序章 第2話
序章:
第2話
僕が何故この恐ろしい男に素直についていったかというと、彼がランプを持っていたせいである。この真っ暗な洞窟の中では、明かりを失うことは命取りだ。それなのに男のほうが僕を気にせず早足で歩いていってしまうので、僕はけっこう必死になってゴツゴツした足場を進まねばならなかった。――ああ、ポケモンの「フラッシュ」でもあれば、楽に洞窟も移動できるんだろうけど――いや、いや、何を言ってるんだコウノ。いいか、ポケモンはゲームだ。ポケモンは実在しないのだ。そういう妄想は大概にしておかないと、また父親に言われるぞ。「ゲームなんてものはバカがやるものだ」……。
それにしても。
この男はいったい何者なんだろう。
最初はただのヤクザかと思ったけれど、どういう訳か白衣を着ている。ヤクザが白衣を着るだろうか、普通? 僕に渡してくれた予備の白衣だって持っていたのだ。もしかして何かの研究者なのだろうか。しかし、果たして研究者にあんな威圧感は職業上、必要になったりもするのだろうか。第一、この男はこの洞窟に何をしにきたのだろう。荷物は大きめのリュックひとつである。そもそも研究者なら助手の1人もつけずに、単独でこんなところに来ることは想像しがたい。……いったい、何者なんだろう、この男は。
「俺の家に向かうからついてこい」、とだけ言って歩き始めてから、男は無言だった。僕のほうも岩場で足を滑らさないのに必死で口なんか利く余裕もなかったし、こんな得体の知れない男に話しかける気も起こらない。そんな訳で僕らはずっと無口のままひたすら歩き続けた。
20分ほど歩いたところで、僕らは洞窟の外に出た。ようやく外の光にお目にかかった! なんて感動を味わう余裕も僕に与えず、男は洞窟の中と変わりないペースで歩みを進めていた。彼の家とやらに招待してくれるらしい。僕は結局何も言わず彼についていくのみである。本当は少し休みたかったのだが……。
男の家は洞窟からさらに20分ほど歩いたところにあった。ハナダシティの郊外である。僕が河に飛び込んだ橋を渡りきってからしばらく東にいったところだ。生粋のハナダっ子である僕すら来たことのない、辺鄙な場所だった。湖か水溜りかで言うと湖、という程度の大きさの湖が家の前に広がっている。別に庭園的な意図はないらしく、よく言えば自然のままの、悪く言えば美しくない状態の湖だった。
家は小さめの一軒家で、玄関のところに行書で「曽根崎研究所」と書かれた表札が貼ってある。曽根崎――それがこの男の名だろうか。
「あー」
男が立ち止まって振り向いた。実に40分ぶりの発言である。にこりともせずに、というか真剣に怒っているのか疑うほどぶっきらぼうな表情と口調で、男は続けた。
「忘れとった。俺の名前な。曽根崎マサキ、動物行動学者や。タマムシ大学で教えている。お前には、少しそのことで手伝ってほしいことがあってな、それで溺れてるんを掬い上げてうちに来てもらった」
曽根崎マサキ。学者らしい。
どうやら僕の読みは半分はあたりで、やっぱり学者にはこの殺気が職業柄必要になるらしい――ちょっと待った。その前に、手伝ってほしいことって何だ。このヤクザと間違えるほど目つきの悪い男が、そしてタマムシ大学の学者さんが、……僕みたいな自殺未遂のガキを捕まえて、何をしようって言うんだ。このとき僕はどうしても嫌な予感しかせず、貰った白衣を冷や汗で随分濡らしていたものである。それこそカエルがのこのことヘビのキッチンまで来てしまった気分だった。
振り返って考えると、彼の要求したことは思ったほど残酷なこと(たとえば、生物実験の実験台にさせられるというような)ではなかった。しかしよっぽど重大で、予想外で、恐ろしいことだった。後の彼の言によると、一度死んだはずの人間だったから、何をしても構わないだろうと思った、とのことである。よくよくとんでもない男だ。
いずれにせよ僕には逃げるという選択肢を選ぶほどの度胸がなく、すごすごという体で男の――マサキの後に続いて「曽根崎研究所」の敷居をまたいだ。
マサキは僕を、玄関入ってすぐの、病院の待合室のような場所に座らせた。
「お前の着替え取ってくるわ。とりあえず白衣をよこせ。あ、あと濡れた下着も洗っといたる」
まるでペットに命令してでもいるかのようだ。僕が裸になることなど、犬が裸になる程度にしか思っていないらしい。
もっとも僕はマサキに逆らう気はなかった。怖いというのもあったが、どんな怖い雰囲気の男でも、マサキのお陰で僕は命を永らえたのだ。運命の出会いというやつだろう、と思っていた。いわば恩義をいまさらながら感じていたのである。
運命の出会い。なるほど間違いはない。マサキとの出会いは今回の話に大きく関わる、確かに運命的な出会いだった。しかしながら、実はこの数秒後により重大な出会いが僕を待ち構えていたのである。勿論、のんきに椅子に座って緊張している全裸の僕は知る由もなかった。