序章 第5話
序章:
第5話
目を覚ましてすぐ、僕は目を閉じた。無防備で繊細な裸眼に、痴女のような光と熱との熱烈な接吻を受けたためだった。瞼の裏に涙がにじむ。痛みをこらえて僕は涙を拭こうとした。そして気づく。意思に反して動かない腕と、きつい縄の感触。顔にかかる光と熱は、動かない腕と胴体のあいだにはさまれた、目の前の松明。
「ひっ――!?」
僕は縄で縛られていた。仰向けの状態で。フローリングではない、つめたい、湿った地面の上に……。下着の上に白衣を着ている。ポケットの中に何か固いもの……木の実のような。ともかく何者かによって僕は縛り転がされていたわけだ。さて、何者か、とは、何者か。僕の悲鳴を聞いて、その何者かはうるさそうに声を上げた。
「黙って良い子にしていてくださいね、お願いだから……。あなたも痛いでしょうけど、この縄、私も痛いんです。とても」
冷や汗を呼ぶ声だった。さて客観的には、あるいは美声かもしれない、鈴の転がるように軽やかなソプラノだ。僕にとっては、しかしながら、声は先刻までの記憶――僕が謎の女性に口付けされて失神した真昼の悪夢を思い出させる、恐怖の声音だった。僕は目を動かして、視神経によってもそれを確認する。あの女。巨大な赤い眼鏡の、頭の狂った女。僕はその女の足元に、縄で縛られ放られているのだ。後ろ手のみならず、胸周り、腰周り、足首を、それぞれ一周。
しかも胸周りから伸びたロープは、女の肩に結ばれている。まるで、今からまさに荷物でも運ぼうとしていたように。
何事だ?
僕の大脳新皮質には、この問題の解を見出せるほどのキャパシティはなかった。しかし、と大脳は告げる。この女はそもそもからして狂人(のはず)。であればやるべきことは理由を問いただすことではない、逃げよ――。僕は全身に力を入れた。入れた。さらに入れた。唸り声を上げ、顔を赤くして力を入れた。そして縄は決して外れなかった。
「縄の結びっていうのは芸術なんですよ……」
女が面倒げに、しかも妙に誇らしげに口を開いた。倦怠と自慢を同時に出来るとは、お前こそ声音の芸術家のようなやつだ。ところで何だって――縄結びが芸術?
「インカ帝国の文明は文字を持ちませんでしたが、代わりにとても独特な数字の表記術を持っていました。結縄からロープの色、結び目の数や位置、諸々を読む、キープkhipuというものです。これはハングル文字さながらにシステマティックであることに着目されるべきで……」
なぜか講義が始まった。
「またはタイtie、この国ではネックタイnecktieと呼称されます、これは和製英語における誤りの典型的なタイプの1つなのですがともかく、これは17世紀のヨーロッパで誕生したもので、ここにおけるノットknotはまさに結び目の芸術といってよいでしょう、広く知られているだけでもプレーンノット、ダブルノット、スモールノット、ウィンザーノット、ハーフウィンザーノット、クロスノット、ブラインドフォールドノット、ノンノット、と様々な種類があります」
「あッ……あのう……」
僕は声を絞り出した。喉の奥が砂漠化してしまった如く乾いた声が出てきた。認めなければならない、僕は忍耐深くない。
「それが……何か?」
「コホン、結論を急く人ですね、」女は言った、「つまりあなたを縛り付けた結びは、一子相伝の匠技、芸術的なまでに堅い『超絶技巧堅結び』……あなたがどんなに力を入れても、生半可では外れません」
「…………」
謎の技名を発表したところで、女はこちらを振り返って謎のしたり顔をして見せた。くたばれ。
どうやら僕は12時間ほど気絶していたらしかった。時刻は深夜2時。当然、あたりはまったく暗い。僕にくくりつけられた松明を除いて。場所はマサキの研究所のすぐ前、あの美しくない庭の湖(僕に言わせれば不潔に淀んだ水たまり)だった。
「洞窟までの案内を頼みたいのです」
とにかく大声を上げて縄を切らせ、そこから自分でも恐ろしくなるほどの剣幕でこの謎展開の理由を問いただすと(ひとは恐怖すると猛り狂うか笑うかしかできないものだ)、彼女はけろりとしてそう言った。
「洞窟にどうしても果たさねばならない用件があるのですが、道筋を知りませんので……聞けばあなたが道筋を知っていると」
僕はできるだけ嫌そうな表情を作って見せた。確かに洞窟からマサキの家まで歩いたし、そのルートも記憶している。だが、何が嬉しくてこの狂った女を深夜にあんな薄気味悪い場所まで案内してやらなければならないのか?
