた。
「ギィィィ!!! ギィィィ!!!!」
地面に落ちたズバットが苦しそうにバタバタともがいている。
突然の襲撃に、周りのズバットやコロモリが慌てたように乱れ飛ぶ。
「クアアァァッ!!」
カードを置いていた場所あたりから、先ほど聞いていたばかりの鳴き声が聞こえた。
はっと声のする方を凝視したジュンの前に、岩陰からチョコチョコと歩いてきたなにかが姿を表した。
それはつぶらな瞳をした、オレンジ色のトカゲだった。しっぽにはメラメラと燃える炎が揺れている。間違いない、あのヒトカゲだ。
しかし、驚きもつかのま、ヒトカゲに背後から音もなくコロモリが滑空して近づいていた。
「ヒトカゲ! 後ろだ! ひのこ!!」
ジュンは頭が割れそうな痛みを我慢して大声をあげた。
ヒトカゲが振り向き、接近しているコロモリに気づく。
「クァゥッ!!」
すっと息を吸い込み、間一髪でひのこを吐き出し、コロモリを撃退する。
「キュアアア!!!」
バタバタと地に落ちて転げまわるコロモリ。
ヒトカゲはそんなコロモリを見下ろしている。
「…………っ、こっちにくるんだ! ヒトカゲ!」
呼ばれたヒトカゲはジュンを見ると、ちょこちょことしっぽを振りながらこちらへ駆けてくる。
そしてジュンの元にヒトカゲがたどり着いた瞬間、地面が地震のように震えた。
否、ジュンの背後にある扉が開き始めたのだ。
逃げなきゃ。ジュンは全力を振り絞り、なんとか勢いをつけて立ち上がった。
「ついてこい! ヒトカゲ!!」
「クァッ!!」
全力で扉の向こうへ飛び出す。
やけくそに、頭に重心を載せて、前に倒れこむように疾走する。
その隣をちょこまかとヒトカゲが走る。
扉の向こう側も先ほどと同じ岩壁に覆われている。
スタッフの姿もなく、子供の姿もない。モニターも読み取り機もない。
しかし、その先に小さな光がこぼれている。
なにかしらの出口には違いなかった。
出口でなかったとしても、今はそこに向かって走るしかない。
「ギイィィィィィィィ!!!!」
「キュアアアアアァァァァ」
バサバサとうるさい羽音が背中に迫ってくる。
やはり追いかけてきているらしい。
つかまったらおしまいだ。一匹ならともかく、あんな大群を相手にしては勝ち目なんてない。
そうなったら自分がどうなってしまうのかなんて、考えるだけで恐ろしい。
「うわああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!」
ジュンは自分を鼓舞するかのように、悲鳴のような絶叫をあげながら、ひたすらに走る。
息が苦しい。足が痛い。
捕まったら終わりだという恐怖から足がもつれそうになる。
ハァハァと息を荒げながら、命の危機と酸欠に早鐘を打つ心臓の音を感じながら、とにかく走り続け……光が目の前に迫ってくる。
本来なら向こう側の風景が見えるはずなのに、そこには白いまばゆい光があるだけだった。
その光の得体の知れさなさは不気味に感じられたが、そこに飛び込むしか助かる道はなかった。
「ぁぁぁあああああああっっ!!!!!!!」
ジュンは目をつぶって、光の中に駆け込んだ。
「……………っ!!」
そのまま駆け抜けながら、恐る恐る目を開いたジュンは、思わず立ち止まった。
目の前に広がっていたのは、歩きやすいように整備された土の道と、その周りに生えている樹木達。
空は青く広がっていて、風がジュンの頬を撫でた。
木々の葉がざわめく音や、すみきった空気の香りが鼻をかすめる。
ジュンが足をとめると、気づかず少し先まで走ってしまったヒトカゲが慌てたように戻ってくる。
「ここって………」
激変した周囲の様子に気を囚われてしまったジュンだったが、すぐに現実に意識が戻り、がばっと後ろを振り向いた。
しかし、ズバット達は追ってきてはいなかった。
後ろにあったのは黒々と口を開ける洞窟だった。
どうやらあの洞窟を抜けてきたらしい。
なにはともあれ、一応危機は脱したようだ。
「はぁ………」
「クアァ?」
ジュンがその場にへたりこむと、ヒトカゲが不思議そうに鳴いた。
「………これって………現実なの?」
顔を上げると、ちょうど同じくらいの目線の高さになったヒトカゲと至近距離で目があった。
ヒトカゲはパチパチと瞬きをしてじっとジュンを見つめてくる。
しっぽはゆらゆらと微妙に動いているし、小さな手も微妙に揺れている。
どう考えても、人が作ったもののする動きじゃない。それにしては動きが福札すぎる。
それにまとっている雰囲気がすごく生き生きとしている。
なにより直感が訴えていた。これはゲームのプログラムされた存在じゃない、命を持っている生き物だと。
右も左もわからない謎の空間に放り出され、ジュンは不安と助かったという安堵がないまぜになり、急に涙がこぼれてきた。
「……ふっ………ぅうっ…………!!! お父さんっ……! お母さん………!」
「クアァゥ…………」
ヒトカゲがオロオロとジュンの周りをぐるぐると歩き回る。
そんな一人と一匹を樹木の枝で足を休ませていたヒノヤコマがしげしげと珍妙なものを見るような目で見下ろしていた。