歴史にキスを!
序章 第7話
序章:




第7話

「大木戸マシロといいます」
 表情一つ変えずに赤眼鏡の女が言い放った言葉は、どうやらこのように聞こえる。
 大男の退散ののち、洞窟へ向かう道中に僕が怒気を込めてぶつけた質問――「いったい何事が起っているのか」に対する、それが彼女の返答だった。世の中に、こちらが焦っているにもかかわらず会話が通じない状況ほど嫌気が差すこともない。くそッ! 予備校へ帰りたい!
「マサラタウンという田舎町で生まれてから高校まで育ち、今年の春に母も教員として勤めてもいるタマムシ大学文学部歴史科へ進学、母と同居しつつ学部1年生として勉学に励んでおりました……」
 ンジャメナの牧場で生まれた子牛の数よりどうでもいい。タマムシ大はヤマブキ大に次ぐ名門には違いないが、それにしたっていったい誰がお前の個人情報を知りたがるのか、フェイスブックにでも書いてろ。僕が知りたいのは、僕の意思に反して僕の身体がものをしゃべるその理由だ。一度目は気圧されて受け入れたようになったけれど、二度目はもう無理。僕の仏の顔は2回までだ。あんなヤクザみたいな巨漢(それにしてもあれがヤマブキ大院生だとは!)と無理やり関わりあわされるのはもう御免だ。せめて洞窟までは案内してやるから、そのあとは僕を解放してくれ。
「その母であり大学の教官でもある大木戸ナナミが、昨日急に『ハナダに行くぞ』とのたまったことがこの、よく分からない一連の事件の端緒だったんです。ハナダへ? どうして? そう問うと『洞窟に重要な用事がある』と云うのです……、意味が分からないでしょう? でも私は一緒に電車で来てあげたんですよ。母思いの娘だから……」
「あのう、僕はね、自分語りを求めてるんじゃないんです」
 怒りは僕の女性恐怖症を少しマシにしてくれているようだ。いつもより舌が回る。怒りというよりも恐れか。
「あんたが僕にかけたマジナイみたいな変な何かは、何がどうなってんのか、どうやったら解けるのか、それを訊いてるんですけれども、わからないんですか?」
 マシロと名乗った女は僕の苦情にびっくりしたようにその瞳を大きな赤眼鏡の奥でぱちくりさせて、しかし平常な声で言葉を続けた。話を聞けよ!
「ハナダの改札を出て少し入り組んだ路地に入った途端、向こうから謎の可愛いお婆ちゃんを筆頭とする一団がやって来ました。母は彼らに気付いた瞬間に顔を強張らせて、わたしだけ引き返すよう言いました。そして『曾根崎研究所』という処へ行き、そこにいるマサキさんに事情をすべて説明しろと。そして母は可愛いお婆ちゃんに接近し、彼らと一緒に何処かへ行ってしまいました」
 そうか、それは良かった。真面目にこの狂人の話を聞く積もりは僕にはなかった。どうせこの異常な話もすべてでっち上げに決まっている。
「そんなことより僕が知りたいのは――」
「待って、聴いてください。母は最後に、わたしに謎のカプセルを手渡して云ったんです――『できる限りはやくこのカプセルを飲みなさい。そうしたら兎に角誰でもいいから、最初に見つけた男性にキスをしなさい』と」
 はぁ……!?
 さすがに唖然とさせられてしまう。適当な男性にホニャララ?
「ちょっと待ってください。つまりあんたのその話は、ぜんぶ本当のことなんですか?」
「むろん、本当にあったことです」
 マシロは事も無げに首肯した。ちょっと待ってくれ、頼むからちょっと待ってくれ。そうすると、この女にも色々と面倒なことがあったらしく気の毒ではあるが、つまり僕はその面倒なことに巻き込まれているのか? 冗談じゃない。
「それで僕に、キ、その、ソレをしたわけですか?」
「キスをしたわけです。母によると『キスをしたら、その男は必ずあなたの言うことを聞くようになる』と。ですからわたしが思うに、あの時接吻をした時点でわたしとあなたのあいだに何らかの契約が結ばれたのではないでしょうか? あなたはわたしのどんな命令にも従わなければならない、というような……。何と言ったらいいかしら、わたしも急いでいたもので、ごめんなさい。でも助かりました」
「…………」