「マ……マサキさんに頼めばよいのかとも」
相手が女性となると、僕の話し方は不自然である。女性とはできるだけ関わりたくないのだ。
「マサキさんには、」女はため息をついた。「絶対に洞窟には行くなと」
「な、なぜ?」
女は腕を組んで10秒も考え込んでからようやく口を開く。
「危険だから、とのこと」
「ど、どのように?」
女はまた同じポーズで10秒黙る。そして出た言葉が、
「さぁ……」
話にならない。女は憮然として(これは、いわば僕の勘である。女は基本的にほとんど無表情だった)口を尖らせた。
「ともかく分かって欲しいのは、だからこそこんな時間に行くわけです、マサキさんに見つからないように。私だってね、眠いんですよ」
だからどうした。どうして、さながら僕を詰る調子なんだ。妙にしたり顔をするこの女に腹が立って仕様がない。
「そういうわけなので……お願いしますね、道案内」
「い、嫌です。とても、とても迷惑です。できません」
無碍といわれてもかまわない。僕はさっさとこの女との会話を切り上げて、予備校に帰らなくては――そうだ、帰らなくては。予備校へ。学習用冷気と学習用清潔さの支配するあの空間へ。どこまでも機械的に学習用快適さを追及した、現代社会の学習用楽園。そもそも今日は夏期講習の第一日目だった。僕はそれを抜け出した。自殺未遂が悪い意味で失敗し、激流に落ちて、それから――言わせてくれ、慣れ親しんだ予備校的世界から遥か彼方まで来てしまった。ともかくこれ以上、遠くへ行くのはごめんだ。僕はこの一日に起こったことをなかったことにして、明日からまた学習用世界の学習用椅子に座りつつ画面越しの授業を受ける生活に戻らなくてはならない。時々僕の中の何物かが耐え難さを訴え、それを落ち着けるために橋の上で自殺未遂をし、また学習用机の前に座る生活に。何しろ僕は受験生なのだから。
僕のひそかなる決意はしかし、女の行動に一ミリの影響も与えなかった。女はあきれ笑いをするように息を吐くと、――ふと僕の目を覗き込んだ。茶色の瞳。
突如、僕は言葉を失った。
巨大な赤眼鏡越しにある、瑞々しい睫毛に囲い込まれた白の中にある、明るい茶色の円形、その一対が僕の眼球に噛み付いた。さらにはそこから神経と血管の双方へ麻痺毒を流し込む。証拠に、眦は言語力のみに飽き足らず、僕の呼吸すら奪った。いったい何事が……? 僕は混乱した。
「困った子ですね」
僕は呼吸できないままだ。声は金縛りを解くどころか、今度は耳から麻痺毒をいっそう流し込んでいるようだった。僕は何か言おうとした。しかし、身体がしびれて動かない。
「私が要求しているのに!」
次の瞬間、さらに信じられないことが起こった。僕の唇と声帯が、主人の意思を全く無視して言語らしきものを語り始めたのである。それはどうやら次のように聞こえた。
「申し訳ありませんでした、謹んでご案内いたします」
悲鳴でも上げたい気分だったが、ちょうどそのための器官は僕以外の何かによって支配されていた。代わりに僕は、唯一自由だった表情によってあらゆる動揺と狼狽と恐怖を表現していた。女はそれを見て、にっこりと微笑んだ。朝を迎えて、朝顔が開花するように。
それで終わりだった。不可思議な身体の硬直は解け、僕は大地にひざを付いた。自分の息が荒いのが、どこか遠くから聞こえる。
「何をした、お前!」
そう叫んだつもりだったが、実際に出たのはひどい掠れ声で、どうやら「あ……あ……!」と聞き取れるだけらしかった。その証拠に女は微笑を崩さなかった。
