再会
広く、荒野を渡る風の音。
見渡す限り、土が面(おもて)を見せ、雑草の一本さえ生えていない。
少年がひとり、銀色の棒を杖がわりに、不毛の地を歩んでゆく。
標なき大地に、少年の足跡が道となって続いていく。
彼が顔を上げ、微笑むその先には、白レンガを積み上げた有史の街の跡が、悠然と存在している。
風が吹き、一枚の紙が、誘われるように壊れた窓から身を踊らせた。
少年は、時折手に持った金属の棒を振り回しながら、まっすぐ、できるだけまっすぐ街へ進んでいた。
レンガで区切られた外側に、緑はない。
天然に存在し得ない、ベンゼン環や多価元素の組み合わせが、大地に萌ゆる命を枯らしたのだと、少年は聞いていた。
この荒れ果てた大地も、壊れた市壁も、先の戦争の負の産物だと、少年は聞いている。
金属探知機を杖がわりに進みながら、少年は、そんなことは関係なく、ただ目前の遺跡がかつてどれだけ美しかっただろうかと考えている。
戦争の最中(さなか)、岐路に立つ度に、この街は戦場となったのだという。
かつては、市壁が遥か大地の向こう側まで伸びゆき、天から見るとひとつの象形を成したという。
五芒星であったとも、神格の鳥獣であったとも言われるが、それを確かめる術はない。
一番内側の一枚を遺して、大戦の時に全てが崩落してしまった。
そして人は、壊れた壁を見上げるしかない。
少年は、ひとつの街で、三度夜を明かすことを習わしとしていた。
そう決めたわけではなく、街に着き、街を見て回り、眠り、次の日は午後まで寝過ごしてから街を見、そうして最後の日に出立の準備をして眠ると、自然と前を向き、歩き出す心が整うからだった。
だから、少年はこの街でも三夜過ごすつもりだった。
まず、一日目は街を見て回る。見て回りながら、連泊のための宿を確保する。
その心づもりをした少年が、杖を置き、一旦腕を休めてから、再び歩き出そうとした時、何かが風に誘われてヒラリと舞い飛んだ。
何だろうか。
少年の上向けた目に、青空と、ヒラリ、真白な紙が見えた。
ふと誘われて数歩進み、紙を手に取ると、その真白の面に黒い模様があるのを、少年は見て取った。
円を基調とした模様に、わずかに凹凸がある。円の中にもうひとつ、黒が掠れて小さな円の形を示していた。
凹凸のある方を上に見て、小さな円を肉球だと考えれば、これは獣の足跡に見えなくもなかった。さりとて、何の足跡かと問われれば、少年には分からなかった。
けれど、それを郷里の土産にと、畳んでいくつもある内ポケットに仕舞い、細かな探索は明日にしようと、まずは宿を探し始めた。
最後に市壁を壊したのは、人間らしい。多量の爆弾を降らし、大地を荒れさせたらしいが、その頃はもうこの街に人はいなかったはずで、何の為にそうした行動に出たのか、大きな謎のひとつだった。
ただ、その為に美しい景色がひとつ失われたことを、少年は悲しんでいた。
次の日、少年は相変わらず金属探知機を握りながら、街の中を巡っていた。服屋に機械屋、旧時代の店には色々と面白いものがある。
少年が選んだのは、過去、デパートメントストアと呼ばれていた建物だった。戦争が起こる前、人はここに行けば、お金を出すことで何でも手に入れられたという。果たして、それは嘘か真か。少年は、いくらなんでも季節でない食べ物は手に入らないだろう、嘘だと思っていた。
少年は壊れて動かないエスカレーターを登り、二階へ向かう。
この地域の文字で、食べ物と書かれている看板を目印に、内部を巡った。
やはり、食べ物の売られていた場所には、何もなかった。
通路を作るように置かれた区切りのある棚が、かつての、食べ物が並んでいた時代の盛況を匂わせた。
少年は三階に上がろうとして、フロアの片隅に置かれたゴミに目を止めた。
一見、丸い、枯れた木の実のようなそれは、何かでコーティングされ、ただ中身を抜かれ捨てられたのではないことを匂わせた。
力を込めると開いて、しかし中空の木の実である。
そこに捨てていこうかと考えて、いや、けれど、先人が壊れないように大事にしていたものだからと、少年はたくさんの内ポケットのひとつに木の実を入れた。
三階、四階と服屋と機械屋を見て回って、五階に辿り着くと、少し変わった風景が広がっていた。
服屋とも機械屋とも、食べ物屋とも違う、虹の色で彩られた壁。
ポケモン、と書かれた昔の文字が見える。
かつて、ポケモンと人が共に在りし時代、人はポケモンの為に買い物をしたのだという事実が、少年の胸に波紋を起こした。
そこでさらに、少年は奇妙な物を見つけた。
ポケモン用の食料品なのだが、幾箱か残り、しかもそのいくつかが開いている。
人の手でない、何かで乱暴に開けられた跡で、中を見ると、綺麗に食べ尽くされているか、腐って残っているかだった。
少年は、箱の周りにさらに何かないか、調べてみた。
綺麗に拭き掃除されていただろう床は白く、汚れがないのに、その箱の周りだけ黒ずみ、あちこち黒点が散っていた。
少年は、点々の後を追った。
床のそこここに残る黒は、よく見ると先日の紙の模様に似ている。
ポケットから紙を出して検めると、大きさから形までそっくりであることが分かった。
少年は紙を仕舞い、このイタズラの主が誰なのか、見極めようと先へ急いだ。