 僕の崇高な自然権がいとも簡単に侵害されていることが判明してゆくうちに、僕らは洞窟の入り口のところまで来ていた。河を通り抜ける濁流の、うるさい音が聞こえる。言うまでもなく僕が昨日自殺未遂した、その河だ。勢いをすこしも弱めないまま、洞窟の内部へ注ぎ込んでいた。その音は地下深くまで反響しているようだった。
「ここですか」
 僕が押し黙ったままであるのをいいことに、マシロはいともワクワクした様子で洞窟を眺める。地獄にでも続いていそうなその洞窟は、相変わらず底冷えするような暗さで地上の住人を脅しつけていた。入りたければ入ってごらん、ただし出られる保証はどこにもないが……。恐ろしげな暗闇の語り口はしかし、マシロにとっては興奮剤でしかないようだった。
「こういうのって……ワクワクしますよね……。あなたはそういう性質(たち)じゃないんですか? 松明を掲げて謎を解き明かしに行くぞ、そういう冒険に心は躍りませんか……?」
「謎っていうけれど」
 僕は不機嫌そのものを音声化したような調子で答えた。
「だいたい、洞窟の中の何を目指しているんです? あなたのお母さんがいるわけでもないんでしょう、きっと。お母さんが洞窟を目指していたのは分かりますが、あなたの第一の目的はそのお母さんを取り戻すことじゃないんですか……?」
「おっしゃる通りです」
 女は首肯した。会話が通じるとは、珍しいこともあるものだ。
「ですが母の手掛かりはまったく掴めません。マサキさんなら知っているかとも思いましたが、尋ねても口を閉ざすばかりで教えてくれません。でもその時に唯一、マサキさんがもらしたんです。『洞窟か……』と」
 マシロの口調は一見それまでと変わらず無感情で沈着していたけれど、しだいにその中に恐れと焦燥が微量混ざり込んでいくように僕には聞こえた。穏やかなせせらぎが、狭い所へ傾斜するときに、わずかに速度を速めるように。恐れと焦燥、この訳のわからない女性が? 僕は当惑した。
「おっしゃる通り、洞窟の中へ何を目指して行くわけでもありません、何のヒントも得られずに終わるだけかもしれません。でも母は……わたしにとって、唯一のちゃんとした肉親なんです……」
 声がわずかに震えてさえいるのがわかって、僕は息をのんだ。マシロは言葉を継いだ。
「せめて現在提示されている唯一のキーワードである……洞窟へ行けば何か変わるかもしれないと、そう思ったんです。今この時にも母に何が起こっているか知れないという状況にあって、わたしはすこし冷静さを失っているのかもしれませんが……もしかしたらマサキさんが解決に乗り出してくれるかもしれませんが……それでもじっと待ってなどいられないのです」
 唯一のちゃんとした肉親。
 この言葉が僕の心にこびりついて、心臓をひどく動揺させた。べつだん彼女の母思いな優しさに心を動かされたつもりもない。狂人と思っていた女性のふとした弱さにほだされた訳でもない。僕はそんなに同情的な人間ではない。他人の事情は他人の事情だ。ただ、唯一のちゃんとした肉親、そう言った彼女の声が頭の中で反響してどうしてもおさまらず、僕は父と母と弟の顔を順々に思い浮かべた……。唯一のちゃんとした肉親……。
「洞窟の中まで着いてきてほしいとは申しません」
 マシロは荷物を背負いなおし、松明を左手に掲げた。彼女の青白い顔の左半分が、揺れる炎によって、ちろちろと紅く照らされた。
「あとはわたし一人の事情です。洞窟までの案内をしていただいた今、もうじゅうぶんです。いきなりキスしたり、無理やりお願いしたりして御免なさい……。お元気で」
 背を向けて、彼女は洞窟を降り始めた。数メートルはなだらかな下りが続くけれど、ある地点で急に道が傾く。……彼女はそれを知っているだろうか? 洞窟の中には河のほかにも泉が点在し、暗い中だと発見しにくいことを知っているだろうか?
 僕はあまりものを考えないうちに、つい口を開いた。
「あの……」
 マシロが少しだけ振り返る。僕は自分でも何を言おうとしているのか確証が持てないまま、喉を絞った。唯一のちゃんとした肉親、というフレーズを頭の中でぐるぐる回しながら。
「僕は……予備校に帰らなくてはいけないのですが、それはそうなのですが、……さっきしたような命令を、またしてもらえれば、予備校に帰るという僕の個人的な義務よりも、自動的にプライオリティが高くなるので、つまり洞窟の中についていくということが、可能になります」

 僕は何を言っている?

 発言してすぐ、いや発言している最中から、やってしまった、もう取り返しがつかない、そんな気持ちがかすめていた。僕はこの女性のために、自ら予備校的世界から遠ざかろうとしているのか。女性恐怖症はどうした? 夏休み開始時点でDランクしか取れていない現状は? だいいちお前はまさか、かつてあんな暴力三昧を受けておきながら、単なるお人好しのフリでもしようというのか――?
 マシロは驚いたように目を開いて、僕をまじまじと見た。それはそうに違いない。僕だって僕の外側に目があったなら、まじまじと見てやりたいくらいだ。この卑怯で惰弱な受験生が人助けのフリ? 笑えない。

「そうですか……」
 けれどもマシロは、切羽詰まったような表情をしているだろう僕を見て、すこし微笑んだ。そしてゆっくりとした動作でこちらに向き直り、僕の両目をのぞき込む。即座にそのココア色は、巨大化して僕の視界を覆ってしまった。また、例の魔力的な痺れを感じる。それはラブソングによくあるようなロマンティックなやつではなくて、医学の分野で議論されるべき物理的な痺れのように思われた。そして笑んだ口元が言葉を紡ごうと開かれる――。

「その必要はありません。研究所に帰って寝てください」
 そして彼女は暗闇の奥まで行ってしまった。


コロポン ( 2013/10/10(木) 22:44 )