序章 第3話
序章:
第3話
――僕だって、好きで自殺未遂を繰り返してきたわけじゃない。
全裸でマサキの研究室に座らされているあいだ、僕は自分のこれまでについて考えをめぐらせていた。今みたいに、時間ができてしまえば――特にすることのない時間ができてしまえば、僕の思考はいつだって自分の惨めな境遇に向かうのだった。マジックやら彫刻刀やらボンドやらを駆使してあたうかぎり滅茶苦茶にされた机や、クラスメイトの禍々しい笑い顔が思い浮かぶまでそう時間は要らなかった。
学校は地獄だった。四方を敵に囲まれたこの世の終わりだった。第一の敵は、いわゆる問題児たちである。彼らは僕を苛める筆頭だった。人間の子供は実際のところ、野生のサルよりも凶暴だ。殴る蹴るは当たり前だった。毎日だ。時には根性焼きの痕も残された。が、これでもまだ良かったほうだ。一番辛かったのは――思い出したくもない――なのにどうしても思い浮かんでくる――クラスメイトの前で、言いたくもないこと、本来限りなくプライヴェートな空間ですべきことをさせられたことだった。昼休み、彼らが高らかにアナウンスをして教室じゅうの注目が集まったときの気分はよく覚えている。「これから坂下がアレをします!」、いくらなんでも、現実の出来事とは思えなかった。こういうとき本当に頭は真っ白になるのだ。この時点で身体の震えが止まらなくなり、涙がこぼれていた。勿論教室から駆け足で出て行く女子生徒も何人かはいた。それでもクラスの半分以上はしっかり残っていたし、当然の如く他のクラスからも見物客はごまんとやってきていた。まさか、まさか本当に、本当にこの教室でするのか? まさか、そんなはずはないだろう。
一方で、僕は自分の奴隷精神がつぶやくのを聞いていた。そうだ、そうなのだ。ああ、僕はここでするんだ、奴らの言うとおりに。今回も反抗できないんだ。……実際、ホウキや黒板消しで殴られ、顔も知らない奴らに笑われたり叫ばれたりしながら僕は理性のないケモノのようにソレをきっちり最後まで遂行した。
明確に覚えている。僕のリストカット癖はちょうどこの日の夜に始まったのだ。ついでに女性恐怖症の発症記念日。その、やらされたこの行為に対してトラウマタイズされた記念日。風呂で自分の裸体を見るたびに発狂するようになった記念日。そして何よりも、僕が奴らのどんな残酷な、どんな恥ずかしい命令にも忠犬のようにバッチリ従うことが判明した記念日だった。
学校は地獄だった。では不登校になればよかったのだろうか。
いや、僕にとっては家庭すら刑務所と同義だった。僕の家は確かに豪邸ではあった。父の年収は1700万を越えていたので(このことをいつも父は嫌な声で自慢していたために、僕は今でも1700万という数字が苦手である)、寝心地のいいベッドにだだっ広い部屋、金持ちの生活だったのは確かだ。ただ、主に僕が成績優秀ではなかったことが原因で、僕と両親の関係はひどく希薄だった。それでもまだ会話はあった。中学受験に失敗するまでは。そしてその1年後に弟が、僕が落ちた中学に合格するまでは。
中学受験の時期のことは鮮明に覚えている。志望校のレベルに達していなかった僕は、毎晩2、3時間しか寝ずに勉強することを両親に要求されていた。12歳の子供が、机の上で転寝でもすればたちまち平手打ちとヒステリックなお説教を食らわされたのである。今思えばひどい話だが、当時の僕は自分に非があることを認め、自己嫌悪と恐怖の中で必死に勉強し続けた。その結果は笑い話である。僕は受験の当日、朝から試験終了まですべて寝通したのだ。当然、再試験は不可能で、僕は地元の公立中学に通うこととなった。
両親は敗北者を家族と見なすことはなかった。さらに翌年、年子の弟が僕の志望校に受かってからは、坂下家は両親と弟の3人家族で完結することを決定したようだった。これは誇張表現ではなく実際的にそうなったのである。僕だけ食事の席は別にさせられたし、基本的に部屋に篭って勉強する以外の行動は許されなかった。もちろん会話なんてあるわけないし、弟の顔なんてかれこれ2年ほどまともに見ていない。そういうわけで、ここにも、僕の居場所はなかった。
自殺未遂を始めたのは中学2年生の頃だった。本当に死ぬつもりはなかったが、家の近くにある大きな橋に行くことが多くなった。手すりを乗り越えて、死を間近に感じることで、何故か少し安堵感を覚えたのである。その安堵感は、現実から目を逸らしたくて仕様のなかった僕を虜にした。勉強と勉強の隙間を見つけてはこの橋へ来るようになった。今朝も、塾の夏季講習1日目をこっそり抜け出して、その悪癖を繰り返していたのだ……。
ふと僕が顔を上げると、そこには少女が立っていた。
「はっ?」
心臓がギクリと捻りちぎられる心地がした。考え事にふけっていたためか、人の気配に一切気がつかなかったらしい。鼓動がみるみるうちに早く、うるさくなって僕の胸部を圧迫する。先述したとおり、僕はひどい女性恐怖症なのだ。彼女は僕の眼を覗き込んだ。こういうとき僕は一度目が合ってしまうと、むしろ目を逸らせなくなる。
美少女かというと、イエスでもありノオでもある。女優的に整った顔立ちではないし、アイドルのような溌剌さもない。その顔立ちは、理知的な印象と、奇妙に老成した雰囲気によって形成されていた。若手の敏腕弁護士のようでもあるし、女性教師のようでもある。ただしそうなると、160センチに達するかどうかという小柄さと、顔の半分を支配している赤くて大きな眼鏡が不釣合いになってしまう。……何にせよ僕は、目の前にいる、この類の、同年代の娘というのは最悪だ。お婆さんや赤子ならまだしも、同年代とは。
と言っても、僕だってもう高校生である。こういう場合、悲鳴を何とか呑み込むことくらいはできるようになった。嫌な連想を断ち切るのもそれなりに上手くなったのである。ギリギリ耐えているというところだけど、いわば僕とトラウマの腕相撲的コミュニケーションだ。
と、少女が口を開いた。
「あの……」
そこまで言って、彼女は逡巡するような様子を見せた。口元に手を当てて、困ったような顔つきで僕から目をそらす。僕はといえば不機嫌な表情を作っているだけだ。女とは! 本当にいつもこうだ。即決のできない、愚図で、のろまで、醜悪な生き物! 僕は、とりあえず女を罵倒することで、混乱した頭をコントロールしようとしていた。何を迷うっていうんだ、いったい? 生きるべきか、死ぬべきか、それを問題としているのかい? ならば教えてやるが、正答は勿論――
「あの、あなたは服を着ないんですか?」
――死ぬべきだ。僕は絶叫した。自分が裸である事実を思い出して。