歴史にキスを!
序章 第8話
序章:
第8話





 とにかく例の、マシロの言う「契約」というのは絶対的らしい。僕は彼女の命令に逆らうことあたわず、『研究所に帰って寝る』ことしかできなくなった。逆らおうとすればまた、あの鋭利な痛みがこめかみを走るというわけである。ふとした失敗のように手助けを申し出てしまった僕にとって、それが強制的に却下されたというのは、残念に思うべきことか安心すべきかわからなかった。できるのは、妙にもやもやした心持ちで、研究所への暗路を進むことだけだった。
 唯一のちゃんとした肉親……。この言葉はいまだに僕の脳内を駆け巡っていた。さながら何時間も入れっぱなしの洗濯物のように、もうこの言葉は十分すぎるほどくしゃくしゃになっていた。それでも何か洗い落とせないような気でいるのだ。肉親……。僕の頭に浮かぶのは、中学受験の勉強で、あまりのスパルタに泣きじゃくりながらうたた寝した僕を平手打ちした母のことだった。彼女はどういう気持ちで、僕の濡れた頬をひっぱたいたのだろうか? 次いで思い出されたのは、その1年後、僕の落ちた私立中学に合格した弟が合格発表から帰ってきた時に僕に見せた、どうにも申し訳なさそうな表情である。彼はあの時どんな気持ちを心に抱えていただろうか? 僕の脳内のイメージは奔流のように、僕と僕の家族との様々なイベントを映し流して、そして最後にはあの時の父親に行きつく。ポケモンの大会に内緒で出場し、優勝したことが明るみになったあの夕食後。怒られるかもしれないけど、万々が一にもちょっとだけ褒められることなんてないだろうか……などと考えていた僕に父が向けた、あの、路上のゲロを見るような蔑みの目。……「ゲームなんていうものはバカがやるものだ。それで1位になるということは、わかるかコウノ、お前が最もバカだということだ」……。唯一のちゃんとした……。

 顔を上げるともう研究所は目の前だった。さて僕はどうするべきか? 研究所にたどり着いた時点で、マシロのかけた妙な金縛りは解けたらしい。「寝てください」のほうは実行しなくてもいいのか。彼女もこちらの命令はさして本気でもなかったのか。僕は扉を開けて建物の中に入った。入ってすぐ、椅子ばかりの部屋――僕がマシロに突然の接吻をされた忌々しい部屋――に、僕の衣服が丁寧に畳まれているのを見つけた。触ってみるときちんと乾いている。マサキがやってくれたのだろうか? あのヤクザのような男が洗濯機を回し、乾燥までかけているのを想像すると失礼な話ながら笑えてきた。僕は白衣を脱ぎ、服を着る。少し肌寒さを感じて、結局その上からまた白衣を着た。
 さて、命令の強制がない以上、これからどうするかは僕にかかっている。僕は予備校のことを考えた。エアコンの真下に席を取った時の、学習用冷気に髪を撫でられる心地。画面には数年前にでも録画されたであろう、個性的な熟練講師の簡明な授業。今日の午前中に受講したのは世界史だった。1848年に、中欧を主として起こった大動乱について。登場人物は体制側と反体制側に明白に分類され、事件の名も年代順にきちんと整理された説明がなされる。この講師の話を聞くたび、歴史とはこんなにも分かり易いものであったのかと感心するのだ……。
 思えば僕は昔から、歴史の話を聞くのが好きだった。かつての人々がどんな一生を送ったのか。そこにどんな悲哀があり、屈辱があり、わずかな喜びがあったか……。政治や思想の難しい話は分からなかったけれど、そういったドラマに耳を貸すのは決して悪い気分ではなかった。しかし、それも小学生の途中までの話であって、「社会」の授業に「歴史」の項目が登場してからそれは僕を追い詰める何物かに、突如変貌してしまった。それからは有名人と有名事件の名称と年代を覚えることこそ僕にとって歴史のすべてであって、たとえば名も記録されないごく普通の人々の一生におけるドラマは、教科書の外側、つまり世界中どこにも必要とされない域に分類されたのだった。すべては受験のために……両親と自らのプライドのために……予備校的世界のために……。あそこに帰らなくては……。

 僕は顔を上げて歩き出した。研究室のドアというドアを片っ端からあけて、そのうち一つに入る。そこは潔癖を感じるまでに、生活感のなさを主張するのに忙しい寝室だった。月光に照らされて、光が反射するほど磨かれたフローリングと簡易式のベッド、これまた丹念に磨かれた箪笥が一つと、寝台机の上に本とライト……。ベッドにはマサキが寝ている。彼は起きているときの油断のなさからは意外に思えるほど、安らかに規則的な寝息をたてていた。それを破壊しなくてはならないことに申し訳なさを覚えつつも、僕はマサキの肩を激しく揺さぶって彼を起こした。

「マ、マ、マサキさん、すみません、その起きてください……、マシロさんが、洞窟へ向かいました。助けてほしいんです! お願いです!」
 

コロポン ( 2013/10/12(土) 00:29 )