序章 第10話
序章:
第10話
「あの熊をやっつけてくれ」
無理がある。僕はウルトラマンでもゴレンジャーでもない。体育の成績2のヒョロヒョロクソ野郎だ。そいつに熊を倒せというのは、働きアリに5キロのダンベルを運べと言うようなものだ。世の中、できることとできないことがある。
「何も素手でやれとは言ってない。お前のポケットにあるやんか、え? そいつをちょいと投げりゃ仕舞いじゃ」
マサキは、まるでごく当たり前のことを要求しているみたいにそう言った。パソコンの電源を入れるには、ここにスイッチがあるやんか、これをちょいと押せば仕舞いじゃ、とと言う時の感じで。
僕のポケットにあるものといえば、ハラシを追っ払った木の実、「ぼんぐり」というらしい謎のアレである。そいつでこのバカでかい熊を倒せと、なるほどいいアイディアだ。それで誰がそれをやるんだ? 僕? お恥ずかしい話、僕は恐怖に支配されて身体を動かすことができない。働きアリに荷車を与えたところで、動かすことができなければ結局ダンベルは運べないのだ。
「あ、あ、あえ、かえ、マサ、さん……」
帰っていいですよね、マサキさん? そう言いたかったのだ。でも僕の声は僕が予想していた一億倍情けなく震えていて、理解してもらえはしなかった。
熊は、もう僕から4メートルほどのところに立っていた。まるで「殺傷力」という言葉を具現化したみたいに、山脈みたいにコヅゴツした太さ15センチもあろうという腕。その先に包丁が4本生えそろってるみたいな爪。あれで一振りやられただけで僕は逝ってしまう。瞬間的にとてつもない恐怖が、きゅっと下腹部あたりを締め付けた。僕は尿を我慢しているときに男子トイレで寝かされ、ある男子生徒に膀胱を思いっきりギュッと踏みつけられた時のことを思い出した。
そして熊は戦隊ものの悪役よろしくきっちり4メートルのところで立ち止まっている。それは、恐ろしくも奇妙な光景だった。まるで僕が何らかのアクションを取ることを待っているかのように……。マサキ、マシロ、そしてこの巨大な熊まで、この空間にいる僕以外の誰もが、僕が何かを始めるよう期待しているみたいだった。期待? 僕は、そいつが苦手なのだ。
……沈黙が痛い。
誰も何もしないまま10分が経過した。何となく僕にもわかってきた。熊は、ただの野生の熊じゃないらしい。明らかに意思を持って僕の動きを待っていた。たぶんそれは、マシロとキスをしたことで起こった何か、もっと言えば僕が任された「役割」のようなものと無関係ではないのだ。でも僕は動けなかった。どうしてだろう。18年間、僕を縛ってきた何物かは、マシロとの接吻よりもより強い呪いを僕にかけているのかもしれなかった。
僕は身体を震えるに任せつつも、熊の瞳を覗き見た。荒々しい肉体に不似合いな、静謐と言っていいほど澄んだ目が僕を見つめていた。それは期待に満ちた視線だった。まるで誕生日パーティの主役が、蝋燭の火を吹き消す瞬間を待っているように……。僕はロボットみたいに不自然な動きで、白衣の右ポケットに手を差し入れた。――ぼんぐりはたしかにここにある。ごつごつした肌触りを、人差し指と親指の腹で感じる。これを投げればこの期待はきっと満たされるのだ。
僕は何を迷っているんだ?
すなわち僕の恐れとは、この木の実を投げてしまえば予備校世界から完全に隔絶した、別の世界へ足を踏み入れてしまうのではないかということだった。参考書には、火を噴く木の実の話は出てこないのだ。人の動きを待つ大きな熊も、キスしただけで命令が遂行されるシステムも、そういう、非常識な事物はセンター試験には出てこないのだ。一度投げれば、もう何回も投げることになるかもしれない。それにはもう何日も、何週間も時間を費やすかもしれない。ヤマブキ大学を志望し、夏休み時点でD判定しか取れていない僕には、そんなことをしている余裕はないかもしれない。
僕の右腕はボンドで固められたみたいに動かなかった。そもそも動かすべきなのかわからなかった。受験生にとって第一プライオリティは受験勉強、間違ってないんじゃないか……?