結局、僕は女を案内することになった。というのも、僕が引き返そうという素振りのひとつでも見せると、先ほどの金縛りの気配が蛇のように首をもたげるからだった。不可思議な力は、どうあっても僕を女に服従させたいようだった。僕としてもこんな状況は恐ろしくて早々に終わらせてしまいたかった。
暗路にもかかわらず、幸いにして僕の記憶力は優秀だった。僕が今日の昼、自殺を試みた例の橋(コンギョク橋という。漢字では表記したくない。ハナダの男連中は、この橋をふざけて「ゴールデンボールブリッジ」などと呼ぶ)を渡り、ろくに道もないような草いきれの中をかき分けて、僕たちは進んだ。このまままっすぐ行けば、いずれ洞窟の入り口に着く……。
そこで僕は意外なオブジェクトを発見した。人影である。大柄の、スキンヘッドの男。いかにも好戦的な顔で――そして、何故か僕たちをねめつける男。彼はジーンズとTシャツを、恐らくXXXXLサイズのを纏っていた。何度も言うようだけれどとにかく大柄で、腕が丸太のように太く、ごつごつしている。もやしっ子の僕にはそれだけで苦手と判別したくなる人間だ。特に僕のような、殴られた経験の豊富な奴にとって、性根に関わらず体格のいい男は天敵だった。しかしなぜ、都市生活者ならば足を踏み入れさえしなさそうなこんなところに、人が?
男はこちらに向かって歩いてきた。僕は警戒したが、だからといって逃げるわけにも行かない。謎の呪縛はまだ続いていたし、見かけ上いかにも関わりあいたくないタイプらしく見えるというだけで、必ずしも実際に手を出してくるわけではないのだ。僕にできることはせいぜい目をそらしながら、無事にすれ違うことを祈る程度だった。
大柄な男は、同じことを祈っていなかったようだった。
彼はすれ違うその瞬間に、僕の華奢な肩にその巨大な手のひらを置き、強く握り締めたのである。僕たち、すれ違いの3人は足を止めた。僕が恐る恐る振り返ると、男は白い歯をむき出しにしてニタリと笑った。山猫の笑みだった。
「お兄ちゃん、俺はそちらのお嬢さんに御用があるんだ。取り次いでくれないか?」
冷や汗がドバッと出る。思わずかがみこんでしまいたくなった(これは殴られなれている人間の癖のようなもので、人体において背中側がより痛くないことを知っているために、危険を察知したら反射的にやってしまいたくなるのである)が、ひとまず僕は理性を保って女のほうに意思確認することにした。そして僕は見た。女が僕をおいて走り出し、すでに5メートルも離れたところにいるのを。
「言い忘れていました……」
女が顔だけ振り返って言った。極めてのんきそうに。
「わたし、追われているんです」
言葉が出ない。先ほどの呪縛とは別の意味で。追われている? はぁ? なぜそれを今言う? ふざけてんの? 僕がフリーズしている間に女はさらに5メートル先まで離れてしまった。男が追いすがろうとし、掴んでいた僕の肩を投げ捨てる。女はそれをちらりと横目で見やって、そこでふと何かに気がついたかのように立ち止まった。意表をつかれた大柄の男が、つんのめって転倒する。女は目もくれず、僕の目だけを見てまた口を開いた。
「もうひとつ、言い忘れていました」
深刻そうな声を作ってはいるのに、表情は変わらない。それは彼女に彫像めいた雰囲気を与えていた。だとしたら、次に続く言葉を聴いて、僕は彫像をつるはしか何かで粉々にしてやりたくなったものだった……。
「必ず逃げてください。がんばって」
女は走り去ってしまった。