歴史にキスを!
序章 第9話
序章:
第9話





 いきなり僕に叩き起こされてからのマサキの行動はすばやく、着替えと荷物の整理と僕からの事情聴取は同時に行われた。その事情聴取の中で、僕は裸体で彼女にキスされたことや、どうやらそれを原因として僕に謎の呪縛がかかるようになったこと、ハラシと名乗った男とのやり取りなど、すべてを説明しなければならなかった(ひとつでも欠けば、結局僕の話す荒唐無稽な事実は真実味を失ってしまうのだ)。マシロが僕にキスしたところと、僕の投げた謎の木の実が発火した段階と、この2回だけマサキは秀麗な眉をピクリと動かした。やっぱり彼は何か知っているのだろうか? 話し終わった時のマサキはそれまでと変わらない鬼みたいなしかめっ面だったけれど、その瞳の中には焦燥というか、余裕のなさのようなものを見て取れたような気がした。

 結局マサキを起こしてから10分と経たないうちに僕たちは研究所を出発して、そのままてきぱきとした足取りで20分のうちに洞窟の入り口にたどり着いた。
 洞窟の中は、昼間に通ったのと変わらず悪路だった。そして僕を先導する灯りを持つマサキもまた昼間と同じく、僕を置いてスタスタと行ってしまう奴であった。それでも今回は、僕は苦情を言うつもりもなかった。僕たちは、マシロを目指しているのだ。彼女が無事に進めているのか確認するのに、早いに越したことはなかった。もともと身体つきもひ弱で体力もない僕は、息を切らして発汗している。
 実際のところ、どうして僕がこんなことをしているのか、自分でも説明をつけることができなかった。僕は受験生だ。受験生の夏休みといえばいわば最大の勝負所であって、ここでより大きく学習を前進させられた者にのみ合格が訪れる。言い換えれば、僕のこの時間の浪費は、今年度の合格そのものを賭す行為に他ならない。そこまでして、今日会ったばかりの、僕を苛々させることに長けたあの女性を、どうして僕が助けに行かなくてはいけないのだろうか? ――でも、こういう論理立てはいわば客観的な状況認識でしかない。
 自分を納得させるためには、主観的な話に持ち込む必要がある。つまり、その受験勉強とは、そしてヤマブキ大学への合格とは、この僕自身が心から本気で願っていることなのかどうか。それだ。
 ヤマブキ大学の合格は、坂下家の男性にとって、母の腹に着床した瞬間から当然の義務だった。いや、それは義務ですらなかった。僕の父も、祖父も、曾祖父もヤマブキ大学の出身だった事実を鑑みれば、坂下家の男性にとってそれは当たり前のように通過する人生経路であった。だから当然、坂下家の長男である僕もまた同じ母校を持つことを要求されていたし、僕もこれまで、それが自分の中で最高位のプライオリティを有するものだと思っていた……。たとえ顔見知りの女性ひとり、洞窟で危険な目に合わせても。

「ガキ」
 マサキが呟くように僕に言葉を向けた。彼は相変わらず少し怖かった。別に暴力をふるうのでもないし、刺々しい罵声を浴びせるような人でもない。単に、彼の他人に向ける眦と声には、どうしようもなく鋭いものが含まれていた。優男な外見と裏腹に……。きっと、意識的にそうしている訳でもないのだと思う。自分ではどうにもできない類のことなんだろう。たとえば見た目の可憐なヒメリンゴが、自らの渋い味をどうしようもないのと同じように。
「……はい」
「お前はぼんぐりを扱うたんやな。やんな?」
 ぼんぐり――。出た、謎の単語だ。僕の来ている白衣の右ポケットで今もコロコロしている、発火性の謎の木の実。ハラシを焼いた謎の火炎放射……。僕は正直に思うところを述べた。
「あ、扱えたとはとても言えないと思います。投げたら勝手に木の実が火を噴いたっていう……はい、そんな感じだったので」
「だが少なくとも、そいつはお前が何もせェへんにも関わらず、自ら火を噴いた。そうやんな?」
「そうです」
「お前、ポケットモンスターというゲームを知っているか」
 さすがに面食らった。
 ポケットモンスター。あの、ポケモンのことを言っているのだろうか? 僕がかつてカントー大会で優勝した、あの? 僕にはわからなかった。どうして自殺未遂の少年と、ゴロツキみたいな研究者が、わざわざ子供用携帯ゲームを話題としなければならないのだろう。ほかに話題はないのか、政治についてとか、人生についてとか、野球についてとか……。
「はい……知っていると思います。あのピカチュウとか出てくるやつでしょう」
「そう。あのゲームにはジョウト地方を舞台とする第二作を作る企画があった。本当はな。残念ながらそいつは打ち切られてしまった。だがともかくな、その第二作には『ぼんぐり』が登場するはずやったんや」
「……そうなんですか」
 いま僕たちは何の話をしているのだろう? ポケットモンスターの第二作は、無数の人々の期待に反して終ぞ発表されることがなかった。雑誌とインターネット(当時はいまほど隆盛してもいなかった)で飛び交ったのは出所不明の噂だけで、制作会社はまともな声明さえ出すことがなかったのだ。気の抜けた返事をする僕に、速足に洞窟の凸凹を進むマサキは、その抜身の視線だけ僕に差して言葉を向けた。
「おい。ぼんぐりを扱う以上、覚悟は決めェよ、ヒョロガキ」
 さすがに僕は息をのんだ。マサキは僕を睨み付けていた。それは目つきが鋭いとか、そういう物理的な意味ではなく、彼は視線に高熱を込めて僕を焼いていたのだ。それは怒っているという風でもなく……まるで、僕に当然のごとく課されている責任を、問題なく果たすよう迫っているようだった。責任? 僕みたいなヒョロガキに、マサキはどんな責任を見ているというのか。
 背筋が凍る思いであった。





