序章 第1話
序章:
第1話
流されるというのは体力を使うのだ。
激しく息を切らしながら川べりの砂利に横になって、僕はそんなことをぼんやり考えた。と、こう言うと格好良く響くのだが、実際のところ僕の脳内は次のような言葉で埋め尽くされていた。「ああ」「やばい」「マジで死ぬとこだった」「やばい」「本当やばかった」「生きてる」「寒い」「ああ」「ああ」……。つまり「流されるというのは体力を使うのだ。」などと余裕をこいた真理を発見していたのは、僕の脳みその0.00001%ほどのお話である。客観的には、砂利の上に仰向けになって、びしょ濡れの服を着たまま寒さと恐怖に歯をガチガチ言わせながら息切れしている男の子という間抜けな図でしかなかった。死にかけた直後というのはもう、まともな考えなんてものはどこかにぶっ飛んでしまうものなのだ。
「うわっ」
突然、その間抜けの僕の顔面にタオルが襲い掛かった。驚く間もなく、男の声がその上から被さった。
「ガキ、起きろ」
僕はタオルを少しどかして声のほうを見た。――僕の命の恩人がそこにいた。そう、先刻、急流に呑まれてあわや死にかけていた僕を、飛び込んで救助してくれた男である。僕にとってはまさに恩人だ。だって自殺する気なんて本当はこれっぽっちもなかったのだから(ちょっと気分が落ち込んでただけだ)……。僕は素直に立ち上がった。
「起きたら、まず身体拭け。話はそれからや」
僕はタオルからひどい肌触りと酸っぱい匂いを感じた。でも文句を言えはしなかった。なぜかというと――男が怖かったのである。縁もゆかりもない僕を救助してくれた彼は、果たして善意のカタマリなどではなかった。それどころかどう考えてもカタギの人間ではなかったのである! いや、外見は割と普通だ。30前後の、細長い体型で整った顔立ちの青年。それはいい。しかしながら、目つきの鋭さが半端じゃないのだ。それはもう人を5人は殺していそうな目である。おそろいで声のほうも、底冷えするほどドスが効きまくりの低い声だ。絶対、シャバにいるべき人間ではない。知的な印象も奇妙なことに受けるので、多分ヤクザの中のエリートとか、そういう感じだ。せっかく命が助かったっていうのに、その直後にヤクザに絡まれているなんて! 恩知らずなことを思いながら、僕は裸になって身体を拭いた。うぅ、寒い。それに男が怖い。まるでヘビの晩餐に用意されたカエルが、食事のために自分で自分を洗っているような最悪の心地だった。
「服は濡れてて使われへんな。よし、下着だけつけて、あとはこれを着ろ」
男はそう言って自らのカバンから白衣を取り出し、僕に渡した。ああ、こういう言い方をするとすごく親切な男みたいだ。しかし現実は非情である。「渡した」? 冗談じゃない。僕に向かって、無作為に「ぶん投げた」のだ。白衣は僕の顔面を直撃した。痛い。
それでも白衣を着ると、ひどかった身体の冷えがすこし落ち着いた気がした。もともと今日は夏休み初日、晴天の夏日である。すぐに身体も温まって、白衣だってむしろ着ていると暑くなってしまうに違いない――
「ぶえっくしょん!」
――そんなことはなかった。
あれ? お、おかしい。今日は確かに25℃を超える高気温の一日だったはずなのに。どうしてここはこんなにも寒いんだ。おまけによく考えたら、夏の午後にしては随分暗いぞ。男の持っているランプのお陰で、ほのかに辺りが見回せる程度だ。
……まさか、太陽光が差し込んでいない?
「風邪を引くなよ、ガキ。なんせこの洞窟の中じゃ、気温は10℃やからな」
ど――、洞窟? ここが、洞窟?
そんなものがこのハナダシティにあるだなんて。18年間この街で生きてきて、そんな話聞いたこともないぞ。
……いったい僕はあの急流に呑まれて、どこまで流されてしまったのだろう?