序章 第6話
序章:
第6話
女の後姿がみるみる遠くなり、角を曲がって姿が見えなくなった。残されたのは異様に体躯の大きいスキンヘッド(こけている)と、反対に女性のように痩せ細った、主人に捨てられた子犬のような僕。今日の昼までは日常世界で夏期講習を受けていたことを思うと、なんというか、マジでドンマイ、僕。
スキンヘッドが立ち上がり、砂を払い落とすと、彼は突然大声で笑い出した。
「イヤッハッハッハ、イヤハハハ」
男は僕の方に向き直ると、ウィンクして見せる。いやにこなれたウィンクである。見た目も存在感も明らかに重量級なのに、この男には妙に軽薄な優男じみたところがあった。
「面白い捨て台詞だ。『逃げてください』で逃げられたら、泥棒は食うに困るまい。イヤハハハ」
「はぁ……」
「さて」
男は僕の方をジロリと見やった。にやついた口元が僕を恐怖させた。
「お兄ちゃん、俺はどうしたらいいだろうか?」
「はぁ……?」
「ミッションってやつでな、あのお嬢さんをあるお人のところへ引っ張っていかにゃならんのだよ。あるお人ってまぁ、俺のゼミの先生なんだけどな」
「ゼミ……あ、え、大学生なんですか」
意外だ。てっきりベテランの肉体労働者かと。
「あぁ、ヤマブキ大学大学院1年、天顔ハラシという。君は?」
「……ハナダ第一学園3年の坂下コウノです」
「ハナダ第一」男が繰り返した。「名門だな。ヤマブキ大にこないか」
「……ヤマブキ大」
人は見た目によらないものだ。瞬間、敗北感の炎が僕の肌をジリジリ焼いた。ヤマブキ大学――国内最高学府として不動の地位を保ち続けている、エリート中のエリートの巣窟。僕の父親の母校でもあり、……僕の志望校でもある。もっとも、この夏休み時期にD判定しか取れない僕にとって、現役合格は絶望的だけれど。ともかくこのハラシと名乗った、ゴリラみたいな男が、しかもその院に通っているなんて――もっとも、本当のことを話しているとして、ではあるが。
「嘘だと思ってくれても構わんよ。そんなのはどうだっていい」
男は不真面目な表情を崩さないまま、話題だけ真面目な方向へシフトさせた。
「お兄ちゃんはあのお嬢さんについて何か知っているのか?」
「え……」
「あのお嬢さんにまつわっては、ずいぶん深い事情がある。危険でもある。もしまだ関わりが浅く、特別に義務もないんであれば、ここで帰って寝ることを進める。受験生だし、暇ではないだろう。どうだ、手を引くかい?」
「……聞かれるまでもないです」
「ほう」
そりゃそうだ、聞かれるまでもないだろう。それこそD判定で一刻でも惜しいところ、あの女を手助けする義務も必要もありゃしない。ましてやあんな、女性恐怖症を差し引いても関わりたくない狂人とは早々に距離を取りたいのだ。答えは決まってる。
「僕はこの件からは、これっきり手を引き、」
――痛ッ!
一瞬、小針が血管を通り抜けたように、こめかみに激痛が走った。よろめき、視界がくわんと波打つ中で、僕はなぜか、あの女の茶色い瞳をまぶたの裏に見た。悪戯っぽく見開かれた切れ長の目、その甘ったるいココアのような色……。そこに宿る魔術的な光は、つい先ほどそうしたように、またしても僕の唇と声帯を奪って僕の意思に反する返答を紡いだ。
「……手を引きません。僕は彼女に仕える身ですから、命を賭してもお守りする所存です」
大男の両目が驚きにひん剥かれるのを、僕は内心で地団太を踏みながら見守った。ああッ、なんでこうなる、クソっ!
