歴史にキスを!
序章 第4話
序章:
第4話


 僕は全身を茹でダコ並みに真っ赤にしながら、熱されたフライパンの上にいるみたいに跳びはねるようにして目の前の少女からの逃亡を図った。全裸だ! 僕は全裸で、女の前にいる! 只でさえ異常な状況なのに、僕ときたら女性恐怖症だ。叫びに叫んで喉を嗄らしつつ、僕は座っていた椅子に隠れようとして正面衝突したり、痛みにもんどりうって悶えつつ僅かでも遠くへ行こうとして見事に転んだりした。身体じゅうのありとあらゆるところがもの凄い量の汗でビショビショだった。涙や鼻水も出ていたかもしれない。たぶん出ていたと思う。まるで狂人のようだ。あるいは、本当に狂人なのかもしれない。
「あの……?」
 にも関わらずこの少女は、その狂人とコミュニケーションを取ろうと果敢にも試みる。何か答える必要があった。正確に言うと、少女が何か言うのを食い止めなくてはならなかった。万が一彼女の口から非難する言葉の一つでも漏れ出れば、女性からの悪口にトラウマを抱えた僕は、先ほどからドクドクドクドクうるさい心臓をついに破裂させてしまうのだ。僕はとにかく口を開いた。何を言おうか考える暇もなく声は自然に出てきた。
「ハダカじゃありません!」
 われながら最悪である。もともと最悪の状況下で、それを更に悪化させてしまうとは、僕というやつは! 才能かもしれない。ああ、何を言っているんだ、僕は?
「ハダカじゃないんですか……?」
 女が戸惑ったように言うかたわら、僕は震える手で椅子にしがみつき、身体をなんとか申し訳程度に隠すことに成功した。
「見ないでください! ハダカだから!」
「やっぱりハダカなの……?」
「はぁあ?」
 思わず、素っ頓狂な声が僕の口から漏れ出た。頭がクラッと揺れる心地。この女は馬鹿なのか?
 ああ、本当なら僕は受験生としての夏休み初日、塾講師達の脅迫まがいの激励を受けながら必死にシャープペンを滑らせているはずなのに――なのに、僕はいったいどうしてこんな処で、馬鹿な女の相手をしているんだ。全裸で。
「み、見て、分かりませんか」
「だって今、見ないでっておっしゃったじゃないですか……。見てもいいんですか?」
 失神しそうだ。どうしてこうも会話がかみ合わない、僕が自殺に失敗しているあいだに、この国の女はこうも危機的に恥じらいを失ってしまったのか? 馬鹿言え。
「いいんですか? じゃあ、今そっちへ行きますね」
「は……?」
 少女は事もあろうに、つかつかと僕のほうへ歩み寄ってきた。目を見ると、なんと微笑んでいる。――ゾクリと毛虫の肌触りをした戦慄が、僕の背筋を走った。――この女は、この女こそ、狂っているのだ。僕は目を見開いた。とてもよい形をした膝小僧が、みるみるうちに近づいてくる。まるで死刑宣告のように――五、四、三と、一定のリズムで――カツカツ音を立てながら、膝小僧は僕の目から数センチのところまで来てしまった。
 僕は目を上げた。
(――!)
 栗色の髪の毛が、ゆるく曲線を描きながら、胸元まで、色つきの水滴のように瑞々しく垂れていた。ほっそりとした顎に乗っかった厚めの唇は、やはり笑んでいる。白い輪郭を伝って目線を上げていくと僕の視界は、赤いスケルトンの、小さな顔に対して巨大と言ってもいい眼鏡に到達してゆく。その奥で光るのは、純粋な知的興奮を称えた切れ長の両目だ。目が合うと、彼女は微かな驚きにまぶたを少し上げた。そして、次の瞬間、彼女は僕の視界から消失した。
 彼女は僕の目の前に屈んで、すかさず僕の唇にキスをしたのである。
「――!?」
 猫の毛を思わせるやわらかい髪が、裸の僕の肩をくすぐった。……僕は、目の前が真っ白になった。


■筆者メッセージ
さきほど、勘違いから自分の小説を拍手してしまいました。気づいたら生温かい笑みで見逃してやってください。
コロポン ( 2013/02/23(土) 19:28 )