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昔々あるところに、どこにでも居るような、ごく一般的な一匹のコイルがおりました。
コイルにはトレーナーが居ましたが、今と違って昔はモンスターボールなどが広く普及していたわけではないのでトレーナーというよりも、仲の良い人間の友達といった感じでした。
トレーナーは裕福な家の男の子で、大きなお屋敷の広い庭にコイルは住んでいました。
男の子は体が弱く、あまり外で遊ぶことはできませんでした。
ですが、男の子はちっとも寂しがったり悲しがったりはしませんでした。
なぜなら男の子は本を読むのが好きだったし、なにより仲良しなコイルが居るから一人もへいちゃらだったのです。
毎日毎日男の子はコイルに色んな本を読んであげ、コイルはその度静かに浮かんで男の子の声を聴いていました。
そんなある日、男の子が広い海を見たいと言いました。
コイルは海を知りません。ですが、男の子が見たいと思うものは全て見せてあげたいし、また、自分も見たいと思いました。
コイルは男の子の手を取り、部屋を飛び出しました。しかし、男の子は慌ててコイルを振り払ってしまいます。
先ほどもあったように、男の子は体が弱くて海どころか屋敷の周りの小さな森すら越えられそうにありませんでした。
しかしコイルはそんなことも知らずに、振り払われてしまったことがただただ悲しくて仕方がありません。
ぼくのことが、きらいになっちゃったのかなあ。
ぼくとはうみをみたくないのかなあ。
コイルはそう考えると、とにかく悲しくて悲しくて仕方がなくなって、お腹のネジがきりきりと軋みました。
男の子はそんなコイルを見て、自分の体が弱いことを初めてつらく思いました。
そう思ったら自然と涙があふれてきて、男の子は
うみがみたい
ぼくもコイルとうみをみにいきたい
と、強く強く言いました。
男の子はコイルを胸に抱いて、お手伝いさんが何事かと駆け付けるまで泣き続けました。
次の日コイルが男の子の部屋に行くと、男の子はプラチナのような金属でできた円柱型の飾りのついたペンダントを手に持ち、コイルを迎えました。
これをあげる。たんじょうびに、パパとママからもらった、ぼくのたからもの。
まえに、よんだことがあるんだ。いちばんだいじなものって、ぶんしんになるんだって。
それで、これはぼくのかわりだから、これをもって、コイルはうみをみにいって。
そうすれば、僕も海に行ったことになるんだよ。男の子はコイルを両手でしっかりと持ち、大きくてまん丸な目を見て言いました。
男の子はコイルの頭のネジにしっかりとペンダントを巻くと、口元に手を当てて、ふふ、と笑いました。
これは男の子の癖の一つで、こうやって笑う男の子は冒険小説やファンタジー小説を読んだときなど、決まってわくわくどきどきしていました。
コイルはこの癖がとても好きでしたが、今回は別です。何しろ男の子自身とは一緒に海を見に行けないのですから。
ジジ、ジジ、と寂しげに小さく鳴いて男の子の袖を引くコイルですが、男の子は相変わらず優しく笑うだけでコイルの一番欲しい「なんて、うそだよ。いっしょにいこう」という言葉はくれませんでした。
それどころか男の子はコイルをやんわりと撫で、「うみにいって」「ひとりじゃないよ」と言って手を放してしまいます。
男の子のその反応に、コイルは思いました。
やっぱり、ぼくのことがきらいになっちゃったんだ。
きのうあんなにいっていたのも、きっとうそだったんだ。
うそだったんだ、うそだったんだ。
コイルが寂しそうに男の子を見つめていると、部屋の扉をノックする音がしました。
男の子が返事をすると、部屋に白い服を着た知らないおじさんや女の人が何人も入ってきます。
初めて見る人と、その人数に驚いたコイルは開いていた窓から飛び出します。
心配そうに男の子がコイルを呼びましたが、コイルは夢中で森の奥へと隠れて見えなくなってしまいました。
その日の夜から男の子の家には見たことのない人がたくさん出入りするようになりました。
窓も開けられることがなくなり、男の子の部屋も布で目隠しされていて、中を伺うこともできません。
そして、コイルと男の子はそこから二度と会うことはありませんでした。
暗い暗い針葉樹の森の中を、プラチナのペンダントを巻いたコイルはさまよいます。
男の子に会いたくても、もう会えません。途方もないくらやみの中を、30センチのちいさなかたまりが、ただただ宛てもなく浮かびながらさまようだけです。
深い淋しさを抱えながらコイルは思いました。
あのこは、どうしているのかな。
ひとりでどこにいってしまったんだろう。
こんなかざりはいらないから、いっしょにいたかったな。
男の子との日々を思い返すと、またお腹のネジが軋むような錆びついた感覚になって、コイルを余計に独りぼっちにしました。
コイルは思い出の中に住む男の子に語り掛けるように、ジジジ、と鳴いてみますが、当然返事はなく、虚しくコイルから離れた声は、まわりを囲む針葉樹の皮に染み込んでなくなります。
そうしているうちに男の子と最後に会った日はどんどんと遠くなって行き、コイルをひとり古い森へと取り残して過去の物へとなっていきました。
いくらか立ち枯れた針葉樹の並ぶ林に、コイルは居ました。
いつか巻き付けられたペンダントの鎖はもはやコイルの一部として、面影を保ちながら相変わらずそこに在りました。
空を覆う葉の隙間からふりそそぐ朝日を受け、しろがねに似たコイルの体と、ペンダントトップがきらきらと輝いています。
コイルはもうほとんど男の子のすがたや声を覚えていませんでしたが、読んでくれた広い世界のお話のこと、動く度に体の表面を転がって動くペンダントのこと、それを受け取った日だけは忘れることができませんでした。
あの時の男の子の手の温かさも、わくわくした時に出る含み笑いも、全部全部コイルにとってみずみずしい思い出として色濃く残っているのです。
男の子が読んで聞かせてくれた「うみ」は、池や沼とは違ってとても広く、多くの人やポケモンが冒険をしたり、仲良く暮らしている場所でした。
コイルと男の子が見ていた太陽よりもずっと明るく、近いらしいその「うみ」は、空想の場所でしかありませんでしたが、あの部屋にはたしかに存在していました。
その空想から、コイルは男の子と行きたかった「うみ」思います。
うみのすなは、しろくてひかってるんだよね。
なみがあって、そのおとはすごくおちつくらしい。
いっしょに、すなのうえにすわって、うみをみる。
あのこがわらうと、きらきらして、うみにきてよかったっておもう。
そのひはぜったいに、いいひだ。はれてて、かぜのきもちいいひだ。
そうやって「うみ」を二人で見た時のことを想像してみると、不思議と男の子と別れた日から止まっていたコイルの時が、少しだけ、動くのです。
錆びて動かなくなったネジがなめらかに動くような幸せな感情にあふれて、コイルの見えない傷の痛みがやわらかくなっていきました。
結局、コイルは本当の海に行くことは一度としてありませんでした。
ですが、たしかに男の子とコイルは「うみ」に行ったのです。
それは二人だけで作った小さな空想の世界で、本物とは似ても似つかないかもしれないものでしたが、二人にとってはそれが本当でした。
星をちりばめたような光り輝く砂浜に、心地の良い音の出る波、明るく暖かい太陽に照らされてきらめく水平線を見ながら、座り込んでいる男の子と光を反射しながら浮かんでいるコイルがいます。
男の子はかつて体が弱く外で遊んだりできませんでしたが、今では浜辺で大好きな友達と二人、穏やかな風を浴びながら、わくわくする二人旅の準備をしています。