と、岩壁に背をもたれていたマサキが起き上がった。彼に責められると思った。期待が果たされない今、その期待を取りやめようとしているのか。そういう経験は、僕の人生で何度かあった。期待外れの視線を向けられるのはすごく嫌だった。
「ガキ――」
冷や汗を垂らす僕に、マサキが口角を上げて言ったのはこんなことだった。
「そこから、逃げたくはないか」
僕はマサキのほうを見た。鋭い眼光はそのままに、マサキは妙に悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「受験勉強から逃げたくはないか。それはお前の本当にやりたいことか。やりたいことじゃないにしろ、それはお前の義務なのか。何がお前を予備校の椅子へ縛り付けてる? なぁお前、よぉ、お前のいるそこから、こっちへ来てみたくはないか」
まるで僕の心を見透かすように、マサキはより一層笑みを深くしてみせた。
「したくもないのに勉強するなんて、そりゃ苦行やんか。ヤマブキ大だかなんだか知らんが、そこへ行って何がしたいんや。そんなもんも決まっとらへんのに自殺したくなるほど勉強する、そりゃアホの極みってとこやな」
「…………」
「なぁ、長いことはかからへんよ。ともかくどこかしら、現役で受かりたいのはわかる。夏休みが重要なのもわかってるが、せいぜい一か月程度、お前を縛ってるその何かから逃げ出してみたくはないか。18年間できなかった現実逃避を、してみたくはないか?」
僕はずっと言い返そうとしているのだ。なのに言葉が出てこない。まるでマシロがまた僕の声帯を奪ってしまったかのようだ。
「18年間キツぅい勉強してきて、何も諦めてこなかった、そんなことはないやろ?」
ポケモンのことを思い浮かべた。都大会で優勝するっていうのは、本当のところとても凄いことなのだ。父親にはその価値もわからないくらい……努力とセンスが生んだ結晶なのだ……。
「その諦めてきたものへの、こいつぁ供養じゃ、……ホラその右手、使うて、投げてみ」
あぁっ。
マサキの言葉は、僕がずっと蓋をしてきた心のマグマを、あろうことか自由にしてしまった。
そうだ、そうなのだ、勉強なんかしたくなかった。したくなかったとも! 机の前に向かうたびに吐き気を催したのだ。教科書は僕を殴り倒す、学校での暴力野郎と同じ存在だった。二次関数? 作者の気持ち? ホイヘンスの原理? われ思うゆえにわれあり? 国の歴史だ、世界の歴史だと? こいつらは全部僕の顔やわき腹やみぞおちや股間や、あらゆる敏感なところを18年間殴り倒してきたんだ。予備校は僕を閉じ込める牢獄だったとも! 本当はドヤ顔で講義する画面の向こうの教師も、スケジュールを管理する妙にいい匂いの担当者も、最高の環境を作り出す空調も、ぜんぶぶち壊してやりたかったのだ。僕の人生だ! どうしてこいつらに殴られ倒される、そんなものじゃなくちゃいけないんだ。どうして親やら、学校やら、そういうものに叩かれて育たなくちゃいけないんだ! ヤマブキ大学? ハナダシティで生まれ育った僕は見たこともない。どこだそこ。行きたいと願ったことなんて一度たりともない!
僕はけっきょく、心に煮えたぎる暴虐なマグマを抑えることはできなかった。右手に掴んだぼんぐりを、熊に向かって思いっきり投げることになってしまった。
ぼんぐりは熊にあたって跳ね返り、地面をはねた――そして、(僕には確かにそう見えたのだが)妙なオレンジ色の影が、ぼんぐりから吐き出されるように現れたのだった。
そいつは人間の子供くらいの大きさをした、妙に可愛げのある大蜥蜴だった。身体は丸っこく、敵を威嚇するための牙も爪もご愛嬌なサイズだ。皮膚は見事なオレンジ色のうろこに覆われ、瞳はつぶらだった。ミニサイズの恐竜といった出で立ち。獰猛に吠えてるつもりだろうが、熊に比べればその威圧感はショートケーキレベルだった。
何より特徴的なのはその尾、より正確に言えばその先に灯る火である。まるでアルコールランプを括り付けてあるみたいに、そこには絶えることなく火が煌々と照っているのだ。……僕はこの生物を知っていた。
「ほれ、」マサキが言った。
「ポケモン、やったことあるんやったな? コイツを知らんとは言わせんぞ。このトカゲ、名は何じゃ。言うてみい」
だって、現実にそこに存在しているはずのその生物は、僕の目には架空の存在であるはずの、それとしか見えなかったのだ。特に尻尾の先の灯は決定的だ。そんなものはそう、「ポケモン」の中に出てきたアイツの尾にしかない。呆然としつつ、僕は答えた。
「ヒトカゲ……?」