スキンヘッドが距離をジリジリと詰めてくる。「仕える」だの「命を賭してもお守り」だの、ひどく電波じみたいまの一言で、僕は彼にとっての敵と認定されてしまったようだった。また一歩、あの予備校世界から遠ざかってしまったらしいことを悟って、僕は悲嘆にくれる。
さて、どうしたものか。地獄のような校内暴力の日々は、僕にひとつだけ贈り物をくれた。物理的暴力へのささいな耐性である。被害者は、そういう「日常的」な暴力には心を無にすることで対応するので、すっかり慣れてしまって、僕は大男が殺気を放ちつつ近寄ってくるのにも平常心で向き合うことができた。僕に言わせれば、女性と会話するよりも楽である。肉体的暴力よりも、精神的に人間としての尊厳を傷つけられたことのほうが余程トラウマだ。とにかく僕は比較的冷静に、いま成すべきことを思考した。
僕は足が遅い。逃げても捕まるのは目に見えている。勿論ケンカも弱い。こういう惰弱者が力のある大男に勝利する手段はひとつ……。こういう教訓もまた、校内暴力の日々の賜物だった。
近寄ってくる男に気付かれないように、僕は白衣のポケットに手を入れる。そこにはそこそこ重みのある、木の実のような何かが幾つかあった。そのうちひとつを握りしめて、僕はタイミングを待った。
「お兄ちゃん、逃げないとは感心だ。ともかくは君から、先生のところへ引っ張っていくことに、」
トン!
あと一歩の距離まで近づけさせた瞬間を狙って、僕は木の実を高く放り投げた。ギョッとしたような男の視線がそちらに吸い寄せられる。勿論、これはフェイクである。隙を逃さないように、男性を攻撃する場合真っ先に狙うべき場所、股間を目がけて、僕は素早く脚を上げた――のだが。
「ビックリしたァ……お兄ちゃん意外とケンカ慣れしてんのなぁ」
男の、木の幹のような太ももに、僕の右足はガッシリ捕えられてしまった。背筋がスッと凍る。マズった、なんてこった! 弱い奴が強い奴に勝つ唯一の秘訣、不意打ちを封じられてしまった以上、弱者に待ち受ける運命はタコ殴りの一択だ。驚きから覚めた巨漢は、先ほどまでのニヤニヤを取り戻していた。山猫が舌なめずりしている感がある。
その瞬間、信じられないことが起こった(今日だけでまったく、よく奇跡が起こる)。男の左肩を目がけて、……空中から火炎が発射されたのである。
「熱っチャああッ!」
悲鳴を上げて倒れこみ、男はもんどりうった。僕は、好機とも知らず、あまりにも突然降ってわいた幸運に呆然と立ち尽くすのみだ。炎? 夜中の、夏とはいえそれなりに冷えたこの気温の中で、どうして空中から火が出るわけがあるのか……? 説明らしきものをくれたのは、意外にも熱を受けた男自身だった。
「さっきの木の実、ありゃひょっとして、ぼんぐりか……?」
ボングリ?
右肩に火傷を負ったらしい彼は、起き上がって痛ててと手を振りながら、僕を見て笑った。
「お兄ちゃんがトレーナーだったとはね。さすがにこりゃ負けだ、勝てるわけがない。今日はもう帰るよ、これ以上火傷したくないんでね」
男は謎の納得をしてしまうと、僕たちが来た道を通って市街地の方へ歩いて行ってしまった。
僕は、まだ理解の追い付かないまま、とにかく今の発火と何らかの関連があるらしい、先ほどの木の実を拾った。観察してみても全く分からない。極小サイズの火炎放射器というには噴射口がないし、火を吐く性質の果実(そんな馬鹿げたものがあるとしてだが)にしてもエネルギー源が納得いかない。僕の知識では、炎のメカニズムに関する何の証明もできそうになかった。
と、後ろから拍手の音が聞こえた。見れば例の赤眼鏡の女である。まるで上司が部下を褒め称えるような調子で、彼女はゆっくりしたテンポで手を叩いてみせていた。この女はなんと、遠くまで逃げ去ったように見せて、木の陰から僕と大男の一騎打ちを観戦していたようだった。実に、実に、実に横っ面を張り倒してやりたくなる事実である。続く彼女の発言が僕の神経を逆なでした。
「さすがは、私に『仕える』だけあって、『命を賭して守って』くれたみたいですね? うむうむ、褒めてつかわそう、愛いやつめ」
そのしたり顔が気に入らなかったので、僕は手に持っていた木の実を投げた。女の額に当たったが、被害者が文句を言っただけで火は出なかった……。