少年は、バルコニーへ出た。
なぜそこに足跡があるのか分からなかったが、確かにここに、模様は続いていた。
少年は、何か手がかりがないかと周囲を見回す。
見ると、バルコニーの隅で、小さなプランターに名の知れぬ木が植わってあった。
名の知れぬ木は実をつけ、その実も名の知れぬものだったが、どこか少年の食べ物と同じ姿形をしていた。
プランターの周りには、さっきと同じ模様があった。
結局その日は足跡の主を見つけられず、少年は宿に戻った。
戦争が始まった頃は、ポケモンと人間が手を組んでいたらしい。
ならば、何と戦っていたのかと思われるが、少年はうーんと唸って、何かと、と答えるしかない。
何か諍いがあって市壁を壊したらしい。
その時はポケモンと人間が協力したのだろうが、少年に委細を知る術はない。
少年はバッグの中身を改めていた。
折良く宿とした家にあった保存食料を頂き、如何に保存が効くのかは知らなかったが、バッグに入れるところだった。
内地の、少年の郷里に近い街ならば、何かしら買い足し、整理、破棄などできるが、無人のこの街では何もやることがなかった。
外には雨が降りこめ、雨漏りのないこの家に閉じこもるしかない。
少年はため息をつくと、内ポケットから、先日の紙を取り出し、これは置いていこうか、破棄しようかと考えていた。
くー、と小さな声がした。
少年はハッとして顔を上げた。
雨が降りこめる中、聞き違いかと思った矢先、もう一度くーと声がする。
少年は立ち上がり、壊れた蝶番に揺れるドアを弾き飛ばし、くーと音のする方向へ走った。
二階から一階へ、一階からエントランスへ駆け抜け、音の記憶を頼りに扉を開くと、外は土砂降りの雨で、視界も何も効かなかった。
諦めて部屋に戻る少年の目に、昨日と同じ模様が、今度は水で床に描かれているのが入った。
もう一日、ここにいよう。
少年は雨の向こうに消えた、見えない隣人を探すことに決めた。
二度目の市壁の破壊は、はっきりと歴史に残っている。
ポケモンが、ポケモンたちだけで、市壁を破壊したのだ。
それが、この街が岐路にありきと言われる由縁。
その日から、その時から、戦争は人とポケモンのものになった。
原因は人がポケモンに撃ちこんだ兵器とも、ポケモンを裏切った人間ともその逆とも言われているが、本当のことは何も分からない。
ただ、ポケモンたちは人の元から去り、人もまたポケモンたちの元から去った。
後に壊れた市壁だけが残った。
空はカラリと晴れ、あちこちに水たまりが残っていたが、石畳で作られた道に、昨日の隣人の足跡は残っていなかった。
少年は金属探知機を宿に置いて行き、街に辿り着いた日に模様のある紙を手に入れた、あの場所まで来ていた。
少年は空に手をかざし、待った。
またあの紙が現れるのではないかと、窓のひとつから隣人が手を振るのではないかと、空(くう)を探りながら、待っていたのだ。
白レンガの街並みと、窓の並びが沈黙を守り、風が静寂(しじま)を縫って吹き抜けた時、空はひたすら空っぽで、日は早くも沈み始め、少年も、明日にはここを発たねばならないかと思っていた、その時。
いくつもの風が、空が、いくらもある紙を舞い遊ばせていた。
少年の求める模様のある紙が、いくつもいくつも、赤と紺の空から降ってきた。
ある一点、壊れた窓からその紙が舞い飛ぶのを見た少年は、一目散、その建物のその場所へと駆け抜けていった。
階段を上がり、かつてドアのあった場所から中を覗くと、そこには、一束の紙と、そして今は誰も使っていないインク。
あの戦争の前、あるいはポケモンと人が分かたれる前、誰かがそこにいて、今は誰も使わなくなった言葉を、一枚一枚の紙にインクで書き記していた。
その面影に、誰がいたずらしたのか、文字を知らぬ彼か彼女は、言葉の代わりに足跡を、紙に書き記していたらしい。
床に広がった紙に、ぞんざいに歩きの跡が付され、それらは風に乗って、壊れた窓から外へと羽ばたき出す。
事の始終を見た少年は、もうここには用はないと、背を向け、出口へ向かった。
隣人には会えなかった。
それもまた一興、と思い決め歩き出す。
部屋を出て、階段を下り、建物の外へ、その目の前に、フラリ、獣が姿を現した。
犬に似て、犬ではない。
中型犬ほどの大きさで、顔にはヒゲに似た毛を多く蓄えている。
背には紺の毛を羽織り、それはマントのように、首元から尻尾の先までの部位を覆っている。
かつて、人にハーデリアと呼ばれ、人を支え、人と共に生きていたポケモン。少年は、そのことを知らなかった。
ただ、その者の喜びを感じた。
その者はワン、とひと声鳴いた。
少年が、まるで決められていたことのように内ポケットから木の実を出すと、その者は鼻先でそれに触れ、吸い込まれ、そしてまた何事もなかったように木の実の中から姿を現した。
それが、ポケットモンスターと呼ばれる生き物たちの特徴であることを、少年は知らなかった。
しかし、木の実を掲げ、隣人が歓喜の遠吠えを上げれば、これからかの者と築くべき関係が、自ずと見えた気がした。
夕焼け時に挨拶を交わし、次の朝日に共に発つ。
少年の隣には、新たな隣人の姿があった。
荒野を風と渡る。
標なき不毛の大地に、少年とポケモンの足跡が、新たな道を描いて地の果てまで続いていく。