 僕たちがマシロを発見したのは、洞窟の比較的奥のほうまで進んでようやくのことだった。30分以上かけて、歩行距離にして優に2、3キロは進んだような、地上からの深さでいうと10メートルは潜ってしまったような地点である。マサキは涼しい顔をしていたけれど、もとがもやしっ子の僕は100メートル走を10回連続で走らされたみたいにゼェゼェ息を切らしていた。情けないと思う奴に問い詰めてやりたい、人の手にかかっていない、本物の岩肌の洞窟を歩いた経験はおありか。道とは原則的に人為によって生まれるもので、自然は人が歩きやすいかどうかなんてこと気にしないのだ。洞窟の表面は数値のバラバラな棒グラフみたいに凹凸ばかりで、僕から根こそぎ体力ってやつを奪った。
 マシロの発見は、残念ながら僕たち男性陣の安堵とイコールではなかった。彼女は僕たちが追いついたまさにその時、厳つい体躯の獣と相対していたのだ。もともと度胸のあるほうではない僕はヒッと息をのみ、肝をつぶした。だいたい、都会に住んでいれば野生の獣を生で目にする機会なんて滅多にないのだ。そいつの放つナマモノの威圧感は、僕の心臓をギュルリと締め付けた。たとえば動物園でライオンを鑑賞していたら、人と獣を隔てる柵が手違いで上がってしまった際に感じるであろう、境界線なしに偉大な命と空間を分け合う恐怖。
 獣は大熊らしかった。濃褐色の剛毛におおわれた強靭な体躯は2メートル近くもありそうだ。隆起した両肩には、複数の毛の房が、ナポレオン帝政時代の軍服にある装飾のごとく、妙に美しく垂れている。前足の腕部分は力強い太さを持ちつつも、少々長く、引き締まった印象すら与える。先細る巨大な爪は左右10本、恐ろしく尖っていた。そんな大物が、威嚇のためであろうか、ずんぐりした後ろ足2本で直立していたのだった。マシロの持つ松明によって熊の背中側に伸ばされた影は、異様なほどに長く伸びていた。
 マシロは目を見開き、遠目からわかるほど冷や汗を流して、表情筋をおそろしく強張らせていたが、悲鳴を上げて刺激しないだけの理性は保てていたようだった。あるいは声さえ出ないか。あぁ、僕は声さえ出ない。
 マサキは、若人2人が恐怖におののいているに目もくれなかった。それだけならまだよかった。彼は唯一恐怖に身体を縛られていないらしく、いつも通りの仏頂面を貼り付けているだけのように見えた。素晴らしい、肝の座った態度だ。ところがこの男はここでとんでもないことをやってのけたのである。
「おい、そこなクソ熊」
 ――と大声で獣を呼んだのだ。もう正直頭がついていかな過ぎて、とにかく「ハァ!?」ってなった。大熊はのそのそとこちらを振り返り、僕は熊の腹部に黄金色のラインが、整った輪を描いているのを発見した。
「落ち着いてよく見ィよ、そいつは襲う対象ちゃうやろうが。お前が話つけんとあかんのはこっちのヒョロガキじゃ、ボケ」
 ……冗談はやめてくれ。マサキの発言を理解したわけでもなかろうが、大熊は二足歩行のままこちらのほうへ歩き始めた。一歩ごとに地面が揺れているような心地がする。僕の身体じゅうの発汗機能がフル稼働し、その代わりに口の中は砂漠のように乾いた。熊は僕を目指しているかのようだった。
「さて、ガキ。何を言おうとしてるかわかるとは思うが」
 近づいてくる猛獣を背景にして、マサキはこちらに振り返り、いつもの調子で僕に話しかけた。まるで、申し訳ないがコンビニまでちょっと使いを頼まれてくれないか、とでも言ってる口調で。僕の鼓膜の奥の奥、進んで腹の底まで、巨体が歩を進める猛烈な足音がズンと響く。





「あの熊をやっつけてくれ」

■筆者メッセージ
文合わせ参加したかったのですが…!! 残念ながら今日まで時間が取れませんでした。せめて読ませていただきます。
コロポン ( 2013/11/19(火) 03:12 )